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自由になればなるほど、セルフコントロール能力が試される

2014年10月06日 17時41分 JST
Doug Berry via Getty Images

生きていくために必要な能力にも色々ある。

 

 技芸の素質。バイタリティ。忍耐力。人当りの良さ。どれも、とても大切だ。ただし、求められる能力には環境による違いがあって、例えば、平安時代の農民に求められた能力と21世紀のサラリーマンに求められる能力は同じではないだろう。

 

 現代人は自由だ。少なくとも昔の人々に比べれば、職業も居住地もコミュニケーションの相手も選択の余地が大きい。もし、世の中が転覆しなければ、こうした個人の自由度はさらに高まっていくかもしれない。

 

 では、自由度の高い生活を営んでいる現代人にはどのような能力が求められるのか?ネットの現状をみているとヒントが見出せるように思うので、以下にまとめてみる。

 

 

■ネットの上手い人/下手な人を分かつもの

 

 インターネットは自由だ。何を読んだって良いし、何を発信したって構わない。「個人が自由に行動選択できる」という意味では、インターネットは現実世界よりもずっと先を行っていたし、今でも先を行っている。

 

 では、その自由なインターネットで何事かをやるにあたって、必要な能力は何だったのか?

 

 知性やユーモアも必要かもしれない。だが、それ以上に気になるのは、ネットユーザーの少なからぬ割合が、宣伝や流行に刺激されるたびに流され、右往左往した挙句、案外おなじ場所を堂々巡りしていたりすることだ。あるいは、インターネットを奔放に使っているうちにコントロール不能に陥ってしまい、自業自得としか言いようのない炎上状態に陥ってしまう人もいる。

 

 せっかく自由なインターネットを与えられても、その自由を巧く取り扱える人は、実は、思いのほか少ないのではないか――再起不能な炎上状態になってしまう人は論外としても、いわゆる「意識の高い」ネットユーザーが、欲に駆られてあっちにウロウロ、こっちにウロウロなどというのも、あまり利口なネットユースとは思えない。どれだけアンテナ感度に優れていようとも、あっちこっちで才能の火花を散らしてばかりでは、結局、中途半端に終わってしまう。

 

 ウロチョロと落ち着きの無い人達に必要なのは、自由度の高すぎる環境ではなく、腰を据えて取り組めるような適度な不自由なのかもしれない。

 

 反対に、自由なインターネットを有効に使いこなしている人達はどういう人達なのか?

 

 ネット上手な人達のなかには、流行に敏感な人もそうでない人もいる。ただ、殆ど共通しているのは、セルフコントロール力が強い、ということだ。

 

 彼/彼女らは欲目を煽るような情報に飛びつくことが少ない。ネット上に新サービスが現れるたび、念のためアカウントを取得しておくことこそあれ、時間や情熱をどれぐらい傾けるのかは注意深く判断している事が多い。流行のネットサービスでさえ、自分のネットライフに不要だと思えば選ばない。

 

 方向性の点でも、ネット上手な人は落ち着いていることが多い。自分のやりたい事・やらなければならない事の方向性が、簡単にブレたりズレたりしない。「継続は力なり」とはよく言ったもので、この手のネット上手は継続による恩恵を(多かれ少なかれ)かならず享受している。

 

 (スルー力も含めた)衝動制御の面でも優れている。衝動に身を任せてインターネットをやっていては、アカウントが幾つあっても足りない。ネット上で長生きするためには、奔放に発言するのでなく、なるべく考えて発言する習慣が必須だ。もっと言うと、「いかに発言しないようにするか」が重要になってくる。

 

 [関連]:「何を書かないようにするか」が問われている - シロクマの屑籠

 

 

■気が散りやすい人・移り気な人が損をする社会

 

 こうした現状をみていると、行動の自由が保障された(インターネットのような)環境下では、多少の才能差や馬力差はセルフコントロール力によって十分カバー出来るように見える。むしろ「セルフコントロール力を伴っていない才能や馬力は使い物にならない」と言い換えたほうが適切か。どんなに潜在力が高くとも、気が散ってばかりでは才能が研磨されないし、長続きしなければモノにならない。

 

 十分に自由な環境下では、私達はいつでも、右に行くことも左に行くことも、Aを選ぶこともBを選ぶこともできる。選択の自由が尊重されているのは素晴らしいことだが、反面、私達は常に選択し続けなければならない。

 

 これまでの不自由な環境下では、「そのまま続ける」や「同じ方向を向き続ける」は選択というより、強制された結果だった。もし変更が可能だとしても、変更には大きなコストを伴った。私達は選ぶというより仕方なく同じ事を継続していたし、どうしても方向転換しなければならない場合には、コストやリスクをできるだけ吟味するものだった。気が散りやすい人・移り気な人にとっては、継続的活動がやりやすい状況だったとも言える。

 

 ところがネットのように自由度の高い環境下では、その正反対のことが起こる。変更に要するコストはとても小さく、ちょっとした動機でも、居場所や活動を変更できてしまう。そのかわり、さまざまな選択肢や可能性の誘惑に耐えながら「そのまま続ける」「同じ方向を向き続ける」のは、なかなか大変だ。気が散りやすい人・移り気な人にとって、継続的活動のやりにくい状況になったと言える。

 

 こうした傾向は、もちろんインターネットだけにあてはまるものではない。現実世界でも、自由度が高くなればなるほど簡単に居場所や活動を簡単に変えられるようになる反面、同じ場所に留まって継続的活動はやりにくくなる。

 

 社会全体が不自由で構造化されていた頃は、人間のセルフコントロール力は現在ほど必要ではなかった。なぜなら自らをコントロールするまでもなく、身分や出自といった種々の束縛によってコントロールされていたからだ。しかし、そうした束縛が無くなれば無くなるほど、私達は私達自身を適切にコントロールしなければならなくなる。コントロールの失敗の結果が、そのまま自分自身に跳ね返って来る。

 

 こうした社会変化によって痛手を食うのはどんな人か?

 

 それは、気が散りやすい人・移り気な人だ。

 

 実際、こうした社会変化を反映するかのように、今日の精神医学のトレンドは、AD/HD*1や双極スペクトラム障害に大きく傾いている。もちろんその背景にはアメリカ精神医学会の診断基準の変化もあるけれど、そうした診断基準の変化自体、社会のからの要請と表裏一体な関係にあるわけだから*2、精神医学のトレンドに影響を与える程度には、個人それぞれに要請されているセルフコントロールの程度は高まっていると推測される。

 

 昔に比べて、ちょっとした落ち着きの無さや衝動コントロールの悪さが社会適応の問題たりえるようになった、とも言える。

 

 

■自由は自分で制限・制御しなければならない

 

 では、こうした自由な状況下で私達はどうやってセルフコントロールしていけば良いのか?特に、気が散りやすく移り気な人はどうすれば良いのか?

 

 もちろん、セルフコントロールは難しいし、完璧にこなせる人は稀だろう。それでも、小さな心がけによって、セルフコントロールの負担を"軽くする"ことはできる。

 

 [関連]:躁うつ状態に備えて論理的なセーフティーネットを張っておくとマシになる - 太陽がまぶしかったから

 

 上記リンク先では、twitterをやり過ぎないようにするために、「パスワードを暗記しにくいものに変更する」「発言までの猶予時間を増やす」といった手法が紹介されている。twitterが自由ができる環境をあえて不自由な環境に変更することで、自分自身の行動を制御しよう、というわけだ。

 

 「あえて不自由な環境」の作り方は、他にもたくさんある。「わざとブックマークに登録しない」「ネットが立ち上がるまでの時間をわざと長くする」「モバイル端末を持ち歩かない」etc......。

 

 自由な環境で気が散るなら、適度に不自由を設けてやればいいのである。

 

 もちろんこれは、小手先のライフハックに過ぎない。が、小手先とはいえども、物理的に設けた制限というのは馬鹿にできるものではなく、(ネットユースの)自由の弊害をかなり解消できる。もし疑問に思う人がいたなら、モバイル端末を持ち歩かずに三日ほど旅行に出かけてみればわかるはずだ。物理的な制約は、セルフコントロールの問題をしばしばチャラにしてくれる。

 

 もちろん、長期的には自分自身のセルフコントロール力を高める必要性はあろう。けれども応急の対策としては、他の選択肢に気を取られてしまわないよう、敢えて不自由な環境をつくってしまう手法は有効だ。これも、ネットユースに限った話ではない。

 

 私達は、社会の進歩のおかげで自由になった。そのかわり誰も不自由を与えてくれなくなった、とも言える。だからこそ、適度に不自由をつくることも含めて、自分自身を上手にコントロールする術をできるだけ身に付ける必要がある。

*1:注意欠陥多動性障害

*2:ここで、「製薬会社の思惑が」などと言う人もいるかもしれない。もちろん製薬会社の思惑も重要には違いない。しかし、実際に製薬会社の思惑が大きいとしても、彼らとて、社会の要請が乏しい領域で薬を出すよりも、社会の要請が高そうな領域で薬を出すことを考えながら研究・開発している点は考慮しておく必要がある。アラン・フランセスの『正常を救え』を参照する限り、むしろ、社会の要請が高そうな領域こそが、製薬会社のねらい目、ということになる

(2014年10月6日「シロクマの屑籠」より転載)