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どうすれば部下や子供の読書嫌いを克服することができるか?

2014年02月28日 19時27分 JST | 更新 2014年04月30日 18時12分 JST

昔から多くの人が「本を読め」と言う。あなたも言われたことがあるだろう。私が過去に在籍していた会社でも、本をたくさん読むことが推奨されていた。「月に10冊以上ビジネス書を読むこと」と。

しかし、本が好きな人は良いが、嫌いな人は「一体何のために?」と疑問を持たない人はいないだろう。

それに対しての返答は多くの場合、「社会人としての常識」「勉強せよ」「知識をつけるため」などと、要するに「仕事に役立つから読め」という趣旨に違いない。

もちろん、「仕事に役立つから読む」というのは正しい。まっとうな説得である。

しかし、子供に「将来良い仕事につくために勉強しろ」と言うことと同じく、その言葉はほとんど効果が無い。だから、「役立つから本をたくさん読むようになった」という人を私は実際にはあまり知らない。

私の周りで本が好きな人はほぼ例外なく、「面白いから読む」という人々である。テレビが、ゲームが、旅行が楽しいのと同じく、「本を読むのが最高に楽しいから」という理由で読む人が圧倒的多数である。

だいたい、「役に立つから」という理由で読んでも長続きしないのだ。

子供に対しても同じである。「知能の発達に役に立つから」という理由で本を親が読ませようとすれば、かえって子供は本が嫌いになる。

本当に面白い本ならば、子供に読ませようとする努力は不要である。子供自ら、「これ読んで」と持ってくるだろう。そういう本を「用意する」のが、親の役割だ。

したがって、部下や子供に本を読ませたいなら、もうこれはひたすら「面白い本」を紹介するより他はない。

文豪と呼ばれる夏目漱石や芥川龍之介、太宰治などの作品がこれほど読まれているのは、多くの人にとっては文学として優れているかどうかはどうでもよく、「知的な楽しみ」を与えてくれるからだ。これは、文学だけではなくビジネス書も同じである。

ある人が読書嫌いから本の虫に変わったきっかけとして、その本を薦めてくれた人が「あまりに楽しそうにその本の話をするから」は、別段珍しいことではない。

また、子供が本を読むきっかけになった出来事が、「お父さん、お母さんもその本を読んで育ったという話を聞いたから」も同様である。

しかし、「面白い本」は、絶対的なものではない。

例えば、私が初めてピーター・ドラッカーの著作と出会ったのは学生の時である。今は学者をやっている友人から『プロフェッショナルの条件』を勧めてもらったのだが、当時は数ページ読んだだけで眠くなった。

書いてあることが全くわからないのだ。当時の私にとって、その本はトイレットペーパー代わりにもならないくだらない本であった。

しかし、部下を持つようになってピーター・ドラッカーを読み返した時に、私は「まさに、この本は私のために書かれたのだ」と確信した。その本には、まさに今私が直面している課題や、検討しなければならない事項、悩みについて書かれていた。

「本には、人生の中で読むべき時期が存在する」のである。

実際のところ、長く読み継がれる「名著」と呼ばれる本は、やはりどれも素晴らしい。

名著が面白く無いのは、自分がまだ成熟に至っていないから、あるいは知るべきことを知らないからだ。

ノルウェー・ブック・クラブ発表の「史上最高の文学100」にも選出された名作「1984年」(ジョージ・オーウェル著)において、主人公は書物についてこう一言漏らす。

「最上の書物とは、読者のすでに知っていることを教えてくれるものなのだ」

名著はすでに知っていることを、実に上手く表現してくれている。そういった本を読むのは実に心地よい。

また、こういう意見もある。私にドラッカーを薦めた友人は言った。

「本なんて、本当は読む必要がない。なぜって、読んでわからない本は読んでも仕方ないし、読んですぐに分かることに価値はない。すでに知っていることが書いてあったら、時間の無駄だ」

ではなぜ本を読むのか。

「楽しいからに決まっているだろう。」

(2014年1月7日 Books&Apps に加筆・修正)