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気仙沼の女性たちは元気だ――強く、しなやかに復興へ向かう

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今でこそ「この町の女性たちは元気だ」と言われている気仙沼市。しかし、東日本大震災の前は、男性が強いという港町らしい一面があったという。

この町の女性たちの強さやしなやかさを引き出したのは、あるツアーでの「語り部」企画だった。女性たちは、あの日からどのようにして立ち上がっていったのだろうか。

民宿『唐桑御殿 つなかん』の女将・菅野一代さん、バレエスクール「気仙沼バレエソサエティ」を運営している高橋知子さん、『サンマリン気仙沼ホテル観洋』と『気仙沼プラザホテル』の女将・田村恭子さんに話を聞いた。

■津波で大きく壊された自宅を民宿にしてボランティアに提供

気仙沼市の唐桑半島にある『唐桑御殿 つなかん』は、牡蠣の養殖業を営む盛屋水産が運営する民宿だ。ここを切り盛りしているのが、女将の菅野一代さん。岩手県久慈市の出身で、父はサラリーマンという一般家庭で育ったが、気仙沼市で漁師をしている夫と出会ったことでこの地へ嫁いできた。

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海の仕事とは一切無縁なところで育ったものの、嫁入り後はそうはいかない。東日本大震災の前までは、家業のため毎日午前1時50分に起き、牡蠣を共に剥くスタッフを迎えに行って、3時から昼頃まで牡蠣剥きの作業をし、午後からは船に乗って牡蠣を上げていたという。

「もう丸一日、牡蠣の仕事だけをしていました。それを25年間も続けていたんです」。つらくても続けられたのは、家族の反対を押し切って結婚したこともあった。「泣き言を吐いてはいけない」と強く考えていたからだという。

「誰にも頼らないで、自分に力をつけるしかないと思っていました。常にそう言い聞かせて踏ん張っていたんです」

震災が起きたのは、そんな日々が続いていた26年目のときだった。

『つなかん』は震災以降にできた民宿だ。菅野さんの自宅は唐桑半島の海の近くに2軒あったが、1軒が屋根や軸組みだけ残して流されてしまった。その家が、現在『つなかん』になっている。

「家は、軸組みしか残っていませんから壊そうとしたのですが、2011年6月頃、気仙沼に来ていた学生ボランティアから『泊まるところがないから泊めてほしい』とお願いされたんです。屋根があるから雨風がしのげる、ということで。続々とボランティアが来て困っていたので、ここを提供し、のべ1000人くらいに泊まっていただきました」(菅野さん)

すると、若者たちが寝泊りしているその家に、魂が吹き込まれたような感覚がしたのだという。学生ボランティアは、そこを拠点に朝「おはようございます、行ってきます!」と沿岸部の瓦礫の撤去作業などに向かい、夕方疲れた体で「ただいま」と帰ってきた。

菅野さんは、そんな彼らに美味しいものを食べさせたいと思い、貴重な貝を炊いて食べさせた。学生たちは喜び、「美味しい!」と勢いよく食べる。「それがたまらなく嬉しいんですよ。うちは億単位の被害があったのですが、彼らとやりとりをしていて『人の気持ちはお金じゃない、生きるとはこういうことだ。人を喜ばせよう』と心から思えたんです」

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■一歩進んで二歩下がっていた気持ちが、元気を取り戻す

菅野さんは「彼らのそういう姿を見て、元気と勇気と生きる希望を与えられました」と振り返る。菅野さんは「マイナスからのスタートにはなるけれど、借金をしてもう一度養殖を始めよう!」と考えたという。

「すべてを流されてしまった男性たちは元気がなかったけれど、その頃から女性たちが開きなおったんです(笑)。流されたものはしゃぁない! って。とにかく生きていかなきゃいけないんだから。そうしたら笑顔になって、笑い声も出るようになりましたね」(菅野さん)

2011年8月から、株式会社JTBコーポレートセールスは女性向けボランティアツアーを行っており、気仙沼市の女将会である「つばき会」の皆様にご協力頂き女性目線での震災当時のお話しをして頂いていた。菅野さんも「つばき会」メンバーのお一人としてバスに乗ってお話をいただいた。翌年「つなかん」がオープンするとツアーの中で牡蠣やホタテの養殖のお手伝いをしたり採れたての海の幸を食べることも企画に入れると大好評だった。オープン初日にはガレキから回収された食器を参加者が洗って真新しい食器棚に入れなおした。菅野さんが涙ながらにお礼を言ってくれると参加者も涙した。また菅野さんに会いたいと都会から様々な人が訪れリピーターになっていった。「JTB東北ふるさと課(化)の始まりだった。

「JTBさんが連れてきてくれた方たちと、住んでいる町や仕事の話を聞きながら楽しくお話をしていると、あっという間に修復作業が進んでいて『あぁ、すごいな』と思いました。瓦礫のお皿も洗ってもらったりして、本当にあのときは助けられましたね」(菅野さん)

一人で作業をしていると、気持ちがネガティブになりやすく「やっぱり無理だ」と考えてしまうことが多かったという。「気持ちが、一歩進んで二歩下がるんですよ。それでは進んでいないって思うでしょう? でも、本当にそうだったんです。やろうという気持ちにはなるんだけど、いざガレキの中から回収した泥だらけの中でお皿を洗っていると、いろんな思いが込み上げて『あぁもう無理だ』と、本当に二歩下がってしまうんです」

しかし、菅野さんは色々な人が訪れたことで力を取り戻すことができた。ツアーの後も、ツアー客からメールや電話、手紙などで連絡がくるようになり、応援してもらっていることを実感できたのだそうだ。「自分は一人じゃないんだって思えると、嬉しいんですよ、本当に」。この5年間、菅野さんはそうしたやりとりに励まされ続け、今に至っている。

■親友の死を乗り越えてバレエスクールを再開

気仙沼市内で1996年に設立されたバレエスクール「気仙沼バレエソサエティ」を運営している高橋知子さんは、鹿児島県出身。気仙沼市出身の夫と東京の大学で出会い、25年前に嫁いできた。

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同スクールは、クラシックバレエの教室が気仙沼になかったことと、高橋さんが「すばらしいバレエダンサー」と称する横田香也さんとの出会いを機に、二人で始めたものだった。震災の当日は、二人で15周年の発表会の打ち合わせを市内のファミレスでしていたという。

「大きく揺れて『これはまずい、早く逃げよう』と話したんですが、レジにお客全員が並んで、お会計に時間がかかってしまったんです。怒ってお金を置いて帰る人もいたほどで、私たちもお金を置いて出ました。それで『大丈夫? じゃあね、それぞれ逃げようね』と話して別れ、私は自宅に寄って子どもがいないかどうか確認してから、何も持たずに車で逃げました。渋滞でしたが、皆さんが海から離れようとするところを私は海に戻るように逆走しながら、山に登って助かったんです」(高橋さん)

その日の夜は小学校に避難して一晩を過ごした。「眠れないし、どうなっちゃうんだろうという思いでした。絶望感で泣き崩れる人やうずくまる人、いろいろな人がいましたが、私は家族に連絡ついたことで、『今できることをやろう』と気持ちをすぐに切り替えられたんです」。しかし、横田さんとは全く連絡がつかなかった。

「毎日、どこも避難所は『自分は○○にいます』といった張り紙だらけでした。そこをみんな毎日見て、家族や知り合いの安否を探すんですね。この人は生きている、あの人はどこにいるんだろう——。眠れぬ夜を過ごして、徐々に状態がわかっていきました」(高橋さん)

高橋さんには子どもが4人いて、毎日その子どもたちに「片付けに行くよ」と呼びかけ、瓦礫だらけになってしまった家の片付けに毎日出かけていたという。

4月末、残念ながら横田さんの遺体が発見される。高橋さんは悲痛な想いだった。「彼女だけでなく、お父様と旦那さん、高校生の娘さんも亡くなって、4人を一緒に見送った」

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写真提供:気仙沼バレエソサエティ

バレエスクールの生徒である子どもたちは「自分たちがせっかくここまでやってきたバレエを止めることを、たぶん横田先生は望んでない。バレエを再開したい」と希望したが、高橋さんには気がかりなことがあった。横田さんの無事だった家族だ。

「ご家族のお気持ちを思ったら、気仙沼にバレエなんてなくなったほうがいいと思ったんです。でも、お葬式の会場で会った彼女のお母様から、『生き残ってくれてよかった。私たち、生き残ってよかったんだから』と言われたんです。『何で一緒に逃げてくれなかったの』と責めるような言葉は一つもありませんでした。私は謝るしかありませんでした……」(高橋さん)

葬式から10日ほどたった頃、その母親から「何年たってもいいから、あの子のやったことをまたやってほしい。追悼公演を私に見せてほしい」と言われたという。悩んだ末、その言葉に背中を押され、2012年1月にようやく再開した。

11月には追悼公演を開催。横田さんの母親は、無事だった娘さんを連れて公演を訪れたという。親友の無念を想い、高橋さんは動き出す。「とにかく後継者に引き継いで、安定したお稽古をしなくちゃ、という思いで、2013年8月、土地からスタジオから全部私の名義で建てました」


■人前で話すことで、自分自身が癒されていった

こうした高橋さんのストーリーを知った株式会社JTBコーポレートセールスの影山葉子さんは、その内容に心を動かされ「ツアーの中で、語り部としてお話をしてくれませんか」と依頼する。

「私が今こうやって語れるようになったのは、影山さんのおかげです。話すのも人前に出るのも、実はとても苦手だったんです。震災前には、人前で話す機会はありませんでしたから。でも、影山さんが色々な機会を作ってくださいました。はじめは涙しながらしゃべっていましたが、人前で話すことによって自分自身が少しずつ癒されているなと感じたんですよ。もう笑って話せる部分もあるほど、元気になりました」(高橋さん)

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影山葉子さん(左)と高橋知子さん

また、高橋さんはツアーをきっかけに、「気仙沼市の魅力について気づかせてもらった」と話す。子どもや若い世代でも、震災を機に気仙沼を見直し、好きになったり、Uターンを希望したりする人が増えているという。

「震災後、人のためにこんなに動ける方たちがいるんだって思いましたね。ツアーのお客さんもそうです。皆さん、色々な経歴をお持ちで、とても前向きで、非常に刺激になりました。バイタリティー溢れる方々が大勢いるんだと思いました」(高橋さん)

ツアーのお客のほうも「学ばせてもらった」「生き方を変えるきっかけをいただいた」などと感想を寄せたという。ツアーによる好循環が生まれたのだ。

「JTBさんは、引き出し上手なのだと思います。震災後、気仙沼の女性をクローズアップして下さり、私たち女性がマイクを握るようになったなんて、JTBさんによる大革命です(笑)。感謝しています」(高橋さん)


■ツアーが町と観光客に相乗効果を生んでいく

気仙沼市内には、高台に建つ2つのホテルがある。『サンマリン気仙沼ホテル観洋』と『気仙沼プラザホテル』だ。両館の女将をしているのが、田村恭子さん。実姉は南三陸町にある『南三陸ホテル観洋』の女将を務めている。

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震災のとき、田村さんは魚市場の近くの自宅にいた。ちょうど身支度をしていたため、そのままホテルまで走って逃げ、津波を逃れたという。

「自分たちがやれることは何だろうと考え、まず受け入れから始めました。とにかく残されたからにはやらなくてはならない、という使命感を私も姉もお互いに持ったようです。でも、2011年は二次避難の方々の受け入れ対応をしていて、本来の宿泊者様を迎える体制はなかなか取れませんでした」(田村さん)

震災から1年が経つと、観光への取り組みとして「観光戦略会議」がスタートする。気仙沼に残った資源を見直し、気仙沼らしさをよりアピールしていくことになった。

「気仙沼魚市場など、それまで当たり前に思っていたものが、実は磨けば響くものになると教えられました。震災前には、そこまでの考え方はできていませんでしたね」。震災前から行っていた、出港する船の安全や大漁を祈願して見送る「出船送り」も、しっかり集まって行うようにもなった。

また、水産業や観光業に関わる人を集めて作った「チーム気仙沼」の活動により、漁船や牡蠣の養殖、お酒の蔵元など、様々な気仙沼に関するコンテンツを引き出していく取り組みも生まれた。

「JTBさんには我々の取り組みに賛同いただき、気仙沼と外からのお客様をつなぐ役割を担っていただきました。私たちを導いてくださり、どんどん広がっていったと思います。私たちは話せたことで自分の気持ちを保てたり、それに対してお客様が共感・応援してくださったりと、相乗効果を生みました。地元にいる者だけでは、とてもこの復旧復興はあり得ませんでした。本当に大きなツアーだったと思います」(田村さん)


■課題はあるものの、積み上げた財産を今後も形に

田村さんは、同社が女性の視点に着目したことによる影響も大きかったと考えている。「女性は、日々子どもにご飯を食べさせたり、旦那さんを見送ったりして、一日の大切さを認識しているものなんですよね。そういう視点で町づくりを考えたとき、十年後にできることも必要なのですが、今の状況で今日できること・明日できることを考える視点も必要なんです」

この5年間で、観光を目的とする客が完全に戻ったわけではない。「震災から5年経てば、少しは復興が形になっているものなのかなと予想していましたが、まだまだ復興の真っ只中で、思っていたこととはまったく違っていました」

課題はまだあるが、「積み重ねたもの、磨き上げたものを継続して形にしていきたい」と田村さんは考えている。

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左から影山葉子さん、田村恭子さん、JTB国内旅行企画東北事業部の小林英輝さん

港町である気仙沼は“受け入れ上手”と言われ、昔から『お振る舞い』という言葉があるという。いわゆる、おもてなしの文化だ。「そういう方がもっと表にたくさん出てくると、それが観光にもつながっていくのではないでしょうか。、お互いに借りっこし合えたらいいなと思います」
この取り組みは「女性目線の観光・まちづくり」として、第11回JTB交流文化賞 優秀賞を受賞した。

気仙沼市の女性たちは、たくましく未来を見据えている。でも、ただ我慢強くなったのではない。自分のできることを果たしながらも、柔軟に考え、助け合い、協力して町を盛り上げていくことの醍醐味を知ったのだ。

一方で、株式会社JTBコーポレートセールスの取り組みからは、被災地に寄り添うことの意味を考えさせられる。菅野さんの言葉「自分は一人じゃないんだって思えると、嬉しいんですよ、本当に」が突き刺さる。関心を持つことこそが、人を、町を動かしていく、はじめの一歩なのかもしれない。

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