30年前に姿を消した『伝説の棋士』永作芳也の消息が明らかに。「相手を突き落としても...」勝負哲学を語る

いまからおよそ30年前、将棋界から忽然と姿を消した「伝説の棋士」の近況を聞いた。

藤井四段ブームで賑わう将棋界に一本のニュースが舞い込んだ。それは「伝説の棋士」永作芳也氏の消息を伝える記事だった。

永作氏は1989年、突如として日本将棋連盟を「退会」。棋士の身分を捨て、将棋界から姿を消した。当時伝えられた引退理由は「名人になれないと悟ったから」。そんな人物が、約30年の時を経て、再び姿を見せた。今度はプレイヤーではなく指導者として...。

永作芳也とはどんな人物なのか?将棋界を離れたいまの近況は?将棋ライターの松本博文氏がレポートする。

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藤井ブームの裏で「伝説の棋士」の消息が明らかに

三枚堂―藤井(聡)戦(2017年7月21日、松本博文撮影)
三枚堂―藤井(聡)戦(2017年7月21日、松本博文撮影)

2017年7月21日。いまや社会的なブームに沸く将棋界では、二つの大きなニュースがあった。

一つは午後におこなわれた、藤井聡太四段の対局である。

デビューから無敗で、史上最多の29連勝を達成し、現在の将棋ブームを巻き起こした藤井四段が、33戦目の対局に臨んだ。対局相手は若手実力者の三枚堂達也四段(上州YAMADAチャレンジ杯4回戦)。

結果は219手の大熱戦の末に、三枚堂四段が藤井四段に勝った。藤井は公式戦2敗目を喫したが、それでも、その時点で31勝2敗という、信じられないような成績である。対局室にはやはり、多くの報道陣が駆けつけていた。

もう一つは、夜におこなわれた、名人就位式である。同時代に一人しか存在を許されない名人は、将棋界の頂点に立つ存在として、将棋を愛する全ての人々の、憧憬の対象であり続けてきた。春から初夏にかけておこなわれた名人戦七番勝負では、佐藤天彦名人が、挑戦者の稲葉陽八段を相手に4勝2敗の成績をあげ、シリーズを制して、防衛を果たしていた。

「貴族」と呼ばれる29歳の若き名人の就位式には、多くの女性ファンの姿も見えた。その式典の様子は、やはり多くのメディアを通して、広く伝えられていた。

以上二つは、将棋界の華やかな、表のニュースである。

そして同じ日、21日の朝。一部の熱心なファンや、将棋関係者の間で、驚きとともに話題となったニュースがあった。記事が掲載されていたのは、茨城県の地元紙である「茨城新聞」の社会面。同紙のウェブサイト上にも転載されていため、多くの人々の目にとまることになった。

2017年現在、「永作芳也」の名を見て、すぐに「ながさく・よしなり」と読める人は、あまりいないだろう。永作は、1979年に、将棋のプロとして認められる、四段に昇段。80年代には、努力と闘志の若手棋士として知られていた。

タイトル獲得や、棋戦優勝などの実績はない。それでも永作という棋士の存在は、当時の熱心な将棋ファンの記憶の中には、鮮烈に残っている。

1987年のNHK杯トーナメントでは、昇竜の勢いの羽生善治四段と対戦した。永作青年は、天才少年の変幻自在の指し回しの前に、敗戦を喫する。テレビでその模様は、広く伝えられた。もしかしたらこの一局が、永作の棋士人生における、ハイライトだったのかもしれない。

そして88年。永作は、将棋界から忽然と姿を消した。「引退」ではない。多くの人々から尊敬を受ける、棋士という身分を投げ打っての、「退会」である。なぜそんなことをするのか。伝えられた理由は、あまりにも衝撃的だった。

「名人になれないと悟ったから」

後にも先にも、そんな理由で将棋界から去った棋士は、永作ただ一人だけである。

「名人とは、全ての棋士が目指す存在である」

そう言われることもある。しかし現実には、どうであろうか。少なからぬ棋士は、ごく早い段階で、自身の技量については、おおよその見当をつけている。

仮にどれだけ自信があろうとも、結果という現実の前に、いつかはどこかで、その自信は打ち砕かれる。名人位を、将棋界の最高峰の地位を争うことができるのは、棋士の中でも、ごくひとにぎりの者だけだ。だから仮に、名人になれないと悟ったからとして、棋士まで辞めることはない。

現代の将棋界では棋士になった順に、「棋士番号」が割り振られている。たとえば、加藤一二三は64。羽生善治は175。藤井聡太は307である。その中で、現在までに欠番となった例は、ただ一つしかない。それが永作芳也の、139だ。

永作が忽然と姿を消してから、約三十年。その消息は、一般には、ほとんど知られていなかった。

「茨城新聞」の三次豪記者は、深い敬意をこめて、永作のことを「伝説の棋士」と伝えている。それが誇張であるとは、筆者は思わない。少なくとも、80年代から将棋ファンだった筆者にとっては、伝説の棋士であることに間違いはない。

矢も盾もたまらず、筆者は連絡先を調べ、電話をかけた。

「伝説だなんて、そんな...」

電話の向こうでは、少し茨城弁のなまりのある声で、永作芳也は、戸惑うように笑っていた。

「伝説の棋士」に会いたい 片道3時間以上の旅

永作芳也は現在、茨城県行方市の麻生で、子ども将棋教室を開いている。

「行方」は、一般的には難読地名の一つとして挙げられる。将棋ファンにとっては、青森県弘前市出身の、行方尚史(なめかた・ひさし)八段の名は有名だ。一方で、茨城の地名では「なめがた」と、にごって読む。蛇足ながらつけ加えれば、「茨城」の読みは「いばらぎ」ではなく、「いばらき」と、にごらずに読む。

「東京駅の八重洲口から、バスが出てますよ」

永作からは、そう丁寧に教えてもらった。麻生までは、長距離バスが最もポピュラーな移動手段だ。

しかし、永作の教室は、始まるのが朝9時と早い。それに間に合うバスはなかったので、始発の電車を乗り継いでいくことにした。

7月23日、日曜日。東京の郊外に住む筆者は、朝5時過ぎの電車に乗って、茨城県に向かった。地理的には、そう遠くはない。日帰りで往復できる距離である。それでも、片道3時間以上の行程だ。

最近の将棋ブームで、筆者はいろいろな原稿を依頼されるようになった。藤井聡太四段のこと。最近の将棋界のこと。あるいはコンピュータ将棋ソフトのこと。テーマはさまざまである。能力以上に多くの仕事を引き受け、常に締め切りを気にする日々を送っている。この夏は、おそらくずっと、原稿を書いているだろう。目の前の仕事をこなせるのかという不安は、常に離れない。それでも、何をさしおいても、伝説の棋士には、すぐに会いに行きたかった。

行きすがら、筆者はスマートフォンで、永作の過去の対局の記録である、棋譜を並べていた。

「棋譜は後世に残る」

という言葉がある。永作が将棋界を去っても、永作が残した棋譜は、消えてなくなりはしない。永作がかつて指した将棋を何局も再現してみて、率直に思ったのは、華麗さとはほど遠い、いうことだ。しかしどこか、見る者の胸を打つような、ひたむきな気迫を感じた。

JR成田線に乗り、国際空港で有名な、千葉県成田市を過ぎる。窓の外に目を向ければ、のどかな田園風景が広がっていた。

鹿島線への乗り換えのため、佐原(さわら)駅で降りる。

佐原駅(松本博文撮影)
佐原駅(松本博文撮影)

ここは江戸時代に正確な日本地図(大日本沿海輿地全図)を作成した、伊能忠敬(いのう・ただたか)ゆかりの地である。忠敬は五十を過ぎてから、十九も歳若い高橋至時(よしとき)を師として測量術などを学び、五十五を過ぎてから十数年かけて、日本全土を周り、地図を完成させている。晩学の代表のような人物である。若くして既に実績を築きつつある、早熟の代表の藤井聡太四段とは、対極のような存在であろうか。

7月19日は、藤井の誕生日だった。藤井は地理が好きなため、師匠である杉本昌隆七段は、プレゼントの一つとして、日本の都道府県地図が描かれたノートとともに、伊能忠敬をデザインしたボールペンを贈っていた。藤井ブームの現在にあっては、そうしたことも、ワイドショーで取り上げられている。

鹿島線に乗り換え、長い橋を渡って、広い利根川を渡れば、茨城県に入る。鹿島線をずっといけば、終点は鹿島サッカースタジアム駅。鹿島アントラーズの本拠地である。その手前の潮来駅で降りて、鉄道の旅はここまでとなる。

「潮来」もまた、知らなければちょっと読めない。1960年、歌手としてデビューする前の橋幸夫は、「潮来笠」という曲の楽譜を渡されて、「しおくるかさ」と読んだという。

「潮来(いたこ)の伊太郎(いたろう)ちょっと見なれば・・・」

という歌い出しで知られる「潮来笠」(いたこがさ)は、シングルレコードが100万枚以上売れる大ヒットとなり、潮来の名を全国に知らしめた。

潮来は古来、利根川の水運の要衝に位置して栄えたところ。現在では、あやめが有名で、5月末から6月にかけておこなわれる「水郷潮来あやめまつり」には、多くの観光客が訪れる。

地元の棋士は「希望の象徴」だ

潮来駅(松本博文撮影)
潮来駅(松本博文撮影)

将棋教室が開催されているのは、潮来駅から約10km離れた、行方市麻生の天王崎観光交流センター「コテラス」。霞ヶ浦に面し、景観が美しいことで知られる、天王崎公園内の施設である。路線バスは十年ほど前に廃止されており、移動手段は、タクシーしかない。駅前に止まっているタクシーの運転手さんに行き先を告げると、

「今日は何かあるんですか?」

と尋ねられた。夏休みが始まったばかりの、特に大きなイベントはない日曜日だった。もう少し先の8月11日には、茨城県唯一の湖上花火大会である「なめがたの湖上花火サンセットフェスタin天王崎2017」が開催される。

地方での取材は、タクシーの運転手さんとの会話から始まるのも、ひとつの定跡である。地域出身の棋士の名前を出して、運転手さんが将棋好きなら、話がはずむこともある。

「昔、将棋のプロだった永作芳也さんという方が、コテラスで、お子さん向けに、将棋教室を始めたんです。それで東京から、取材にやってきました」

「へええ、そうなんですか。そういう人がいるとは、知らなかったなあ」

それは無理もない。

ところで、茨城県出身の著名人をあげていけば、もちろんキリがない。たとえば大相撲の世界で、「角聖」とも、「中興の祖」とも言われる、第19代横綱の常陸山(ひたちやま)は旧水戸藩士の家の出身である。近年では、牛久(うしく)出身の稀勢の里関が、第72代横綱に昇進して話題となった。

力士は、郷土の誇りであろう。それと同様に、将棋の棋士もまた、将棋を愛する地元の人々にとっては、希望の象徴である。

たとえば地方で、海千山千の古強者や、全国的にも名を知られるような県名人クラスをなぎ倒し、県大会で優勝する、年若い子供が現れる。驚くような出来事ではある。しかし将棋の世界では、わりとよくあるストーリーでもある。地元の人たちは、その子供を「天才」ともてはやす。そして、自分たちの夢を託したくなる。この子がプロの養成機関である奨励会に入れば、難関を抜け、棋士となるのではないか。そしてもしかしたら、将棋界の頂点に立ち、同時代にただ一人しか存在しない、名人にもなれるのではないか、と。

茨城県からもこれまでに、何人かの棋士が輩出されてきた。永作芳也も、その一人である。ただし、将棋界の頂点である名人や、タイトルを獲得したことのある棋士は、まだいない。

タクシーの運転手さんからは、将棋界が一般の社会に、どのように見られているのかも、教わることが多い。

「私は将棋はよく知らないんだけれど...。ほら、最近はよく、テレビでやってますよね。天才の、中学生の。藤井君ですか?羽生さんとやったら、どっちが勝つんですかね。あとは、ひふみん?そうそう、加藤一二三さん。面白い人ですよねえ」

よく知らないと言いながらも、それだけご存知であれば、素晴らしい。年配の、明るくよくしゃべる運転手さんと、将棋界の最新のトピックで話がはずむのは、こちらとしても嬉しかった。

運転手さんが名前を挙げた棋士を、年齢順に記せば、加藤一二三(77)、羽生善治(46)、藤井聡太(15)となる。現在の将棋ブームの中ではこの三者が、世間に名が通る棋士の、ベスト3なのかもしれない。並べてみて気づいたが、この三者の間にはちょうど、31歳ずつの間隔が空いている。

左から加藤一二三九段、羽生善治三冠、藤井聡太四段
左から加藤一二三九段、羽生善治三冠、藤井聡太四段

年齢が離れた三者には、共通点がある。それはいずれも、中学生のうちに四段に昇段した、すなわちプロ棋士になった、という点だ。「天才」とは、一般社会においても、ありふれた表現であろう。しかし上記の三者は、真の意味での天才と言える。将棋界では、彗星のように周期的に、歴史に残る天才が現れる。それは、偶然のことなのだろうか。

運転手さんからは、いろいろな質問をされた。将棋界は厳しいところと聞いているが、実際にはどうなのか。トップクラスの棋士は、どれぐらい稼ぐのか。棋士は何手先まで読めるのか。そして藤井少年はこの先、名人になれるのか。などなど。

そんなよくある将棋界の話をしているうちに、窓の外には、風光明媚な、霞ヶ浦の風景が広がってきた。

「こちらでは植樹祭がおこなわれてて、天皇陛下もお泊りになられたことがあるんですよ。昔はここに、泳ぎに来る人も多かったんです」

晴れていれば、近くには筑波山。遠くには富士山も、きれいに見えるらしい。あいにくこの日は曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。

タクシーは、コテラスについた。運転手さんにお礼を言って、外に降りた。コテラスに入ったところにはすぐに、手書きのちらしが張ってあった。

(松本博文氏撮影)
(松本博文氏撮影)

7月スタート

生徒募集こども将棋教室

目指せ 藤井四段

指導元プロ棋士永作五段

(NHKテレビで羽生三冠と戦った)

チラシには、そう記してあった。

「伝説の棋士」永作芳也はいま...

永作芳也氏(松本博文氏撮影)
永作芳也氏(松本博文氏撮影)

「わざわざ遠い所を、ありがとうございます」

そう言われて、筆者は最初から恐縮した。

伝説の棋士、元日本将棋連盟所属の永作芳也五段は、現役時には、烈々たる闘志を隠そうともせず、盤に向かうことで知られていた。

「名人になれないと悟ったから」

そんな理由で若くして、棋士の身分まで捨てた人である。電話越しでは、やさしい口調だった。しかし本当は今でも、激情の人なのではないか。内心、そうも恐れていた。実際に会ってみればすぐに、失礼な見当違いだったとわかった。

永作は現在、61歳。茨城県潮来市で、保険代理業を営んでいる。将棋界とは約三十年の間、ほとんど没交渉だった。

そんな永作が、出身地の行方市麻生(旧麻生町)で将棋教室を始めることとなったきっかけは、いまの藤井ブームである。地元の麻生では、永作がかつて棋士だったことを知る人は多い。永作は、そうした人たち何人かから、子供に将棋を教えてくれないか、と頼まれた。

「私もずっと将棋をやってこなかったんだけど・・・。自分の気持ちの中では、五十ぐらいから、七十を過ぎたら、仕事もゆっくりしながら、町の皆さんに貢献ってわけでもないんだけどね、将棋の指導でもやろうかなとは、思ってたんですよ。ところがたまたま、こんな感じになっちゃったもんだから、十年ぐらい早まっちゃってね」

藤井ブームは、こうしたところにも影響が及んでいた、というわけだ。

永作の教室は朝9時と、始まるのが早い。先生の真面目さを反映しているような時間設定でもある。場所はコテラス2階の、小さな会議室を借りている。

「まだ始めたばかりですからね」

筆者の心を見透かすようにして、永作はそう笑った。9時を回った時点で、10ほどある席に座っていたのは、小学生の女の子、ただ1人だった。近隣にちらしを配って、生徒の募集を始めたばかりである。それはそうでしょう、と思った。

女の子には、前回の教室の終わりに、宿題が課されていた。テキスト上に駒が記してあり、動けるところに丸をつける、というものだ。

「うん、正解!」

赤ペンを持った永作は、そう女の子をほめていた。

宿題を採点する永作氏(松本博文撮影)
宿題を採点する永作氏(松本博文撮影)

もし羽生善治を野球のイチロー選手に喩えるなら、永作は、若き日のイチローと真っ向勝負をしたことのある、日本プロ野球界の元実力派投手にもなるだろう。現役を退いた後であれば、名門校や、社会人チームの監督でも務められる実力があるだろう。そういう人が、近所の小さな女の子を相手に、キャッチボールか、あるいは野球のルールを教えるところから始めようとしている。

将棋を愛する人が、その面白さを伝えるべく、子供や女性や初心者に、丁寧に将棋を教えようという試みは、いつでも尊い。しかし現実的には、大変である。将棋教室を始めてみたものの、思いの外、手間や時間や経費はかかる。そして経済的には、ほとんど見返りがない。持ち出しになるケースも少なくない。

また、どの世界にも共通することではあろうが、名選手が、名コーチになるとは限らない。天才が、最良の教師になるとは限らない。自分の能力を伸ばす才能と、他者の能力を伸ばす才能とは、似ているようで、かなり違う。

将棋は奥が深いゲームである。だからこそ、四百年の間にもわたって、遊び続けられてきた。しかし、その面白さを知るまでには、最初のハードルが高い。駒の動かし方、ルールから始まって、基本的な考え方、玉の詰ませ方、簡単な手筋、などなど、覚えることはたくさんある。実力、適性、やる気もまちまちな初心者に、根気よく向き合い、将棋の奥深さ、そして楽しさをわかってもらうまで導くのは、そうたやすいことではない。

やがて教室には、もう2人の女の子が現れた。これで全部で、3人である。みんな友達同士だという。

教室の外には、娘を教室につれてきた、3人のお母さんたちがいた。今をときめく藤井聡太四段のお母さんの裕子さんは、聡太少年が小学生だったときには、将棋教室や大会、そして関西奨励会までの遠征に同行していた。

「待っている間、時間をつぶすのが大変でした」

裕子さんは、そう回想していた。子供の才能、実力とは関係なく、そうしたお母さんたちの存在があって、将棋界の未来は支えられている、とも言える。

「皆さん、こちらの近くから来られているのですか?」

3人のお母さんたちに尋ねてみたところ、そうだという。

「こちらの先生は、伝説の人なんですよ。昔は羽生善治さんとも対局して・・・」

聞かれてもいないのに、思わず筆者はそんなことを語り始めようとした。自分の挙動不審ぶりにすぐに気づいて、あわてて、口をつぐんだ。

プロになろうと思ったのは高校2年「ほんと、晩学です」

将棋を教える永作氏
将棋を教える永作氏

永作芳也(ながさく・よしなり)は1955年9月27日に生まれた。同じ誕生日の羽生善治は、1970年生まれ。両者はちょうど、15歳差ということになる。

永作の出身地は、茨城県行方郡麻生町(現・行方市麻生)。永作という珍しい姓は、このあたりが発祥である。現在は「なめがた大使」を務めている、女優の永作博美さんの実家は、永作芳也の実家から、十軒ほど離れた近所だという。

永作が将棋を覚えたのは、小学2、3年の頃だった。

「そんな強くないですよ。普通の将棋好きの子供と同じぐらいです。いま活躍しているプロ棋士たちとは全然違う」

現在活躍している棋士の多くは、小学生のうちにアマチュア高段者となり、小学生名人戦などの全国的な大会で実績を残した後で、奨励会に入るケースが多い。永作の将棋人生は、そうした早熟組とは、どこまでも対照的である。

永作が将棋の魅力に取り憑かれ、プロになろうと思ったのは、実に高校2年生の時だった。しかも、その頃もまだ、プロをうかがえるほどに強くなっていた、というわけではない。弱く実力もないまま、夢に衝き動かされての、見切り発車だった。奨励会員が高校在学中に、ある程度の見通しが立って、高校を中退するのとは、まるで意味が違う。恐るべき決断をした後、永作は麻生を出て、東京へと向かった。

「当時としても、一番遅いですよ。まあほんと、晩学です。いまの子供とはだいぶ違います」

1973年、秋。18歳になっていた永作は、加藤恵三七段(没後追贈八段)門下として、関東奨励会に入会した。級位は一番下の、6級だ。現在の、さらに高度にレベルアップした奨励会であれば、受験の段階でアウトだろう。

永作の入会からしばらくして、規定が改められ、18歳での6級受験はできなくなった。2017年現在では、6級であれば、入会試験受験の時点で、満15歳以下でなければならない。

奨励会もかつては、今と比べれば人数が少なかった。永作が入会した頃には、東西合わせて約六十人ほどである。新入会者のレベルはそれほど高くないこともあって、牧歌的なところもあった。

しかし、その当時にあっても、18歳6級でのスタートは、晩学組の、さらに最後方のあたりに位置した。関西奨励会に目を転じてみれば、1973年の春に入会した谷川浩司は、11歳で5級である。

多くの「天才少年」が、棋士となる夢はかなわず去っていく競争の場に、まだ弱いまま、永作は身を投じた。

奨励会は、互いにシビアに、才能の値踏みをし合う場所である。対局を重ねていくうちに、その実力は、盤上に表される指し手とともに、白黒の勝敗でも、すぐに明らかとなっていく。年長者というだけでは、尊敬はされない。むしろ、歳をとっても弱いということであれば、遠慮なく、侮蔑の対象とされる。

永作の伝説は、ここからはじまる。はた目には絶望的なスタート位置から、永作は、後に語り草となるような、超人的な努力を見せた。同時代に、永作に才能があると思っていた棋士、奨励会員は、ほぼ皆無と言ってよい。しかしその努力ぶりについては、誰もが目をみはった。

「周りの奨励会員と見比べて、自分は才能はないなと思ったものですから。藤井君なんかの場合はね、才能プラス努力ということがあるのでしょう。しかし私の場合は才能がないから。人よりは頑張らないと一人前にはなれないと思った。やっぱり自分でも、人よりは努力したと思います」

自分に才能がないことを認め、それを受け入れるのは、誰にとっても、容易なことではない。特に、小さな頃から「天才」と呼ばれてきた者にとっては、そのままアイデンティティの崩壊につながる。勝敗という現実を突きつけられ、自分の真の才能を思い知らされ、精神的に深刻な打撃を受けて、そのまま立ち直ることなく、競争の舞台から退場していくケースも多い。

永作はスタートの時点で、自分自身の才能のなさをよく知り、それを前提としていた。全国から集まった、才能あふれる奨励会員の中にあって、才能なきものに残された道は、ただひとつしかない。それは、尋常ではない努力だ。

永作は人一倍、記録係を務め、先輩棋士たちの対局の棋譜を取った。先輩に請うて練習対局の相手となってもらい、数多くの実戦を指した。「塾生」と呼ばれる、将棋会館住み込みの雑用係になっていたので、仕事をこなす間に、人の二倍にも、三倍にも努力を重ねた。

将棋界では、「耕(たがや)す」という言葉がある。現在では盤面上のある局地を、地道に開拓していく、という意味で使われる。もともとの意味は違っていた。それは泥臭い努力を続けている、永作のためにできた言葉だった。永作とほぼ同時代に奨励会に在籍し、現在は著名な競馬ライターとして活躍する片山良三は、当時を述懐する。

「彼が塾生部屋でね、もう一日中、安い盤に向かって、駒を叩きつけるようにして、棋譜を並べているわけですよ。それはもう、盤がへこむぐらいにね。それで先輩たちから、『永作君、盤たがやして、何やってんだよ』って揶揄のされ方をされるわけです。彼がたがやしている盤は、本当にとげとげで、荒れちゃうんです」

入会してから1年余り。19歳になっていた永作は、ようやくにして規定の成績をあげ、5級に昇級した。4級になったのは、20歳である。

そこからあとは、次第に昇級のスピードが加速していく。年齢制限の最初の関門である初段には、21歳の時に到達した。ちょうどその頃、永作は東大将棋部との対抗戦に参加することになる。

奨励会と東大将棋部、プロとアマの戦いで...

筆者は東大将棋部の出身である。それを言ったところ、永作からは、

「私は昔、谷川さんと、対局したことがありますよ」

と言われた。今からちょうど、四十年前のことだ。

永作は、二人の谷川と対戦している。

一人とは、プロの公式戦において。1983年、名人戦七番勝負で加藤一二三名人(当時)を破り、史上最年少の21歳で名人となった、谷川浩司である。

もう一人は、アマとの非公式戦において。谷川浩司の実兄である、俊昭のことである。永作が奨励会に在籍していた頃、谷川俊昭は、東大将棋部に在籍し、学生の中の最強者とも言われていた。大学卒業後も、アマトップとして活躍し、アマプロ戦では、四段時代の羽生善治や、佐藤康光にも勝っている。

谷川浩司九段(左)と谷川俊昭氏
谷川浩司九段(左)と谷川俊昭氏

谷川俊昭は、将棋の強い子供として、既に小学生の頃から、全国的にその名が知られていた。そのきらめくような才能は、疑うべくもない。もし、灘中、灘高から東大という進路を選ばず、奨励会に入って棋士を目指していたら、将棋の歴史も変わっていたかもしれない。

1977年。『近代将棋』誌の企画で、奨励会の初段・1級チームと東大将棋部との、5人対5人の団体戦が、2度にわたっておこなわれた。東大将棋部は、大学将棋の伝統的な強豪校である。当時は特に、「史上最強」とも言われるほどに、メンバーが揃っていた。

団体戦の1度目は、東大側が3-2で勝った。奨励会側は、屈辱的な結果ととらえた。そして「リターンマッチ」として2度目の場が設けられる。そこで当たったのが、永作芳也初段と、谷川俊昭・学生王将だった。

かつて将棋は、相撲と並んで、プロとアマの間に、圧倒的な実力差がある競技と言われていた。相撲はどうなのかは、筆者にはわからない。ただ、将棋に限っていえば、プロとアマが真剣に戦う場がなかった時代には、そうした伝説が独り歩きしていた感がある。

1970年代に入って、若手棋士とトップアマとの対抗戦が、次第におこなわれるようになった。その結果を素直に解釈すれば、プロ側に分があることは、間違いない。しかし、その実力差は、言われていたほどには離れていない。それは、当然のことでもある。もっといえば、健全なことだ。

現在であれば、プロがアマに負けても、さほどのニュースにはならない。しかしかつては、そうではなかった。絶対に負けてはならないというプロ側のプレッシャーは、いまとは比べ物にならない。プロに準じる存在の奨励会員も、その点では同様だった。

永作初段と谷川学生王将戦の経歴は、いかにも対照的である。そして両者の対局は、熱戦となった。これは推測ではあるが、両者の棋力は伯仲か、もしかしたら、谷川の方に分があったかもしれない。しかし、より強く勝ちたいと思っていたのは、明らかに永作の方だった。

戦形は、谷川の三間飛車に対して、永作は急戦を仕掛ける。永作の棋風は、居飛車の本格派だった。

今福栄(いまふく・さかえ)記者は、対局の模様を、以下のように伝えている。

永作君の対局態度は闘志満々で、ときどきたくしあげた両腕に力こぶを作るようなガッツポーズをとる。相手が時間の切れそうなのを見て、「そろそろ時計をとる準備してください」と、さすがにプロの卵、勝負にからいところをみせる。一方の谷川君、谷川浩司新四段の将棋の先生にしてお兄さんということだが、まことにおとなしい青年。

永作初段の気合に、谷川学生王将が気圧されるような様子がうかがえる描写である。あるいは、辟易するところもあったか。谷川俊昭さんに当時のことを尋ねてみたが、

「棋譜もよく覚えていません」

と苦笑していた。もう四十年も前の話なので、それは仕方がない。当時の棋譜を手元のコンピュータ将棋ソフトで検討してみると、中盤で戦いが始まったあたりは、谷川よし。最後はきわどい終盤戦となり、勝負を制したのは、永作初段だった。

感想戦で永作君の「やはりこちらがずっとよかった」という意見をだまって聞いていたが、実戦中は谷川君、自分の方がよい、と思っていたのではないか。終盤に読みちがいがあって、指し手がちぐはぐしてきたようだ。

(今福栄)

将棋ほど、負けて悔しいゲームは、そうはない。その点に関しては、プロもアマも変わらない。だから感想戦で、ことさらに敗者の感情を逆撫でしてはいけない、「勝者は常に謙虚であれ」というのが一般的な不文律である。テレビで放映される対局の後の様子を見ていると、難しそうな顔をして、しきりに「自信がありませんでした」などとつぶやいているのは勝者の側、ということはよくある。「ずっとよかった」と、ことさらに力んでみせる必要はない。

一方で、「将棋は二度勝て」とも言う。勝負に勝ち、対局後の感想戦でも相手を負かそうとするのも、真剣勝負の場では、しばしば見られる情景である。たとえば、「不世出の勝負師」と言われた木村義雄・十四世名人は、感想でもまったく譲ることなく、相手の主張を認めなかった。当時の永作のマインドも、そちらに傾いていたのだろう。

団体戦は、奨励会2勝、東大1勝の後、奨励会側の高橋道雄初段が、まさかの大逆転負けを喫していた。後に棋士となり、数々のタイトルを獲得した高橋現九段も、若き日には、こうした辛酸をなめている。高橋はこの敗局の後、頭を丸めて坊主になったという。

団体戦は、奨励会2勝、東大2勝の後、最後は奨励会の小野修一初段と、東大の岡和田剛、大将格の対局が残った。途中は小野が優勢。しかし岡和田が底知れぬ力を発揮して、大逆転。最後は岡和田が勝ち、東大が3勝目をあげた。

結果は、以下の通りである。

永作芳也初段 ○-● 谷川俊昭(学生王将)

山崎茂樹初段 ●-○ 細見和雄(学生王座戦全勝)

小野修一初段 ●-○ 岡和田剛(東大・大将)

高橋道雄初段 ●-○ 井堀周作(関東学生名人)

片山良三 1級 ○-● 深井一伸(学生準名人)

奨励会チームの先輩格で、当時三段だった武者野勝巳(現七段)は、以下のように記している。

(前略、奨励会幹事の)松下八段が、「東大の人は強い、今後、学生さんから対局希望があったら初段、二段で迎えなくては仕方ありませんね」と苦しそうに語ると、キャプテンの小野初段があふれる涙をこらえられなくなった。

「もぐら」は空を飛べるのか

小野修一もまた、努力型の奨励会員だった。

「小野さんはアマ時代でも負けるたびに泣いてました」

そう語るのは、やはり東大将棋部で活躍した、奥村幸正である。奨励会に入る前の小野とは阿佐ヶ谷の町道場で、何度も指した。実力は奥村の方がはるかに格上で、何度も負かしていた。

小野が奨励会在籍中には、

「もぐらは空を飛べない」

という言葉があった。才能がないものは、努力しても無駄だ、という意味である。残酷ではあるが、それが奨励会における、大方の現実だった。

東大との対抗戦に敗れた小野修一初段は、その敗戦をバネとするように、後には順調に、昇段を重ねていった。一年余りして、20歳の時には、念願の四段昇段を果たしている。

1982年、小野は若手棋士の登竜門である、新人王戦で優勝を飾った。その際、『将棋世界』誌に、自戦記を書いた。記事のタイトルは、

「もぐらだって空を飛びたい!」

というものだった。ユニークで、くすりと笑えるようなタイトルである。しかしそれは、小野の痛切な叫びでもあった。

小野と年齢は違えど、奨励会入会同期の永作も、同じようなスピードで、三段まで昇段した。その時、22歳。18歳6級でのスタート、19歳5級、20歳4級というペースを考えれば、途中からは飛躍的に加速したといえるだろう。

「自分でもなんでこんなに勝てるのかと思った。勢いに乗っちゃったからね」

と永作は言う。それはとりもなおさず、誰よりも努力した成果というよりなさそうだ。

青野照市五段(現九段)は、「花咲かぬ蕾はない」と題して、奨励会のレポート記事で、永作を取り上げた。晩学で、才能がないと言われ続けた永作について、こう書き記している。

それでも毎日毎日人の倍以上も、盤の前に座って研究を続けていた。(中略)その研究熱心なことはいやおうでも、みんなの目をひいた。「あんなに将棋が弱くて、才能がない男は見たことがない。いくら頑張っても、絶対に一人前の棋士にはなれない。保証する」「いや今だかつて、あれだけいっしょうけんめい研究して、ダメになった奨励会員はいない。いつか必ず花が咲く時が来る」という具合に、外野では二つの意見が真っ向から対立していた。

(青野照市五段『将棋世界』1979年1月号)

後者の意見を書いたのは、青野のやさしさだろう。おそらくはずっと、前者の意見が圧倒的だった。しかし、「盤を耕しているだけ」と、永作を笑ってきた者たちも、永作が三段になった頃には、笑えなくなっていたのではないか。プロとなる四段にまで、永作は、あと一歩のところと迫っていた。

「相手を突き落としてでも勝つ」

将棋教室の様子(松本博文撮影)
将棋教室の様子(松本博文撮影)

永作にはさらに、有名な伝説がある。河口俊彦八段(故人)の一文から引用したい。

(前略)永作君はあるとき、3手詰の局面に追いつめられた。頭に金を打たれ、逃げれば頭金の詰み、みたいなやさしい形である。相手はもう投げるだろうと思い、感想戦のセリフまで考えていたが、永作君は考えたっきり投げない。10分たち20分たちしても動かない。結局、永作君の持ち時間が切れて終わった。相手が「なにを考えていたの?」と聞いたら、「投げずにいれば、君が心臓発作を起こすかもしれないじゃないか」平然と答えたそうだ。

(河口俊彦『将棋界奇々快々』)

永作芳也という棋士を語る上で、何度も繰り返し語られてきたエピソードである。はたしてそれは、本当なのだろうか。

「記憶にないなあ...。(誰かが)作ったのかねえ。おれのタイプじゃ、相手に失礼だから言わないと思うよ」

永作自身の記憶に照らし合わせれば、その「伝説」の真偽はわからない、ということになる。

片山良三は、それは他の努力型の棋士が、奨励会の時に残した言葉が、混同して伝わったものではないか、と推測する。永作の言葉ではないにせよ、そうした姿勢で勝負に臨む者は、他にもいたのだ。

永作は、こう回想する。

「奨励会の頃は、それ(相手の心臓発作を待つという伝説)に近いことはありましたよ。ともかく、どんどん上がんなくちゃしょうがないと思ってたから。もう必死だったから。自分は才能ないと思ってたから。極論を言えば、相手を突き落としてでもいいから勝とうぐらいの気迫で、やりましたよ。誰しもあるじゃないですか」

誰しも、とは、真剣勝負としての将棋に打ち込む者ならば、ということだろう。

「四段になってからは、そういうことはないと思います。そんとき(奨励会在籍時)は必死だったんだよね。それを、尾ひれはひれついて、そういうことになったと思うんだけど。やっぱり、勝負だから甘くないんで。勝負事は、相手のことばっかりを気にしたら、勝てないから。自分がどうしたら勝てるかってことを考えれば、それに近いようなことは、考えることはあると思いますよ」

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■筆者プロフィール

フリーライター、将棋中継記者。1973年、山口県生まれ。93年、東京大学に入学。東大将棋部に所属し、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、「名人戦棋譜速報」の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。コンピュータ将棋の進化を描いたデビュー作『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)が話題となり、第27回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞。近著に『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)、『藤井聡太四段 14歳プロは羽生を超えるか』(文春e-Books)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)。

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