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ヨーロッパのイスラム教は、なぜ今まさに重大な局面を迎えているのか

2015年01月10日 18時47分 JST | 更新 2015年03月11日 18時12分 JST
REMY GABALDA via Getty Images
A woman places a candle in front of the city hall in Toulouse, on January 8, 2015, a day after Islamist gunmen stormed the office of French satirical newspaper Charlie Hebdo, killing eight journalists, two police and two others. French security forces desperately hunted two brothers Thursday suspected of gunning down 12 people in an Islamist attack on a satirical weekly, as a stunned and outraged France fell silent to mourn the victims. With thousands of police scouring France after the bloodiest attack in the country for half a century, the two men -- still armed -- were apparently spotted at a petrol station in the northern Aisne region. AFP PHOTO / REMY GABALDA (Photo credit should read REMY GABALDA/AFP/Getty Images)

パリで起きた凄惨な悲劇が生んだ、ぞっとするような恐怖感は今なお鎮まっていない。言論の自由の思想と実践の根幹を攻撃するという非道な事件は、前例がない。フランスは悲しみに沈んでおり、民主主義と人権を重んじるというまともな考えを持つすべての人が、同じ思いを抱いているはずだ。私たちは、あれほどの悲劇で肉親を失った遺族に対し、同情の念を禁じえない。

フランスのフランソワ・オランド大統領と、彼の政治的ライバルで前任者のニコラス・サルコジ氏は、結束を示す場にともに姿を現し、最も強い言葉で事件を非難した。彼らの言葉は、フランス国民が抱いた軽蔑、怒り、動揺を忠実に映し出した。オバマ大統領からイギリスの首相に至るまで、世界中の指導者が、フランスとの連帯を示す場に参集し、フランスを支えると誓った。

パリでは、オランドもサルコジも、西洋とイスラム世界との間の「文明の衝突」を説いたサミュエル・ハンティントンの論文の視点から、非難を浴びせかけた。オランドは「尋常でない蛮行」だと糾弾した。サルコジは、あの事件が文明そのものへの「野蛮な」攻撃だったと言明し、「対文明戦争」だと言い切った。こうした声明に内在するのは、ハンティントンの「衝突」の概念である。

「ヨーロッパのイスラム教徒を理解することは、今や死活問題になった...。人々の心の中にあったのは、いかにジハード戦士のジョンを従順なムスタファに、そしてジハード戦士のジェーンを忠実なレイラに転向させるか、という問いかけなのだ」


私は、私の調査チームとともにヨーロッパ各地で行ったフィールドワークを先週終えたが、これはまさに、ヨーロッパで起きていることをイスラムの文脈から見ることだった。私たちは2週間前、フランスにいた。

「ヨーロッパへの旅」と称する調査プロジェクトのためのフィールドワークの間、私たちはヨーロッパ中を巡り、約50カ所の町と都市、それに50カ所のモスクを訪れ、30人を超すイマーム(「指導者」を意味するアラビア語)にインタビューした。私たちは学生、教授、タクシーの運転手、商店主、大統領、首相、大司教、ラビの長たちと話をした。

2014年の夏、私たちが旅をしている際、ヨーロッパのイスラム教徒について学ぶための私たちのプロジェクトが、実に急を要する社会的な問題であることが明白になった。中東、そして他のあらゆる地域が地政学的に発達したことで、ヨーロッパのイスラム教徒は直接、世界の出来事と結びついていた。メディアは、ヨーロッパに数多くいるイスラム教徒が、シリアやイラクでの激しい戦闘に加わっていると報じていた。イギリス政府は、イギリスからは約400人が加わっていると主張した

8月半ば、アメリカのジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏がイギリスなまりの言葉を話し、覆面をした男によって残忍にも首を切り落とされた。その際、メディアは躍起になって男の素性を暴こうとし、それがニュースの焦点になった。アメリカによる空爆が始まり、中東へのより大規模な軍事的関与が協議された。ある意味では、これまでもどこかで見たような光景だったが、実際には、新しいプレーヤーによって状況は変えられていた。闘争の劇場はもはやアフガニスタンではなく、主人公もタリバンではなかった。メディアは、ヨーロッパのイスラム教徒を「トロイの木馬」のような脅威として語るようになっていた。さらにメディアは、以前に「ジハード・ジェーン」という、ジハード(聖戦)に協力する人間のネットワークを作っていたアメリカの女性について語ったように、今度はフォーリー氏を殺害したエジプト系移民のイギリス人「ジハード・ジョン」ことアブデル-マジェド・アブデル・バリー容疑者について議論するようになった。

ヨーロッパのイスラム教徒を理解することは、今や死活問題になった。イギリスの首相から普通のジャーナリストに至るまで、人々の心の中にあったのは、いかに「ジハード・ジョン」を従順なムスターファ(世界中で流行したポピュラーソングで歌われた男性)に、そして「ジハード・ジェーン」を忠実なレイラ(イラン映画『レイラ』の主人公)に転向させるか、という問いかけなのだ。

問題なのは、この問いかけに対しては、イスラム共同体の知識がなければ答えられない、ということだった。つまり、そのアイデンティティについての定義、リーダーシップのパターンや、宗教的、政治的なプレーヤー、イマームの役割、若者に影響を与える家庭内の母親と女性の位置づけ、それに政府や幅広い大衆との関係についての知識である。ほとんどの人々が答えを持たなかったのだが、それらはまさに、取り組まれるべき問いだったのだ。

というわけで、私たちの研究は、計画当初に意図していた以上に大きな時事性を帯びることになった。それは、ヨーロッパのイスラム共同体について、世界に与える影響力の文脈から考えた最新の研究だ。研究は、そうした共同体で行われるフィールドワークに立脚しているため、可能な限り信頼性を高くした内容になっている。さらに、ヨーロッパ大陸中のイスラム共同体の全体論的な状況を提示することを目指しているので、イギリス本国北方のエジンバラから、南方の北アフリカにあるスペイン領メリリャまで、また西方のコルドバから、東方のギリシャのトルコ国境に近いクサンティまで、イスラム教徒のあらゆる範囲と多様性を並列させることができる。

イスラム教徒は、ヨーロッパの文脈からは大きく3つのカテゴリーに分類される。

1. ボスニア人の大多数のように、その土地固有の生粋のイスラム教徒

2. 移民。その多くは、自分たちの土地を植民地化した国にやって来た人々だ。彼らは、歴史的に相互依存の関係にある現実を踏まえて、そこにいる権利があると思っている。具体的に言えば、フランスに向かう北アフリカの人々、特にアルジェリア人であり、イギリスに向かう南アジアの人々である。ただし、植民地化しなかったトルコから主に「ゲストワーカーズ」(外国人出稼ぎ労働者)を招き入れているドイツは例外だ。

3. 改宗者。特に、精神的な難問への答えを求めている若者たち

私は、こうしたヨーロッパのイスラム教徒の個々のカテゴリーについて、歴史上の3つの異なった段階に分けて調査することを提案している。イスラム教徒は711年からヨーロッパに存在している。711年は、ゲルマン人の西ゴート王国がアラブ人による初期イスラム国家ウマイヤ朝に滅ぼされた年だ。イスラム教徒がヨーロッパで存在感を示した起点として捉えられる。そして718年から始まるレコンキスタ(国土回復運動)の時代の一定期間は、スペイン人が言う「ラ・コンビベンシア」(La Convivencia)、つまり「共存」の時代だった。この段階は1492年、最後のイスラム教徒の独立王国だったグラナダの崩壊とともに終わりを告げた。そして、結果的にイスラム教徒(さらにユダヤ教徒)たちは、イベリア半島から追放されたのだ。

ヨーロッパのイスラム教徒の第2段階は、15世紀ごろに始まり、20世紀まで続いた。この段階は、ヨーロッパのキリスト教徒の軍隊とオスマン帝国軍との衝突によって形作られている。イスラム教徒を異質で略奪的とみなす思想は、この段階の期間にヨーロッパ人の心の中に定着したのだ。

第3段階は、19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパ各国がイスラム教徒の土地を植民地化したころに始まった。20世紀後半からは、移民たちが、働いてよりよい暮らしを見つけ出すべく、ヨーロッパにやって来た。イスラム教徒の2世、3世たちが今、ヨーロッパで成人になりつつある。これらの世代は多くの問題を抱えており、論争、論戦、怒り、そして多数派の住民への憎悪さえ生んでいる。(パリでの攻撃のような)テロ、シャリーア(イスラム法)、ヒジャーブ(イスラム教徒の女性が人前で髪を隠すのに用いるスカーフ)の問題は、一般民衆の想像の中のイスラム教と広く関係付けられるようになっている。

ここで、いくつかの仮説を紹介しよう。

1. フランスで起きたことは衝撃的であり、悲劇的であった。しかし、まったくの驚きではなかった。私たちがフランスにいた間、イスラム教徒による暴力沙汰が少なくとも3回あった。イスラム教徒の多くは、スラム街のような、貧困がはびこる荒廃した地区に住んでいる。マルセイユの人口の30%はイスラム教徒だが、その都市の全域が"無法地帯"のように見えた。イスラム教徒が関わるギャングが、ドラッグを自由に売りさばいていた。よって、そのような地域共同体から暴力が生じることは、驚きではない。

2. ヨーロッパでのイスラム教徒と非イスラム教徒の関係は、今や包囲されたと感じているイスラム教徒の感覚にもつながっている。ドレスデンでは1万7000人を超すドイツ人が反イスラムを掲げて行進し、スウェーデンでは3つのモスクが相次いで攻撃を受けた。イスラム教徒は「非ヨーロッパ人」、さらには「文明化」されたヨーロッパでは居場所のない「野蛮人」だと表現された。

3. 大陸のいたるところのイスラム教徒が、不確かさの感覚にとらわれている。例えば、ドレスデンでの抗議に対抗して、歴史あるケルン大聖堂が明かりを暗くするといった重要な反発があったが、それは不安な感覚を和らげるには至らなかった。

4. 私たちは、明らかに二重の失敗を犯した。イスラム教の指導者と組織は、致命的な失敗を犯してきた。なぜなら、パリでの事件のような殺人者たちは、イスラム共同体からやって来たからだ。イスラム教の指導体制と共同体を強化しない限り、こうした悲劇は続くだろう。例えば、マルセイユには中心となるモスクがなく、したがって社会的な組織と行動のための焦点がない。イスラム教の指導者たちは、今の地域共同体の人々が、もともと暮らしていたアルジェリアやパキスタンとは社会的、文化的に異なった状況下で生活している事実を強調すべきなのだ。どこのイスラム教徒であっても、彼らの信仰や教祖マホメットに向けられる侮辱には不満を抱くが、その抗議の手段は、暴力ではないと訴えるべきなのだ。

5. ヨーロッパの現地の行政も、同じように失敗した。失敗していなければ、あのような攻撃が、あれほどの頻度で起きることはないはずだ。イスラム共同体と密に連携しながら、効果のある戦略を考え出し、将来の暴力を阻む必要がある。イスラム教と非イスラム教の指導者たちがともに努力しなければ、暴力は制御されない。私たちが抱いたのは、ある場所ではでたらめな取り組みが行われ、また別の場所では過度に強制力が使われた、との感覚だった。

6. アメリカにいる人間は、ヨーロッパがいかにアフリカやアジアに近いかということを忘れがちだ。これらの大陸は実際に接している。西ではスペインとモロッコが、東ではトルコとギリシャが隣り合っている。このことは、国境に「侵入しやすい」ことを意味する。2014年には、約15万人の移民がイタリアに上陸した。私たちがその島にいた間には、1300人が海から救助された。北、中央アフリカ、それに中東で政治的な大混乱が続く限り、人々は家から逃げて、海外に避難場所を探すだろう。ヨーロッパは、その目的地になり続けるのだ。できる限り早く、長期的な難民対策を考え出す必要がある。そうでないと、現地の資源はすぐに壊滅してしまうだろう。

7. ヨーロッパ各地で起こっているさまざまな出来事を考慮すると、ヨーロッパのイスラム教徒の論点は今後、法と秩序の問題を含む大きな試練が社会に投げかけられる、と結論付けるのは難しいことではない。その課題に取り組むことは、最大の優先事項になっている。

8. フランスの大統領とパリの主要なモスクのイマームはどちらも、彼らは地獄に落ちるだろう、などと口にして殺人者を正当に非難した。問題は、それらの行為が宗教に動機付けられているという仮定だ。イスラム教徒たちは宗教上のレトリックを使ってきたかもしれないが、その攻撃は、彼らが今、暮らしているヨーロッパの社会学的な環境がもたらしたものなのだ。よって、それに対する反応も、無駄な理論上の議論に首を突っ込むことではなく、そうした出来事を将来にわたって効果的に防ぐことでなければならない。加えて、少数派の共同体を扱う戦略と政策は、ヨーロッパ全体を通じて作られる必要がある。

9. ヨーロッパは騒然とした時代に入っており、英知と勇気、そして同情の心が、イスラム教徒、非イスラム教徒の指導者の双方に求められている。幸いなことに、並外れた先見性を持つ男性や女性がいる。私たちは光栄にも、そうした先見性を持つ人々、つまりデンマークの元チーフ・ラビのベント・メルヒオール氏、元カンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズ氏、ボスニア・ヘルツェゴビナの元イスラム教指導者のムスタファ・セリッチ氏に会うことができた。彼