真っ白な妊娠検査薬に涙した日々。8年間の不妊治療から見出した「幸せ」

負け戦が続くたびに、私の中では「子供が欲しい」という気持ちがむくむくとわき起こってきた。

負け戦が続くたびに増す、「子供が欲しい」の思い

「そろそろ子供いてもいいかなーと思ってるんだよね」

「じゃあ外出しやめてみる?」

「うんうん、中によろしく、ね!」

ベッドの中で、夫婦ふたりでイヒヒと笑いながらした会話。そのときは「外出し」をやめれば、すぐに子供はできると思っていた。そもそもいわゆる外出し=膣外射精は避妊には該当しないという性知識もないほどだった。それがその後、不妊治療という、長く真っ暗なトンネルが待ち受けているとは・・・・・・。

同級生だった夫と結婚したのは26歳の時だった。東京で働く者としては、比較的若い結婚だったと思う。ただし仕事や遊びが楽しくて、30代に突入しても「子供はいつかできればいいな」としか思っていなかった。

ところが「外出し」をやめたあとも、子供は授からなかった。毎月のようにトイレにこもるのが習慣になった。「ここに線が出てくれば・・・」と祈るような気持ちで妊娠検査薬を試し、しばし時間をおいてエイッと思い切って見るも、陽性を示す線は真っ白のまま。何度がっくりと肩を落としながらトイレから出てきただろう。

負け戦が続くたびに、私の中では「子供が欲しい」という気持ちがむくむくとわき起こってきた。ダメと言われた途端、余計に欲しくなる——子供の頃、親にねだって却下されたオモチャのようなものだろうか。

今でこそ「妊活」「ベビ待ち」なんて愛らしくポジティブなフレーズが一般的になっているが、当時は「不妊」というダークな言葉のみ。「不」という否定の文字が何より重々しい。その文字を否定するためにも、私はひとまずクリニックの門を叩くことにした。

「多少問題はありますが、決定的なものではないですね。若いし、比較的短時間で子供はできるのではないかと思います」。最初のクリニックで一通り検査し、しばし通院した後に、担当した医師はそう言った。その言葉に免罪符をもらった気がした。

ところがどうだろう。その後クリニックに通えど通えど、私は妊娠しなかった。結局、子供を授かるまでには足かけ8年、総額600万近くを費やした。顕微授精という高度な治療を何度も経て、やっとこさ母になったときには、私はちらほら白髪が目立つ39歳になっていた。

不妊治療の辛さの正体と、だからこそ今思うこと

不妊治療の辛さを端的に言うと、「努力してもむくわれるとは限らないこと」。

これが例えば試験ならば「今回ダメだったのは努力が足りなかったんだ、次がんばろう」と思えるけれど、私の妊娠に関しては、そうはいかなかった。もちろん当初は、「睡眠時間が足りなかったんじゃないか」とか、「ジャンクな食べ物を食べ過ぎたのでは」なんてあれこれ反省点を挙げて、次回に向けて努力改善していた。

それでも妊娠検査薬は相変わらず真っ白のまま。途中、晴れて妊娠検査薬に陽性のラインが出現するも、2回続けて流産した。さすがに2回目の流産は堪えて、クリニックでワンワン泣いた。こんなに頑張っているのに・・・。

自暴自棄になり、神様なんていないと憤慨し、子授けの神社で買ったお守りを燃やそうとした(ただしうっかり外で燃やせば誰かに通報されかねないし、家の中で燃やせば火災報知器が鳴り響きそうなので断念したが。都会には悲しみにくれてモノを燃やすところすらないのだ!)。

そんな長く辛い不妊治療を終えたいま、「治療を通して、こんな尊いものを得られました」と目をキラキラさせて言えれば良いのかもしれない。けれど正直に言うと、良かったと思えることは決して多くない。できれば経験したくなかったというのが本音だ。

だからこそ、矛盾しているようだけど、「不妊かもしれない」という人はもちろん、「いつかは子供が欲しい」と思う人は、積極的にクリニックを訪れることをおすすめしたい。何も高度治療をすすめたいわけではない。自分の体を知り、向き合うのは早いにこしたことはないのだ。もし妊娠できない原因があった場合も、早期にわかったほうが手の施しようもある。

治療して良かったと思える数少ないこと

一方で不妊治療をして良かったと思える数少ないことを挙げるならば、人の痛みが少しはわかるようになったことかもしれない。世の中には色々な人がいて、こちらの何気ない一言でも傷つくことがある、ということを身をもって知ったのだ。

不妊治療の真っ最中、知人の「うっかり3人目ができちゃったんだよねえ」と残念そうに言う言葉に、私は深く深く傷ついた。私は1人目すらできていないのに。なんならその3人目、私にちょうだいよ!

けれど自分の身を引いてみると、例えば「子供ができない」という悩みすら、時として人を傷つけることがあることに気付いた。同じクリニックに通っていた知人が病気を患い、「治療は諦めた、まずは自分の命を優先させようと思う」と語っていたときには、ショックで何も言えなかった。不妊治療ができているということすら幸せなことかもしれないと、しみじみ感じた。

とことんまで考えて見いだした、「幸せってなんだろう」

不妊治療を続けていると、大げさに言うと「生きるとは」について真剣に考えざるを得ない。治療も長年継続していると、だんだん子を授かるという望みが薄くなってくる。そしてその時間の分だけ、自分や夫と向き合い、対話する時間が増えていく。

子供を授からない私たちは、この後どうやって生きていくか? 子供がいてもいなくても私は私ではなかったのか? そもそも幸せっていったい何? と。

そしてとことん考え、幸せとは、子供やパートナーの有無といった条件ではなく、あくまでも個人の感じ方なのだという結論がでた。そのうえでできるところまで治療をしてみてダメだったときには、キッパリと別の生き方をしようと開き直るに至った。

そうして最後はほとんど惰性でクリニックに通っていたところ、ついに長年の治療が実って私は妊娠した。

いざ出産する病院に通い出したとき、高齢出産ということもあって、医師から出生前診断について説明があった。出生前診断とは、お腹の子供に異常がないか調べる検査だ。その病院での確定診断には羊水検査が行われ、検査にはわずかながら流産する可能性もあるという。

私は即座に出生前診断を断った。「もし障害がある可能性があっても、私は生みますので」。医師の前でそう言い切った私に対し、夫は診察室を出るなり「カッコ良かったよ!」とニンマリと笑った。

そして生まれた子供はいたって健康で、最近2歳になったばかりだ。またその子が1歳になったときに治療を再開し、上の子と同じ顕微授精で今度はあっさりと妊娠、先日第二子を授かり出産した。

生まれたばかりの下の子に加え、上の子は「魔の2歳児」と言われるお年頃。そのワガママっぷりに手を焼くことも少なくない。けれど根底には「余裕余裕」と笑っていられる自分がいる。

あの真っ白な検査薬に涙した日々を思い出せば、昼夜問わず泣く赤ちゃんも、最高潮にワガママな2歳児も、まさに「子宝」と感じる毎日だ。

lbo

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