カズオ・イシグロと、ボブ・ディラン――ノーベル文学賞を受賞した二人の“ミュージシャン”という共通点

「わたしを離さないで」の作者がディランから受けた影響とは

カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した速報は、一瞬で世界中を駆け巡り、日本の片隅でひっそり息をする私にとっても、特別なニュースとなった。

日本でも、受賞以前からイシグロ作品は人気を博していた。なかでも『わたしを離さないで』は知名度が高く、TBSでドラマ化されたり、蜷川幸雄によって舞台化されたりもしたので、馴染みのある人も多いだろう。

私自身は20代後半の頃、社会人として働きながら大学院へ通い、イシグロ文学の研究に没頭した。2年間の修士課程では、イシグロ文学と密接に関わる"音楽"の存在に着目し、修士論文のテーマとした。

論文を執筆していく過程で知ったのは、イシグロが、ヒッピー音楽およびボブ・ディランから多大な影響を受けていることだった。

ボブ・ディランといえば、昨年、ノーベル文学賞を受賞したことが話題となった。受賞した当初は、なぜ歌手が受賞するのかなどと物議を醸したが、私は一人で合点していた。

何年も前からノーベル文学賞受賞候補であったイシグロが、その歌詞から「文学的に」影響を受けたと公言していたのが、誰でもない、ボブ・ディランだったからだ。ディラン受賞の理由も「アメリカ音楽の伝統のなかで新たな詩的表現を生み出した功績による」と言われている。

この度のノーベル文学賞を、昨年のボブ・ディランに次いでイシグロが受賞したことは、イシグロ本人にとって、さらに特別な意義が付与されたに違いない。

そして、イシグロがヒッピー音楽やディランに興味を持つに至るまでには、幼い頃からの影響――音楽好きであった父の存在や、5歳半で日本を離れた経験などが関連している。

愛する祖父、故郷との離別――イシグロの日本観

カズオ・イシグロは、1954年、長崎市新中川町に生まれた。イシグロが5歳半のとき、長崎気象台に勤務していた海洋研究者の父、鎮雄(しずお)の仕事の都合で、イングランド南部のサリー州ギルフォードへと移り住んだ。

移住当初は1年間ほどの滞在予定だったが、予定は毎年延長され、一家が日本へ帰国することはなかった。イシグロ自身も、いずれ日本に戻るだろうと思いながら、子供時代を通じて日本を忘れることなく過ごしていたという。

イシグロが心境的にも現実的にも帰郷を断念したのは、祖父、石黒昌明(まさあき)の訃報がもたらされた1970年、15歳のときだった。父、鎮雄が、それまで曖昧にしていた永住の地をイギリスと定め、イシグロら子どもたちはそれに従った。祖父の死去も一因としてあったのかもしれない。

イシグロが幼い頃から敬愛していた祖父、昌明は、上海の豊田紡織商の設立に携わった人物である。イシグロは5歳半でイギリスに移住したために、祖父母と暮らした時間は短かったが、その後も、祖父が日本から漫画を送ってくれたり、手紙のやりとりを続けるなどして交流を深めていた。

イシグロ長編5作目『私たちが孤児だったころ』や、脚本を手掛けた映画『上海の伯爵夫人』の舞台が上海となっていることも、祖父からの影響が関連している。

また、イシグロは、日本との関わりや思い出について聞かれる度、自分のルーツは日本であると語り、渡英当初は、いずれ必ず日本に帰るのだと毎年思っていたと述べている。

しかし、イシグロが描く日本の風景のなかには、英国で成長した後に、アイデンティティーのルーツを探る過程で興味を持つようになった、小津安二郎の映画や日本文学の影響によって"再構築"された部分がある。

"自分の故郷は日本だと思いながら異国で過ごした幼少時代" や、5歳までの日本の思い出を、映画や文学という"作り物の日本のイメージで補強"したことは、後に、イシグロ作品にみられるアイデンティティ探求のテーマや、"寄る辺ない人々"、"放浪する者" という登場人物たちへと昇華されていったと考えられる。

それらはまた、イシグロ自身の流浪の精神を掻き立て、ヒッピーのような、根を持たない自由なスタイルに傾倒する理由にも繋がっていったとも見られる。

父から受けた音楽の影響、そしてディランとの出会い

イシグロは、音楽好きだった父の影響もあり、幼い頃から音楽に深い関心を抱いていた。

父は、長崎時代に勤務していた長崎気象台の社歌も作るほど音楽に熱心で、ピアノが得意だった。毎朝、父の弾くピアノの音で起こされたというように、イシグロは幼い頃から常に音楽のある家庭で育った。自身も5歳からピアノを始め、近所の聖歌隊にも入るなどして、音楽との絆を深めていった。

そうして音楽の素養を磨いていったイシグロは、13歳で、運命的な出会いを果たす。

ヒッピーと、ボブ・ディラン――10代のイシグロが没頭したのは、これらの音楽および思想であった。

そこには、父から受けた音楽という影響と、前述した、「故郷を持たない者の感覚」が内在している。だからこその選択だったと、当時のイシグロが気づいていたのかは定かではない。しかし、こうして並べてみると、すべてが必然的に繋がっているように見えるのだ。

ミュージシャンを夢見た青年時代

13歳のイシグロが初めて購入したディランのアルバムは『ジョン・ウェズリー・ハーディング』だった。

語るような歌詞、匂いたつ情緒、脳に焼き付いて離れないギターフレーズ。彼の時代に生きた者は誰しもが衝撃を受けたことだろう。

イシグロもまた、かつてない刺激を受けるままに、15歳でギターを弾き始める。そして、そのことが後に「ミュージシャンになる」という夢へとつながっていくのだ。

小説家へ転身し活躍している現在も、人生で最も影響を受けた人物としてディランの名を挙げるほど、その影響力は計り知れない。

また、イシグロがギターを始めた15歳は、祖父が亡くなった時期とも重なる。祖父の死去によってより一層、故郷である日本とのつながりが薄れていったイシグロが、ギターとヒッピー音楽に熱中していく姿は、想像に難くない。

ディランから受けた"文学的"影響

イシグロが受けたディランの衝撃は、音楽面だけにとどまらなかった。

言葉として、文学として、ディランから多大なる影響を受けたことについて、

言葉が"文学的"に使われることについて、初めて興味を持ったのは、ディランがきっかけでした。"Rooted in a small space: An interview with Kazuo Ishiguro", The Kenyon Review 20, 1998

と述べたり、音楽における『意識の流れ』との邂逅について

ディランの歌詞が、私にとって初めての『意識の流れ』や『シュール』との出会いだったと思います。"Kazuo Ishiguro, The Art of Fiction No.196,"The Paris Review"

と語るほどである。

(※『意識の流れ』とは、移ろいゆく人間の意識を記す文学的手法。ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』などが有名)

このように、ディランからは、歌詞および言葉による影響を受けており、イシグロは、小説家を目指す以前から既に、言語に対する興味を持っていたことがわかる。

そして、ミュージシャンを目指して活動をし始めたイシグロは、自ら作詞・作曲をして、100曲以上の曲を製作した。デモテープを作り、多くのレコード会社に売り込んだが、どれも日の目を見ることはなかった。

同時に、19歳の時、当時の若者文化の発信地でもあった北カリフォルニアへ、ヒッチハイクの旅に出るなどして、ジャック・ケルアック『路上』さながらの、ヒッピー生活も経験した。

しかし、時代は移り変わり、イギリスではパンクが台頭し始め、イシグロの音楽への意識も変化し始める。

ミュージシャンから、小説家へと転身

当時流行していたパンクは、ヒッピーからの脱却を目指し、より攻撃的な姿勢が強くなったこともあり、イシグロはパンク・ムーブメントに傾倒することはなかった。

こうした音楽シーンの変遷によって、自分の属すべき時代の終焉を感じたイシグロは、音楽から小説へと、創作活動のスタイルを転向することになった。

ここで重要なのは、イシグロにとっては、〈言葉を紡ぐ手段としての音楽〉にこそ意味があり、ヒッピースタイルとしての、「ギターを片手に物語る」ような歌詞を伴う音楽こそが礎となっていた点だ。

そうした音楽を作っていくうち、次第に、詞を書くだけでは満足できなくなっていって、音楽から小説へと、活動形態を変えていったのだった。

以上のことから、イシグロにとって音楽と小説は、創作というカテゴリーにおいて深い繋がりを持っていることは明瞭だ。

そのきっかけを作ったディランの力は、巡り巡って、現在私たちが享受するイシグロ文学のモチーフや文体に反映されている。

イシグロ自身が、インタビューで以下のように語っていることも、その事実を証明している。

小説を書いているときでも、ソングライターとしての自分がいます。若い頃に作っていた歌と、現在の自分が書く小説の間には多くの共通点があり、小説家としての"スタイル"は、ソングライターだった頃の体験に由来していると思います。"The Persistence — And Impermanence — Of Memory In 'The Buried Giant'", nprbooks, 28. Feb.2015.

そして、これらはすべて、13歳のカズオ少年が、ボブ・ディランの音楽と出会ったことに起因する。

思春期に夢見た憧れのヒーローとの邂逅は、長い長い時間を超え、ノーベル文学賞受賞者として名を連ねる形で実現したのだ。まるで映画のような偶然に、運命めいたものを感じたのは筆者だけではないだろう。

13歳の少年の憧憬と情熱から始まった創作活動は、権威ある賞へと結実した。その喝采は、彼の故郷である極東の地にまで、しっかりと届いている。

【参考】

平井杏子『カズオ・イシグロ―境界のない世界』水声社,2011.

ETV特集『カズオ・イシグロをさがして』,NHK,2011.4.17.

『SWITCH Vol.8 No.6 特集カズオ・イシグロ「もうひとつの丘へ」』,扶桑社,1991

"Rooted in a small space: An interview with Kazuo Ishiguro", The Kenyon Review 20

"Kazuo Ishiguro, The Art of Fiction No.196,"The Paris Review

「カズオ・イシグロ 英国を代表する作家が語る『私とニッポン』」,『クーリエ・ジャポン』, 2006.11.

「Kazuo Ishiguro 日本に対してずっと強い愛情を持ち続けてきた」, 『CAT cross and talk』, 1990.12.

"The Persistence — And Impermanence — Of Memory In 'The Buried Giant'", nprbooks, 28. Feb.2015.

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