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21世紀の尊皇攘夷運動=安倍政権は開国政府を作れるか?

2015年05月06日 14時00分 JST | 更新 2016年05月05日 18時12分 JST

安部首相の米議会での演説を受けて(なのかどうかはわかりませんが)、自民党の若手議員有志が、「歴史修正主義的な過剰なナショナリズムを排し、保守の王道を歩む」勉強会を始めたそうです。

 

これはまあ、どんな立場の人にとっても「良いニュース」と言っていいように思います。しかし、これがどの程度広がるのか、ただ一部の議員のヒソヒソ声に終わってしまうのか、それとも1つの大きな傾向として育っていくのか?には、「よくある陣営対立」を超えた視点で物事を見る姿勢が、どんな立場の人にとっても必要なタイミングではないかと私は考えています。

 

究極的には、安倍政権の一部に「やり過ぎな右傾的要素」が含まれているという「事情」自体を解決するように持っていかないと、いくら一部の議員が勉強会を開いても、「自民党のマジョリティ」や「その支持者」の方針は変えられないからです。

 

なぜ変えられないか?

 

そりゃあ"アイツら"がゲスで愚鈍で時代の流れについてこれない品性下劣な人種差別主義者だから?でしょうか。

 

そうではありません。彼らがそうしなくてはならない事情があるからです。

 

あなたの信条から言って彼らの行動・言動が許せないのなら、それを批判し、否定し、変えようとすることは大事なことです。しかし、同時に、「相手がそれをやらずにはいられない事情」を放置したままでいると、どこまで行っても平行線のまま余計に過激化が進むことになります。

 

「理解すると、理解される」という言葉がありますが、「彼らの事情を理解して、そしてその事情を"彼らとは違うやり方で"解決に向かおうとすること」が、この問題の根本的な解決のために必須な思考法なわけですね。

 

そのためには、安倍政権のムーブメントが、ある種の「尊王攘夷運動」のようなものだと見る姿勢が第一歩になります。

 

日本の幕末については色んな考え方があって、例えば私は大学時代山口県出身の女性と一緒に住んでいたんですが、郷里のご両親にお会いしに行った時に、あまりに「ついさっき近所の兄ちゃんが東京に行って政府を作った」ぐらいの気分で話している高齢者がいるのに驚愕しました。

 

そういう「薩長土肥的英雄譚」として幕末の歴史を読みたい人と、それに対して冷笑的な態度を取りたい人が日本の中にいることは自然なことだと思いますし、例えば「革命側」が色々と無茶をしたことを「歴史修正主義」的に塗りつぶしてしまうことはよくありません。

 

しかし一方で、じゃあ「そういう無茶をしてまでも成し遂げられたこと」というのが一方であった時に、その功績も全部否定されてしまうと、それはそれで「嫌だ」というかそもそも「アンフェアだ、おかしい」と思う人も、また当然多くいるだろうと思います。

 

じゃあ、何らかの統一的リーダーシップを誰も取らなくて、あのまま西欧列強に分割統治されて、当時の清国が陥ったような悲劇になっても良かったのか?というと、それはやっぱねえ・・・ということになるでしょう。

 

そのプロセスの初期には、「尊王攘夷運動」といって、もうガイジン見たら全員斬り殺せ!というレベルの運動だってあったわけですし、まあそれはそれは野蛮だし、今から見るとムチャクチャですよね。

 

もっと理性的で良心的な運動によって統一がなされたら良かったのに・・・というのはまあ、確かに理想論としてはそうです。

 

しかしね、この文章にネットで出会ってちゃんと読んでるあなたのようなインテリと、私が密室で二人で話し合って「そうだね、そういう側面もあるね」と言うレベルで同意できるかどうか?という話じゃないわけですよねこれは。

 

今まさに侵略されて分割されてしまうかもしれない!という危機状況の中で、曲がりなりにも統一的に行動を起こせる政府を作らなくちゃという「免疫力」を発揮するためには、多少アレルギー反応的に大げさであっても、強力な熱量を発するようなムーブメントが「必要」だったところはあるでしょう。

 

要するにこの問題は、

 

「何かみんなのためになること」を必死にやった人が巻き添えに被害者を出してしまった時に、その対象をどう評価するか?

 

という問題なわけです。

 

ある人は、その「巻き添えの被害者」のことを重く見るだろう。ある人は、「何かみんなのためになること」を必死にやったことの価値を重視するだろう。

 

それぞれの価値観の違いを尊重することは大事なんですが、でもこれ、「そのまま」理解できりゃ一番良いですよね。

・「功績を讃えたい」人だって、功績を否定されないんであれば、過ちも認められる。
・「過ちを正したい」人だって、それを否定されないんであれば、功績があったことは認められる。

 

「ヒロイックな功績」にフルフルと感動した人だって、その「功績」を否定されないのであれば、「過ち」をも、「そうなってしまったことは力不足だった。もっと向上しなければ」という方向にプライドを保ったまま理解できる。

 

「過ちを正したい人」だって、過ちを指摘するだけでは片手落ちだということは普通はわかってることが多いでしょうから、「過ちを正す論理」が毀損されないのであれば、功績を認めるにやぶさかではない・・・ということになるでしょう。

 

歴史修正主義の問題は、「彼らが大事にしたいと思っているもの」があって、それをキチンと表現する「欧米的価値観で政治的に正しい論理」が用意出来ない時に、それでも彼らが毎日安定的に生きていくためのプライドの源泉を保つためのアレルギー反応として生まれているわけです。

 

彼らはウソをつきたいわけでもないし、無意味に他の国の人を貶めたいわけでもないし、ただ彼らの生活を支えるプライドの源泉を守りたいだけなわけです。

 

しかし、その「生活の源泉」に対して今の「欧米的価値観の中で政治的に正しい論理」のあり方が今一歩届いていない部分があるので、「彼らなりの表現形式」でそれを表出せざるを得なくなっているわけですね。

 

ここで大事なのは、「だから大目に見ろ」という話ではないということです。「このオッサンは普段の生活で疲れてるかもしれないが、だからといって痴漢は許せません」というような「裁き」はちゃんとやるということです。

 

一方で、社会の構造的にそこに「シワ寄せ」が来ている現状は、「意識高い系の論理の延長」として実現するぞ、という、そういう「包括していく態度」が必要なんですよね。

 

 

イスラム国でのテロ事件の時に、そりゃテロリストの生まれた境遇には同情されるべきところはあるが、だからといって「テロを許す」ことはやっぱり良くないですよね。

 

そこをナアナアにしはじめると、実際問題としては、「殴っても殴り返してこないでお金払ってくれる国」扱いされてトコトン殴られる・・・という人間社会の現実はどうしてもあるからです。

 

一方で、そこにテロリズムが生まれてしまうメカニズム全体を、なんとかしていこう・・・という動きは真剣になされるべきですし、それは「テロするヤツを許さない」態度と決して矛盾しません。というか、両輪でやっていかないと決して解決しない問題ですよね。

 

日本における「右傾化勢力」は、もしあなたが逆側の立場にいて遠目に見ているだけだと「一枚岩」に見えるかもしれませんが、決してそうではありません。というか、冒頭の自民党の勉強会のように、「ちょっとあいつらとは一緒にされたくねえ」という危機感を持っている層も確実にいるでしょう。

 

「右vs左」の対立から、「良識派vsムチャクチャな過激派」ぐらいの「陣営の組み直し」が起きれば、「尊王攘夷運動から始まってそれなりに良識的な開国政府を作った」ような流れを引き寄せることができます。

 

その時に大事なことは、「尊王攘夷運動」側にいる人が「どうしても否定されたくないもの」は何なのか?を本質レベルで理解することです。そしてそれを「彼らとは違う回路」で解決してやることです。

 

 

では最後に、「"尊王攘夷運動"がどうして必要とされているのか」について、2つの記事へのリンクをしておきます。

 

1つは、「何が正義なのか」というような大上段な議論についてです。

 

そもそも、この問題は、まず欧米人がその前の帝国主義時代にムチャクチャやり始めたという問題がある。それに対抗するために日本は相当に「無理」をした部分があって、その「無理」の結果守られた価値だって当然ある。もちろん、その「無理」の延長で色んな「被害」も出た。

 

そこの「功績」は完全否定された上で「巻き添えになった被害」の責任は100%取れと言われても納得できないよね、という不公平感があるわけですよね。で、言論の自由が保たれている空間で、「そもそもアンフェアなこと」を国論として完全に安定的に採用するなどというのはそもそも不可能です。

 

この問題は、「3割のそもそもの欧米の罪と、残り7割の日本の罪」を、全部日本に載せているから紛糾するわけです。「3割の欧米側の罪」の裏返しとしての日本の(あるいは"非欧米国の"と一般化してもいい)「功績」の部分をちゃんとフェアに理解できるようになれば、「残り7割の罪」を否定したいという気持ち自体が根治していくわけですね。

 

そして、日中韓の間の相互理解も、この「3割の欧米の罪」の部分に対する違和感は実はあらゆる東アジア人の(特に多くの男)の中には渦巻いているので、その「3割」の部分での共感関係を基調としていって、それぞれの国の共同体の「免疫力」を危機にさらさない形に持っていけるならば、「悲しきAsian boysの共感関係」を直につないで行くことによって相互理解が確立するし、同時に日本の右翼さんも「あったことまでなかったことにする」必要性も感じなくなるでしょう。(感情的問題が先に解決すれば、"なかったことまであったことにする"議論もいずれ落ち着いていくでしょう)

 

そういう方向性についてまとめたのが、「日中韓が心の底から仲良くなる方法」という記事です。

 

 

もう1つの「尊王攘夷運動の必要性」の話は、実際に日本の組織のユニークネスとその結果としての「優秀性」を保つには、「単純なグローバリズムの延長」だけでそれ以外を焼き払ってしまうような時代の中では何らかの「免疫メカニズム」が必要だという実質的な事情です。

 

もし「免疫力」が崩壊して、なんか日本が「一部の超絶金持ちと、それ以外のほんと果てしない絶望的スラム街」みたいな世界になったら、そりゃ良くないですよね。

 

こうやって並べてみると、"そうならないため"なら、多少の歴史修正主義発言の罪ぐらい軽いだろう・・・という「物事の軽重の感覚」の人も多くいると思います。

 

で、何度も言いますが、「だからといって何を言っても許されるべき」という話ではないということです。

 

「ダメなものはダメ」という断固とした姿勢と、「その姿勢が取りこぼしている問題への目配り」を両輪としてやらないと解決するはずないよね、という話なわけですね。

 

ちょっとだけいつもやってる自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「"右傾化"といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

 

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

で、「普通の国ならスラム街になってもオカシクない」ような領域にいる「職場」でも、ちょっと変な言い方ですが「職業意識」はめちゃ高いんですよ。

 

「そこにあるもの」と、そこから広がって震災時にも崩壊しない治安とか、日本におけるトヨタや精密機械産業の優秀性といった世界は「地続き」につながっている。「それを失って」しまったらもうそれは日本とは言えないような「何か」がそこにある。

 

で、恵まれた育ちの人から見ると、そういう「日本人?