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「幻の戦車」を求めて 男たちはなぜ湖底を探すのか?

2015年07月29日 00時04分 JST | 更新 2017年04月28日 14時00分 JST

■予想とは違っていた「戦車沈没」の現場

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猪鼻湖の湖岸にいた猫

「にゃ〜」。波打ち際で湖面を眺めていると、人なつっこい猫が足下にまとわりついてきた。2015年6月19日、「幻の戦車」が沈んでいるという湖に来てみたが、見つかったのは戦車ではなく、1匹の猫だった。写真を撮ると、逃げるどころかどんどん寄ってきた。

ここは静岡県浜松市の猪鼻湖(いのはなこ)。南側の浜名湖と繋がる「瀬戸」と呼ばれる部分だ。

山に囲まれた幅120メートルの海峡のような地形になっている。水深10メートル以上と深くえぐられたこの一角に、旧日本陸軍の戦車が沈んでいると言われている。しかし、想像以上に狭い。湖底を漁ればすぐに見つかりそうに思えた。

■湖底に沈んだ「幻の戦車」とは?

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猪鼻湖に沈んでいると言われている「四式中戦車チト」。1945年8月、終戦直後に千葉陸軍戦車学校で撮影。写真提供:有限会社ファインモールド

この瀬戸周辺では以前から「湖底に戦車がある」という話が言い伝えられていた。だが、大きな動きがあったのは、戦後50年以上たった1999年1月のことだ。地元在住の旧日本陸軍・技術少尉、大平安夫さん(当時81歳、故人)が「自分が戦車を沈めた」と中日新聞の記事で証言したのだ。

終戦3カ月前の1945年5月、旧三ヶ日町(現・浜松市北区)には総員4050人からなる独立戦車第8旅団の司令部が置かれていた。アメリカ軍が遠州灘に上陸することを見越した本土決戦の布陣だった。

しかし、何事もなく終戦。整備隊班長だった大平さんは8月下旬、司令官の当山弘道中将に、3両の車両をアメリカ軍に見つかる前に処分することを命じられた。

中日新聞の報道によると、彼が沈めたのは「四式中戦車チト」。決戦兵器として、旧日本陸軍が2両試作しただけの「幻の戦車」だった。全長約6.4メートル、重量約30トン。アメリカ軍のM4シャーマン中戦車に対抗できるように口径75ミリの本格的な対戦車砲を装備した。1両はアメリカ軍が接収、もう1両は日本に残されたがどちらも現在は行方不明だ。

チト以外にも陸軍の主力戦車だった「九七式中戦車チハ」と、イギリス軍から鹵獲した兵員輸送車も沈められた。この兵員輸送車はスクラップ業者が解体して持ち去ったが、残り2両の戦車は猪鼻湖の湖底に眠っているという。

■「50〜60メートル進んだあたりでガツンって音がした」

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戦車が沈んでいった方向を指さす目撃者の一人、二橋敦之さん

猫は私とじゃれるのに飽きたのか、いつのまにか姿を消していた。気を取り直して、周辺住民に聞き込みを始めることにした。

瀬戸の近くにレンタカーを駐車し、目の前を歩いていた高齢の女性に声をかけてみた。「すいません、沈んだ戦車のことを調べに来たんですが...」。「ああ、それならうちの旦那が沈めるところ見たよ」。まさか、いきなり目撃者に当たるとは。夫の二橋瑞江(にはし・みずえ)さん(94歳)の話は、こうだった。

「俺は当時24歳だったかな。肺を悪くしていたので戦争には行かず軍需工場で働いていたんだ。終戦直後のある日、うちの前に3両の戦車が止まってバッテリーを外してから、湖に向かってズザーっと沈んでいった。兵隊から『お前も一緒に乗っていくか?』と声かけられたけど、怖いから断ったんだ」。

当時の目撃者はもう一人いると聞き、湖岸にある二橋敦之(にはし・あつし)さん(85歳)の家に向かった。先ほどの夫妻と同姓だが、この地域に多い名字で、血縁はないという。地元小学校の校長などを歴任した人物だ。

「当時、僕は15歳だったんだが、たしかに3両の戦車が瀬戸の海岸に入ってきて、湖の中に沈んでいった。1両は小さかったけど、浅いところに沈んだので、そのあとも見えていたよ。戦後しばらくしてからスクラップ業者みたいな人が解体して持っていったらしい。もう2両は瀬戸の深いところに入ったので、全然見えなくなったね。50〜60メートル進んだあたりでガツンって鈍い音がして泡が出てきたんで、『あそこまで進んだ』というのが分かった」

当時、戦車を沈めるところを見たのは、この集落の住民だけ。しかも戦後70年を経たことで、目撃者はこの2人しか残っていないという。「チトという戦車だと当時から知っていましたか?」と尋ねると、2人とも首を横に振った。ともあれ、戦車が沈められたのは間違いない。貴重な証言を聞くことができた。

■戦車探索の発端は亡き父の一言だった

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スマッペ事務局長の中村健二さん

「幻の戦車」をめぐっては、2つのプロジェクトが動いていた。1つ目は中日新聞のスクープ記事が出た1999年に、軍事マニアを中心に盛り上がった「四式戦車を引き揚げる会」の運動。もう一つは、2012年に猪鼻湖の地元地域の若手有志がスタートさせた「『幻の戦車』調査プロジェクト」だ。

前者の「四式戦車を引き揚げる会」は、文字通り戦車の引き揚げを目指したものの、目立った成果が出ないまま、活動を停止していた。私はまず、後者の「『幻の戦車』調査プロジェクト」に当たってみることにした。

このプロジェクトは、猪鼻湖を囲む旧三ヶ日町の若手らでつくる団体「スマッペ」が主催している。事務局長で食品会社を営む中村健二さん(55歳)に6月19日、詳しい話を聞くことができた。

「三ヶ日を舞台にした短編映画『がんばりますかっ!』の雑談シーンが最初だったんです。脚本には私も協力したのですが、登場人物が『あっ、湖に戦車が沈んでんじゃん。それをつり上げたい』と語る台詞が入っていました。この映画を、戦車に詳しい御殿場市の自動車整備会社カマドの小林雅彦社長が見て、『本当に引き揚げるんですか?』と、問い合わせが来たんです。もちろん、そんな予定はないので、びっくりしましたね」

こうして中村さんは、2012年の4月ごろに小林社長とともに猪鼻湖での聞き取り調査を実施した。小林社長の説明で中村さんは、湖底に沈んでいるのが「チト」という日本で2両しか造られなかった戦車だと初めて知ったという。

中村さんは「これは三ヶ日の街起こし」になると直感。「地元の歴史を次世代に残すには今しかない」と「『幻の戦車』調査プロジェクト」を開始することになった。

2012年11月の初調査では船を出して、湖底を鉄パイプで突いた。その後は、ソナーや潜水夫による写真撮影を続けている。2014年12月にはクラウドファンディングで集めた450万円の資金で磁気調査を実施した。だが、戦車は発見できなかった。

「最初はすぐに見つかるだろうと思っていましたが、そんなに甘いものではなかった。戦後、みかん畑から土砂が流出した影響で、湖底には3メートル以上ものヘドロが堆積しています。その底にすっぽり埋まっているようなんです」

それでも中村さんは、戦車探しを諦めていない。それには個人的な理由があった。そもそも戦車のエピソードを映画に入れたのも、中村さんが子どものころ、猪鼻湖の吊り橋の上で『健二、ここから飛び込め。戦車が見れるぞ』と、父親が言ったことを覚えていたからだった。中村さんは遠い目で次のように話した。

「生前の父とは全く反りが合わずに口論ばかりしていました。でも、亡くなってから、父は三ヶ日の町の人を非常に気にかけていたことを知りました。町の年配の方々が、息子の僕のことを応援してくれたんです。戦車探しをするのも、ある意味では父への恩返しです。父の言葉をきっかけにして戦車を発見して、三ヶ日を盛り上げることができたなら、亡くなった父に『あんたのお陰だ』と酒を酌み交わせるような気がするんですよ」

■「幻の戦車」をスクープした男、田所記者の回想

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1999年に自身が書いた「幻の戦車」の記事を手にする中日新聞の元記者、田所定信さん

中村さんの話を聞いて「いい話だ......」と思った。ここでルポを締めれば、きれいに終わるが、私には気になっていることがあった。沈んでいる戦車は、本当に「チト」なのだろうか。

終戦直後から「猪鼻湖に戦車が沈んでいる」という噂はあったが、その戦車が「四式中戦車チト」と特定されたのは、1999年1月3日、中日新聞東海版の朝刊に1面トップで掲載された「奥浜名湖に幻の戦車」という記事が最初だ。このスクープ記事を書いた人間に話を聞けば、真相が明らかになるに違いない。

6月21日、JR浜松駅前は雨模様だった。駅ビルの書店に併設された喫茶店に初老の紳士が現れた。1999年に「幻の戦車」の記事を書いた、中日新聞元記者の田所定信さん(63)だ。「恥ずかしい話もあるんですが、今では時効だし、何でもしゃべりましょう」と、ざっくばらんに話し始めた。

「1998年の秋、浜松在住の郷土史家と雑談中に、『猪鼻湖に戦車が沈んでるよ』と聞いたのが最初でした。それで興味を持ち、湖岸に住んでいる二橋敦之先生に話を聞いたら、「戦車のことだったら、PTA会長をやっていた大平さんが詳しいよ」と言われた。それで大平安夫さんに会ってみたら、『私が沈めました』というんです。えっ、ウソだろ!と、びっくりしましたね」

このとき、大平さんは「以前にもテレビ局が取材したことがあるんだよ」と、ビデオテープを田所記者に渡した。それは1989年ごろに静岡放送(SBS)で流れたニュース番組の録画。大平さんが生々しく証言する様子が映っていた。「なんだ、特ダネじゃなかったのか」。一旦は落胆した田所記者だったが、あることに気がついた。

「SBSは取材が甘くて、戦車が沈んでいるということしか、報じていなかった。だったら、こっちは戦車を特定してやろうと思ったんです」

田所記者は軍事雑誌の編集部に相談。旧日本陸軍の戦車を何枚も借りてきて、大平さんの前にずらっと並べた。「これだ」。大平さんが指した先にあったのは「四式中戦車チト」の写真だった。

■SKと呼ばれた戦車は本当にチトなのか?

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アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)が所蔵する四式中戦車チトの写真(スティーヴン・J・ザロガ「日本の戦車1939-1945」より)

大平さんは、その戦車が「SK」と呼ばれていたと話していたという。彼自身は、それが「チト」という戦車とは認識していなかったのだ。ただし「日本に2両しかない秘密戦車」と部隊内で噂になっていたこと。車体の下部にある「転輪」の数が7個であること、砲塔の形などは覚えていた。大平さんが話した戦車の特徴を元に、田所記者が「この戦車はチトだ」と断定したということだった。

転輪の数が7個の戦車は、他にも75ミリ対戦車自走砲「ナト」があるが、「砲塔の形が違う」と判断。また、日本陸軍には実際に「SK」と呼ばれていた地底戦車もあったが、転輪の数は6個である点が異なっていた。

ただし、決め手には欠ける。「チト」が三ヶ日町に配備されたという公的な資料は、一切見つかっていないからだ。田所記者が取材した1998年当時でも、終戦から53年が経過している。大平さんの記憶が曖昧になっていた可能性もあるだろう。

実際、中日新聞のスクープ記事では大平さんが沈めた3両のうち1両は、シンガポール攻略時に鹵獲したイギリスの兵員輸送車「ウインザー・キャリア」だと報じていたが、イギリス軍に配備された時期と矛盾する。実際には、もっと以前に生産された「ブレンガン・キャリア」の可能性が高いという。田所記者は、こう話す。

「大平さんはウインザーの写真を指したんですが、形状がよく似ているんで間違えたんでしょうね」

■「引き揚げる会」が挫折した本当の理由とは?

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中日新聞東海版1999年1月27日夕刊の「引き揚げる会」発足を伝える記事

1999年の田所記者のスクープ記事により、「チトが湖底に沈んでいる」ということは既成事実となった。同月には「四式中戦車を引き揚げる会」が結成される。代表に就任したのは、愛知県豊橋市のプラモデル会社「ファインモールド」の鈴木邦宏社長だった。

戦車の専門家だった鈴木社長は、中日新聞の記事を見て、すぐに田所記者に連絡を取り、戦車を沈めた大平さんに面会した。その結果、鈴木社長は「ここに戦車が沈んでいるに違いない」と確信したという。田所記者は、「引き揚げる会」が結成された経緯を次のように話す。

「やっぱり鈴木社長の熱気に圧倒されたというのが大きいですね。彼は何としても引き揚げたいと熱く語っていました。現物を見た上で、チトの本物そっくりのプラモデルを作りたかったのかもしれません。2人で話しているうちに『僕は報道をやるから、あなたは事務局を頼む』ということになりました」

報道の人間が、市民運動に関わってはいけない。田所記者はそう考えて、「引き揚げる会」の正式メンバーにはならなかった。だが、会の活動を積極的に報道するなど陰からバックアップした。田所記者は、なぜそこまで「幻の戦車」に肩入れしたのだろうか。

「やっぱり沈んでいるものを見たいというのは本能だね