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「シャルリー・エブド」の風刺画はヘイトなのか?

2015年01月15日 17時07分 JST | 更新 2015年03月16日 18時12分 JST
charlie hebdo

フランスの時事週刊紙「シャルリー・エブド」へのテロが、表現の自由の危機だと考える人がいる。「シャルリー・エブド」も、フランス内では少数民族のイスラム教徒に対する嫌悪を表す漫画を多く掲載したために攻撃対象に選ばれ、いわゆる韓国の「イルベ」〔訳注・日本で言う「ネット右翼」〕が呼び起こしている「表現の自由制限」論、または「表現の自由無用論」を連想するというのだ。

まず、簡単に答えると、表現の自由は法概念であって道徳概念ではない。つまり共同体が個人に何を強制できるかを定める基準であり、個人や共同体の取った行動が良いか、正しいかを判断する基準ではない。シャルリー・エブドへのテロを受け、シャルリーのような漫画の規制を求める議論は発生していない。ただ「私はシャルリー」に参加しにくい理由を明らかにしているだけだ。韓国の「イルベ規制論」とは次元が違う。

しかし、表現の自由そのものの危機ではないとはいえ、少なくとも表現の自由の根底をなす多元主義の理念は危機に瀕していると考える人がいる。つまり「他人同士が共同体で生きていくためには、各自の表現や考え方が他人に不快感を与えたり、理解できなかったりしても、それ自体が保護されなければならない」という理念だ。結局、今回の事態は、ある種の表現や意見が究極的に保護されないことを示す事例だという主張だ。簡単に答えると、シャルリー・エブドはそんな事例ではない。

シャルリー・エブドの漫画を全体的に眺めてみよう。絶対に人種差別的ではない。シャルリーの風刺と揶揄はもともとローマ法王、ラビ(ユダヤ教指導者)ら、全ての宗教が対象だった。2006年に、デンマークの雑誌に載ったイスラムの預言者ムハンマドの風刺画を転載して脅迫を受けたため、イスラムの預言者ムハンマドを扱う頻度が高まっただけだ。あえて規定すれば、シャルリーは世俗主義的で、宗教の原理主義的な傾向に敵対的だった。変化のためにはあらゆる権威に挑戦しようとする「骨の髄まで」左派であり、そういう権威を聖域化しようとするすべての体制に反対することから、すべての権威的な宗教が対象となった。このような内容は漫画という形式とも分かちがたい関係だった。シャルリーが行った、権威に対する無責任で全方位的な攻撃の波は、アメリカで最も尊敬された牧師が母親との性交を告白する仮想インタビューを掲載したラリー・フリント(アメリカの実業家で雑誌編集者。ポルノ雑誌「ハスラー」を創刊)と似ている。もちろん、ムハンマドはイスラム教徒すべてに対し象徴性を持つ人物だが、ムハンマドを嘲笑したことをイスラムへのヘイト(嫌悪)と言うのであれば、北朝鮮の金日成主席と金正日総書記に賛辞をひとこと述べただけで国家保安法を適用する最近の韓国と大差ない。

芸術によって権威を攻撃する試みは、イスラム教徒自身もイスラムの律法や体制に向けてたくさん行っている。これは映画「クォ・ヴァディス」のように、キリスト教内部でキリスト教を批判する試みと大差ない。朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が、性的少数者の人権を明記した人権憲章を反対派の強硬な主張に押されて断念したように、こういう議論では原理主義者の声が大きく聞こえるものだが、シャルリー・エブドへのテロに対してはフランスだけでなく、世界の多くのイスラム教徒が断固として非難している。

シャルリー・エブドが風刺漫画を掲載する表現の自由は、自分たちの国を改革しようとするイスラム教徒のためにも保護されなければならない。今回の事態の根底は「文明の衝突」ではなく、宗教的聖域を守ろうとする者たちが、宗教がより人間中心になることを望む者たちに報復を加えただけだ。

もちろん多くの人々が「私はシャルリー」というスローガンを、反対側の暴力主義者たちが報復の根拠として乱用することを憂慮し「私はシャルリーではない」と宣言している。最大の乱用の事例がまさに9・11を口実に戦争を起こしたアメリカのブッシュ元大統領や、ガザを空爆しておきながらパリの抗議デモに参加したイスラエルのネタニヤフ首相である。しかし、これらを制御する力も、内部からもたらされるほかはなく、権力に対する告発と批判の自由はもっと必要だ。そのやり方が誰かにとって不快であっても。

「私はシャルリーではない」と言う人々も、シャルリー・エブドを表現の自由として保護してはならないと言いたいのではない。フランスで12人が死んだが、ナイジェリアで過激派組織ボコ・ハラムが2000人を殺しているのに、誰も「私はボコ・ハラムの被害者だ」と立ち上がらないメディアや欧米政府の偏った関心への抵抗だ。「私はシャルリー」というスローガンは、シャルリー・エブドの論調に反対であっても、シャルリー・エブドの表現の自由がテロに屈してはならないという意志表明であり、パリでの抗議デモに参加した複数の首脳が自国で表現の自由を残酷に侵害していることへの抵抗だ。「私はシャルリーだ」「私はシャルリーではない」、どれも表現の自由を求める一つの声なのだ。

このブログはハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳しました。