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ハーフ成人式ーー浦島花子が見た日本

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我が家の小学4年生が朝ごはんを食べながらぼやいていた。

「クラスでハーフ成人式をするかしないか決めるんだって」

「それってあれか『育ててくれてありがとう』とか、みんなに言わせるやつやろ?」

「そんなことしないよ。だってハーフの人のお祝いでしょ?」

「ハーフちゃうやろ。あんたはダブル」

「まあね〜」

多文化共生の我が家ではありがちな、チグハグ会話である。

そんな我が子は「成人式」が20歳のお祝いであることを知らないのだから、ハーフ成人式が10歳のお祝いという理解もない。

ということは、年末に行った写真館での記念撮影で、10歳と年齢を言っただけで「1/2 成人式」という色紙を持たされたことにも、彼女にとっては意味不明なことだったのか。

はたまた、日本に来て以来「ハーフ」と呼ばれ続けている彼女にとって「成人」するということは、まるでハーフの人が「やっとホール(1人の人)になりました」とでもいわんばかりであって、我が子は我が子なりに不愉快な思いをしていたのかもしれない。

さて、ハーフ成人式についての議論は、日本に戻ってきてから何度か読んで違和感を感じていたが、自分の子どもが4年生になり、学校でそんな会をするしないで話し合いをし、やりたくない人も少数であるが存在するにもかかわらず執行されるという時、改めてハーフ成人式という学校行事について違和感を感じている。

「育ててくれてありがとう」「命は大切」というメッセージは美しい。親への感謝を表すためにプレゼントを作ったり手紙を書いたりこともすばらしい。

だが、子どもの成長をお祝いするのはそれぞれの家庭ですればよいことで、わざわざ学校行事として行う必要があるだろうか?するのであれば、子ども達が10歳でいること自体を祝えばいいではないか。わざわざ親に感謝するなどという演技をさせる必要はないだろう。

誰も自ら望んで産んでもらった人はいない。また残念ながら、家庭が平穏である子どもばかりでもなく、施設での生活を余儀無くされている子どもも多い。

そうでなくても、パパはいつも帰りが遅く、ママも保育園や学童のお迎え時間にギリギリセーフで滑り込み、夕食後はすぐ就寝でゆっくり話をする時間もない生活であったり、放課後の家に誰もいないために塾や習い事に遅くまで通わせられたり、誰もいない家で一人で夕飯を食べている子ども達が、親に対して感謝の気持ちがあまりなくても、それは子ども達のせいではない。

私がハーフ成人式で違和感を感じるのは、それぞれが置かれている環境の多様性に目を向けることなく、「感謝しましょう」「こうしましょう」と子どもに代わって学校や大人が考えたことを子ども達に押し付け、自らの気持ちに向き合ったり、クラスにもいろんな人がいることに気付く機会を奪っているところにある。

学校は自ら考える力を育てるところではなかったのか?学校教育は、いつから一方的な答えしか子どもに教えなくなったのか?いや、そう思うのは、やはり海外生活が長すぎたからだろう。

思えば、私が子どもの頃だって、日本の学校では決まった答えしか教えてらもっていなかった。そんな教育を受けた日本人が海外生活を余儀なくされる時、結構な苦労をする羽目になる。これについては、2年前に書いたブログ「国際化、前進か後退か」でも触れている。

国際化だなんだと突き進む前に、そのための土台をしっかり備える必要があるはずだ。その土台とは、英語教育よりもむしろ個の確立と尊重ではないだろうか。

個が確立されれば、自分の頭で考えて表現する力もついてくるはずだ。わがままな人間を育てるのとは全く別である。個が尊重される社会では、個の責任も重視されるからだ。

個の尊重があって始めて「自己責任」が問えるはずなのだが、そんな土台もないのに、なんでもかんでも「自己責任」としてしまうのは、言う側が責任逃れするための言い訳でしかない。

いい加減、日本社会も全体主義から卒業できないものだろうか?

ハーフ成人式を学校行事でするのであれば、10歳の児童達自身が自分のその時の気持ちと向き合ったり、自分らしく生きる権利があることを考えたりする機会にしてくれないかと、一保護者として思っている。その過程の中で親に感謝したいと思ったら、その子はその子なりに考えて行動するだろう。感謝することは、先生から言われてすることでも、親が期待することでもない。

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