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なぜチャットは「部屋」なのか【後編】(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)

2015年01月15日 18時46分 JST | 更新 2015年03月16日 18時12分 JST

PLANETSチャンネルにて好評毎月連載中の 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 の前月配信分を、月イチでハフィントン・ポストに定期配信していきます。

※この連載の最新回(第4回「"つながるのその先"は存在するか」(1月7日配信))はPLANETSチャンネルに入会すると読むことができます。

前回連載では「現代のネットカルチャーの成り立ちを考えるために、その前史として『電話ユーザーたちのコミュニケーション』を考えるべき」という問題提起がなされました。今回は、80-90年代に一世を風靡した「ダイヤルQ2」「伝言ダイヤル」を振り返りつつ、富田英典・吉見俊哉らによる「電話コミュニケーション」批評の可能性と限界を考えます。

※本記事は前後編です。前編はこちらから。


吉見俊哉:「音声」のまなざし――1.盛り場としての「伝言ダイヤル」

『博覧会の政治学』『都市のドラマトゥルギー』などの著作で猥雑な都市空間の光景を描き出し、日本におけるカルチュラルスタディーズの第一人者と言われる、現東京大学副学長・吉見俊哉。しかし、そんな彼が若い頃に小劇場ブームの渦中にいたことはあまり知られていない。脚本家の宮藤官九郎らが所属する大人計画より一世代上にあたり、野田秀樹の「夢の遊民社」等とともに小劇場の一大ブームを担った、如月小春の小劇団「劇団綺畸」に所属していたのだ。

そんな吉見の描く都市論は、一言でいえば「ステージなき劇場」としての都市である。そこには演者/観客を二分するステージは存在せず、誰もが見る/見られる関係の二重性を同時に体験する場となる。小劇場とは既存の演劇に対して、小さく濃密な空間でアマチュアを担い手として演じられた一大運動であった。それは限りなく演者と観客が近い場所にいる表現の場であり、都市論から博覧会へと興味を広げていく吉見の研究史は、そんな小劇場の精神を小屋の外へと空間的に拡張していく歴史でもあった【註】

若き日の吉見が「電話論」に関わったとき、やはり彼は「小劇場」を電話ユーザーの中に見出そうとした。「電話論」の古典『メディアとしての電話』で吉見が担当した二章と四章には、電話に即興的な演劇空間を見出そうとする吉見の強い意思があふれている。特に前回にも紹介した、電話が公共圏から家庭内の親密圏へと侵入していく過程を描写した第二章に続く第四章で、その意思はより顕著になる。

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▲『メディアとしての電話』吉見俊哉、若林幹夫、水越伸(弘文堂・1992)

まず第四章の冒頭で、吉見は電話ユーザーの研究を行った鈴木和成の先行研究を元に、対面的なリアリティの場では確保されているコミュニケーションの前提が、電話では崩壊してしまうことを指摘する。吉見が注目するのは、「他者の眼差し」である。

対面的な場のリアリティと回線の中のリアリティを隔てているのは、一方が現実、他方が虚構ということではなく、それぞれの現実構成のフレイムの違いであり、ここにおいて決定的に重要なのは後者における他者の眼差しの不在なのである。
(『メディアとしての電話』p146)

この、回線の中では他者性が欠落した状態の「対面的なリアリティ」が存在するとした認識は、おそらく富田が「親密性」の議論において、都市との対比で述べたのと同じことを指摘している。だが、吉見はそこから電話の中で人間がいかに「身体性」を獲得して、社会的次元を持つかについて議論を進めてゆく。

そこで吉見が注目したのは、伝言ダイヤルのユーザーたちが用いていたジャーゴンだった。ここから吉見は、富田がツーショットを基軸に描き出した領域とはおそらくは原理的に異なる<マス>の領域――すなわち、二者関係でツーショットのナンパ師たちが行っていたコミュニケーションによる相互調整が効かないような、複数形の「他者」たちの領域へと踏み出していく。

彼らの電話回線内での様々な振る舞いは、ある意味で、もともと都市の単身者たちが、盛り場をはじめとする匿名性の場のなかで営んできた関係、磯村英一の古典的な言い回しを借りるなら、「<マス>の場のなかでの<なじみ>の関係」という性格を帯びている。(略)それぞれの「本名」を捨て、ハンドルネームという「仮名」を思い思いに使いながら、見知らぬ相手と行きずりの、しかし親密な関係を楽しんでいくのである。
(同書p162)

【註】ちなみに、吉見は以下の文章で、小劇場のステージよりもさらに小さな稽古場における「エチュード(即興劇)」に惹かれて、演劇青年になったことを告白している。
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/Lab_Microbiology/newsfile/newsH250401/hashigaki.pdf


吉見俊哉:「音声」のまなざし――2.見知らぬ他者がもたらす空間化と演劇性

そもそも「伝言ダイヤル」とはどんな存在なのか。簡単に言えば、特定の番号とパスワードを決めておけば、それを知っている人が共有で使える留守番電話のようなものである。メッセージは、10件まで登録できて、それを超えると古い内容から消されていく。

このサービスを元々、NTTはビジネス用途での目的で構想したという。しかし、80年代の電話ユーザーたちは、1234や0000などの誰もが思いつく番号とパスワードのスペースを、共有の伝言掲示板として勝手に使い始めてしまった。一説には、驚くべきことにリリースされた年には既に始まっていたという。そこでは、全く見知らぬ者同士が、この伝言ダイヤルを通じて「伝言界」と呼ばれる奇妙なコミュニケーション空間を作り上げていた【註】

吉見は、この「伝言界」においていかに人間がリアリティを見出し、自らの振る舞いを作り出すのかを考察した。それは、バーチャルな「小劇場」の舞台に、いかにして人間は上がるのかを考えることに他ならない。吉見は「伝言ダイヤル」の先行研究から、彼らの発話に以下の四つの特徴を抽出する。

1)発言の冒頭で名前(現在でいうところのHNと時刻を述べる)

2)身体的なメタファーの多用(踏まれる、蹴られる、あがる、覗く...etc.)

3)空間的なメタファーの多用(受付、部屋、スペース、増築...etc.)

4)間接話法的な発語スタイル(「~ということ」の多用)

まず注目したいのは3)である。吉見は個々の伝言ダイヤルが「部屋」と呼ばれ、参加者の呼びかけを「受付」と呼んだり、新たな伝言スペースを付け加える際に「増築」と呼ばれることを指摘する。

この空間的なメタファーを多用する言語感覚は、後のインターネットにおける同様のコミュニケーションアーキテクチャの用法にも通じている。例えば、チャットやBBSが、しばしば「〇〇部屋」と名付けられていたのを覚えている人は多いだろう。1)にあるような名乗りと日付けの発話にしても、同様だ。HNと日付スタンプが記載されるのはチャットやBBS(に限らずネットのコミュニケーションアーキテクチャ)の標準仕様である。その意味で、実は「伝言界」とは後世に普及したアーキテクチャを、ユーザーが「運用」の水準で対応することによって無理矢理に叶えていた世界であったとも言えるだろう。

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▲当時、伝言ダイヤルで使われていた用語たち。(『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする!』樫村政則編著(JICC出版局・1989)より)

2)についても、同様のことがいえる。例えば、吉見は複数の通話者が同時に伝言を吹き込んだために、伝言の録音に失敗することを「けられる」と呼んでいた事例を上げているが、現在でもニコニコ生放送が混雑して入れない際などに「蹴られた」と言い回されることがある。吉見は、こうしたジャーゴンを踏まえて、以下のように「伝言界」の人々の意識を描写する。

彼らは、そこでやはり同じように回線のなかを彷徨っている別の<声としての身体>に踏まれたり、蹴られたりしながら、部屋にあがり、覗きつづけているのである。(略)このようにして、伝言界全体としては、様々な種類の部屋が無数に連なり、高層建築もあれば誰も住んでいない一階建てもあるといった見えない迷路状の都市のような存在として経験されていくことになるのである。
(『メディアとしての電話』p172)

後のインターネットでは、特に黎明期においてこの都市としての認知はより具体化された。例えば、個人サイトは「ホームページ=家」と名付けられ、そうした家たちの集合体を提供していた中には自らを「都市」のメタファーで名づける事業者たちも見られた。中には、ジオシティーズのようにURLをジャンルによる「区画」で区切った事業者までいた。前回に紹介したオフィスから家庭へ、家庭から個室へと移動していく電話の歴史の記述を『メディアとしての電話』で担当したのは吉見だが、ここでの空間のメタファーが、むしろ個室から都市へと逆向きに想像力が巻き戻っていく過程としてあったのは、興味深いことである。

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▲ GeoCities

だが注目すべきなのは、ここで単に声が次々に入力されていくというだけの継起的な事象が、部屋から都市のような空間へと遠隔化されていく視覚的メタファーで捉え直されているという事態そのものである。思想寄りのインターネット論に通じた読者は、ここからインターネットを「サイバースペース」として捉える認識についての言説を思い出すだろう。私が思うに、その連想は正しい。だが、これはインターネットが普及する遥か昔に、もちろんカリフォルニアン・イデオロギーなど知る由もないであろう「出会い厨」のような人々が、電話の中で自然に形成していった慣習である。故に、これはある種のコミュニケーションが行われた際に、むしろ人間が必然的に抱く認識の形式であることが示唆される。

そこで注目したいのが、4)の間接話法的な言い回しである。例えば、吉見は以下のような発話をその典型例として紹介する。

はいまたXということでね只今一〇時と五八ぷーん。で、Aさんをはさみましたということでね。えーそうそう忘れてましたのよ。Bちゃんわすれてましたということでね。Cちゃんどうもおはようさんということでねー。(略)そうですよ二三日なんとか休もうじゃないかっていうのをめー(※原文ママ)、目標でやっているんだけどね。ウンなかなか大変よいうことで。取りあえず年内の追い込みですわいうことをお伝えしておいて......
(ニ〇代後半、男、自営業)
(同書p172)

これが対面における会話とは違うのは「ということ」という文語的な言い回しの頻発である。それを吉見は「間接話法的」と呼び、それが伝言ダイヤルに部屋の中でかけているリアルな自分と、「伝言界」の中に形成されたバーチャルな自分の間にあるリアリティの分裂から生じたものとする。そして、別の場所で行ったこうした分析に対して社会学者の大澤真幸が与えた論を、吉見は自らの分析をより高度に抽象化された次元で正確に言い当てたものとする。

「電話という電気・電子メディアとの接触は、個体の身体の内にある違和を生み落とす。この内的な他者性が十分に強化されれば、それ自身固有の独立した身体性を帯びるに違いない」。そして、このように電子的に媒介された違和的な自己の自立化により、「自己の自己に対する断裂」が深まって、「自分自身のこと」が、外部の他者(としての自己)が伝聞したこととして話されるよりほかないような状況が生じるのである。
(著者註・ここでの鍵括弧での引用は「電話の快楽」大澤真幸(『Inter Communication 1号』所収)にもとづく)
(同書p174-175)

つまりは、伝言ダイヤルでは、「電話ユーザー」たちは自分が発話する際に、常に「他者の眼差し」の立場を意識しながら、いやむしろ「他者の眼差し」そのものとなって話しているのである。これが、先に述べた富田のインティメイト・ストレンジャーの関係性とは全く異なることに注意しよう。富田においては「親密」さを帯びて登場したストレンジャー=他者が、ここでは自らを絶えず間接話法的な言い回しに誘うほどに「違和」を与えるようなストレンジャー=他者なのだ。

この両者の差は、おそらくは富田はツーショットを、対して吉見は伝言ダイヤルを元にした分析を中核に据えて、ともに電話に対する理論を導こうとしたことに起因する。それは、おそらくは「外部性としての他者」がそのアーキテクチャに織り込まれていたか否かにある。ツーショットでは、確かに通話の相手はストレンジャーではあるが、それはツーショットのナンパ師たちが鮮やかに示していたように、その場の対話の持ってゆき方次第で融和可能な他者でしかない。

しかし、伝言ダイヤルでは、発話の際には相手から反応は帰ってこず、また次にどういう録音メッセージで反応がかぶ?