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『電話』から始まる日本的インターネット史 -- 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 第2回

2014年11月27日 23時49分 JST | 更新 2015年01月27日 19時12分 JST

PLANETSチャンネルにて好評毎月連載中の稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 の前月配信分を、月イチでハフィントン・ポストに定期配信していきます。

※この連載の最新回(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回(11月26日配信))はPLANETSチャンネルに入会すると読むことができます。

稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」(10月15日配信)

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2ちゃんやはてなブックマーク、Twitterのようなテキストコミュニケーションではなく、

「音声」によるコミュニケーションの歴史を解き明かすことによって描き出される

「もうひとつのインターネット史」の可能性とは――?

前回記事「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」はこちらから

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■「テキスト」国の「議論」村

■「文字」で「音声」を"ハック"する装置

■「電話」の戦後史――1.「閉された言語空間」における通信

■「電話」の戦後史――2.会社から家庭へ、家庭から個室へ

■ 情報民主主義の「個」と個室の「個」

前回に続いて、まずは総論的な話から始めたい。

ウェブビジネスの動向を語る中で、しばしば「言語」のウェブに対して「非言語」の流れが巨大になっていくだろうという議論がなされる。そこでの「言語」が「テキスト」という意味で使われているなら、それは確かに正しい。実際、米国におけるSnapchatやInstagramのような画像投稿プラットフォームの隆盛はその事実を示しているようにみえる。

だが、例えば先日、AmazonがGoogleと争って買収したTwitchなどは「ゲーム実況」に強みを持つプラットフォームである。このジャンルで最も有名なスウェーデン人のゲーム実況者・ピューディパイはYouTubeチャンネルに3000万人の会員を持ち、2013年に運営から配分された年収は約4億円と言われている。

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▲ピューディパイのYouTubeチャンネル

実は、この「実況」というジャンルでは、「音声」による「言語」表現の面白さが問われるのである。日本に目を移しても、おそらくは最も多くの人間を食わせている娯楽のプラットフォームはニコニコ動画とYouTubeであるが、そこの人気のプレイヤーたちは、歌に実況に生放送にスナック菓子の開封中継に、という具合にとかく言葉を用いた「音声」の芸で勝負を賭けている。つまり、今のネットでカネになると注目されているのは、むしろ(「音声」という意味での)「言語」のウェブなのである。

もちろん、この「言語/非言語」という区別は、かつては容量の小さいテキストがメインだったインターネットが、画像や動画などを扱えるまでに回線が向上したことを示すためのキャッチーな表現にすぎないのだから、それは当然である。だが、いずれにせよネットの「文化」を探っていく予定の我々には、もう少し細かな区別が必要になる。具体的には、テキスト・音声・画像・アバターなどの様々なメディアの「国家」において、各々のユーザーがいる。彼らはしばしば他国へと旅行するが、やはり軸足は必ずどこかの国に置いている......というくらいの粒度の視点の方が、特に娯楽に近い分野になるほどに多くのネットユーザーの実感に則したものになるはずだ。

実際、ブログのページビューと動画の再生数を一概に比較できないことなどからもわかるように、ユーザーは各々のメディアの生態系に生息して、独自の振る舞いを見せるものである。その傾向は、ヘビーユーザーになるほど著しい。各々の国家の中には、その国に独特の国民性と統計データがあるのだ。そして、その国家の中には、例えば「音声」国であれば、ヤフチャからニコ生、ツイキャスへと続く問題児揃いの「チャット」村もあれば、ネットラジオの界隈から出てきた今やゲームから旅の風景まで中継してみせる芸達者な「実況」村もあるし、こえ部などでなりきり勢に近い層の集まる「ボイスドラマ」村もあれば、2chのカラオケ板のような場所からニコニコ動画へと流れ込んで今や一大商業圏となった「歌い手」村もある......というふうに、さらに細分化されたクラスタが形作られているわけである。

前回、特定のプラットフォームやメディアに拠らない「文化」という切り口を提示したが、それに対して今回はむしろメディアごとのユーザーの差異を問題にすることから始めたい。というのも、これは既存のウェブ論がどのようなものであるかを示す上で欠かせない視点なのである。

「テキスト」国の「議論」村

そもそも、先に挙げたピューディパイやこえ部(正式には、現在はkoebu)などの名前をあなたは知っていただろうか。あるいは知っていたとして、実際にそれらを見に(聴きに)行ったことはあるだろうか。まあ、20代前半くらいまでの読者なら、そもそも実際に楽しんでいるかもしれないが、多くの読者は行ったことすらないのではないか。

実はこうしたユーザーたちは、ネット論における暗黒大陸のようになっている。「音声」国だけではない。「画像」国や「アバター」国などの実態も、当該クラスタのユーザーたちにしかほぼ知られていない。実際、はてなブックマークやTwitterでウェブについて語っている人たちを見てみよう。彼らがこうした自分の知らないクラスタについて語るときは、大抵は「ガラパゴス論」と結びつけて批判的に語るか、とりあえずオリエンタリズム的に褒めておくか、というあたりになっている。つまり、興味がないのである。

ここで問題なのは、こうしたネット論を語る人々そのものが「テキスト」国の「議論」村あたりに生息している、大変に狭い界隈の人々でしかないことだ(「狭い」というのは彼らにウケた際に記事に来るPV数も含めての話である)。しかも、その実像をつぶさに見ると、大変に偏りのある集団でもある。

彼らの多くは団塊ジュニアからロスジェネ付近の、黎明期のテキストサイトや2ちゃんねるの隆盛期に居合わせて、その後にはてなやmixiが流行り、今度はTwitterに移行して、最近はFacebookにいるがNewsPicksも少し気になっている......みたいな感じの、まあすごく乱暴な言い方をしてしまうと、その多くがテキスト中心のネット全盛の時代を過ごしてきた、30代半ば以上の中年男性で、おそらくはパソコンをメインに使っているであろうユーザーである。

一方で、例えば先に挙げた「音声」クラスタなどは、先駆的にヤフチャやねとらじなどがあったにせよ、基本的には近年ニコニコ動画やこえ部などの登場で大きく盛り上がったクラスタである。女性ユーザーも多いし、10代から20代の人間も多い。といっても、中高生の流行でしょ、といって済ます話でもない。例えば、ニコニコ動画が話題を呼んだ2007年に中二病真っ盛りの14歳だったネットユーザーなど、今年まさに新卒で就活中の年齢である。そういう視点で見たときに、彼らの「音声」や「画像」や「アバター」(ちなみに、筆者はアプリ以前のソーシャルゲームはアバターサービスの一種だったと考えている)への嘲笑的な態度は、単に自分の知らない界隈に対して相応の年齢の大人が抱く冷淡な反応でしかないことがわかるだろう。

この問題がややこしいのは、最近になって、この「議論」村の住人がなんとなく"ネット論壇"のようなものを形成して、権力を持ち始めたことである。実際、彼らの間で話題になると、数日後に朝日新聞の文化面で取り上げられたりして、「ネットの話題が新聞に出る時代が来たのだねえ」などと牧歌的なコメントがTwitterで流れてくる。

だが、実際には上に見た通りの無関心がもたらす排除の実態がある。ギャル文化やサブカルであれば出版メディアで専門ライターが確立しており、たとえ大抵の大人は興味がなくとも公的な場への発信者は必ずいる。もちろん、ネトウヨやジョブズについて書けるネットライターもいる。しかし、こうした非「議論」村のネット文化を書くネットライターは、ほぼいないに等しい。そして、こうしたネット論の占有は、例えばカゲロウプロジェクトのアニメ化で起きた大事故などを鑑みるに、やはり放置してよい問題ではないように思えるのだ。

もちろん、慌てて付け加えておくと、そのことで「議論」村の住人を腐すのはお門違いである。むしろ、そんなことよりも本当に問題なのは、いまだ暗黒大陸となっている文化圏を記述する理論的基盤がどこにもないことではないだろうか。先のカゲロウプロジェクトの問題にしても、ボカロの議論がせいぜい黎明期のN次創作が騒がれていた時代で止まっており、歌い手文化やボカロ小説へと連なっていくようなその後の動きを肯定的に評価する言説が空白地帯となっていたことが、根底にあるように見える。

そこで筆者が提案したいのは、まず現代のウェブカルチャーの成り立ちを解き明かすような、新しいインターネット史の作り直しである。それは「議論」村の歴史までも含む包括的な歴史観でなければならないだろう。そこまで行ってこそ、理論的な対抗軸になりうるからである。そして、それはパソコン通信があり、それに対してインターネットが登場して、テキストサイト、2ch、ブログ、Twitterと次々にプラットフォームが生まれては、アーリー・アダプタ層がそこに移動していく......というようなありきたりの発展史ではないはずだ。そもそも、それは「テキスト」国の「議論」村の住民たちの正史としては精確だろうが、決して他のクラスタへとそのまま敷衍しうるものではないだろう。

代わりに、この連載ではパソコン通信よりさらに前の時代に遡り、そこから全く別の包括的な歴史の線を引いていきたいと思う。そもそも私の考えでは、プレ・インターネットに、寝ても覚めても議論ばかりしていたようなパソコン通信を置いてしまうことが、様々なものを見えにくくしているように思う。

では、代わりに注目するのは何なのか? 私が注目するのは――「電話」である。

「文字」で「音声」を"ハック"する装置

先日、古くからパソコン通信に参加していた、とあるユーザーに話を伺う機会があった。その際に彼がまず話し始めたのが、当初のパソコン通信がどのように行われていたかであった。

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▲音響カプラ

出典:http://akatsuki.a.la9.jp/M/M9.html

実は"パソコン通信"勃興期の80年代半ば、「音響カプラ」という機材がパソコンユーザーたちの間で流行っていたという。それを用いて、彼らはキーボードに入力した文字を電話でやりとりする遊びに興じていたのである。

まず、「音響カプラ」を接続すると、キーボードから入力した文字が、ピーピー響くモールス信号のような符号音に変換される。そこで、それを電話の受話器に流すと、その符号音が先方に伝わるので、相手側は自分に届いた符号音を「音響カプラ」でデコードをかける。すると、相手のパソコンのディスプレイに文字が出力されるのである。

この原始的な通信のあり方は、私には後のインターネット技術にまでつながってゆく通信技術の、ある種の本質が象徴されているように見える――つまり彼らは、本来は「音声」通話のメディアとして存在する電話に対して、あえて「文字」を流し込んでいたのである。

("あえて"というのは、彼らは単に新しい技術を楽しみたいだけであって、そこでの会話そのものは、むしろ電話のほうが楽しめるような、たわいもない「おしゃべり」でしかないからだ)

Wi-Fiが街中を飛び交い、動画のようなリッチコンテンツが楽しまれるのが当然となった現在、ネットが何よりもまず「電話の回線をつかって文字をやりとりする」テクノロジーとしてあったことは半ば忘れられている。現代のインターネットへ向かう通信技術の歴史は、通信から「電話の影」を消していく過程であった。しかし、技術がそう変化したとしても、人間の側に蓄積されたその「使用法」――すなわち、この連載でいうところの「文化」――は果たしてそう簡単に歴史を拭い去ることができるのだろうか。

そう考えたときに興味深いのが、こうした黎明期のパソコン通信ユーザーの多くが、実は「アマチュア無線」の愛好家であったことだ。その日、話を聞かせていただいた人はそうではなかったが、やはり周囲にはその種の人が多かったという【註】。

アマチュア無線の文化は廃れはじめて久しく、現代人の多くにはイメージすら湧かないだろう。しかし、そこには数多の技術的困難を解決しながら、ときに国境を超えて遠い世界と個人が繋がり合うような、そんなロマンに溢れる国際色強い知的文化が存在していた。

そうした色合いは初期のパソコン通信にも強くある。例えば、アスキーが1986年に造語したという「情報民主主義」という言葉などは、その典型である。パソコンとネットワークという「情報」の技術を使いこなしながら、一種のコスモポリタニズムにも通じる理想を共有した市民が主体となった社会の運営――。今となっては「意識高いね」と揶揄されそうな理念だが、当時のパソコン通信の担い手の多くがいわゆる全共闘世代であったことを思えば、そこには日本における戦後の市井のインテリ層の心象風景が見えてくる。もちろん、『ホール・アース・カタログ』にイカれたというスティーブ・ジョブズとの同時代性については言うまでもない。

だが、その前に私たちは、黎明期の日本のネットワーカーたちが「文字」で"ハック"しようとした「音声」のメディア――すなわち「電話」とは何だったのかを知らねばならない。

【註】

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▲『日本ネット前史』(小口覺・Kindleストア)

こうしたパソコン通信の黎明期の姿が、当時の著名ネットワーカーたちへの取材を元に描き出されている本。実は、この項の取材相手は著者の小口氏に紹介していただいており、ここで聞いた具体的な内容は、いずれこの連載で紹介していくつもりである。

「電話」の戦後史――1.「閉された言語空間」における通信

「電話」の歴史を考える上で、戦後に生じた大きな切断線を無視することはできない。

いや、より正確には日本における通信・放送のあらゆるメディアは戦後に大きなトラウマを背負ったのであり、電話もその例外ではなかったというべきか。無論、アマチュア無線もそうである――そう、マッカーサー率いるGHQによる「検閲」である。

これについては、文芸批評家の江藤淳による『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋・1989)という著作が有名である。占領下の日本でGHQが行っていた膨大な数の検閲の記録を、若き日の江藤が米国にわたって調べあげた成果を記した本だ。保守思想家としての江藤淳の原点が窺える一冊でもある。マッカーサーはその回想録で、当時を振り返り「私は経済学者であり、政治学者であり、一種の神学者でもあることが要求された」と語っている。日本人を「12歳の少年」と形容した彼は、日本人に対して「ウォーギルト」を植え付けるために、まさに"神"のごとくメディアから思想改造を行ったのだ。それは単に出版や新聞における検閲にとどまらず、郵便や電話のような通信の検閲(より正確には、日本人の実態を把握するための傍受活動の色合いが強い)にまで及んでいた。江藤が郵便検閲の実態を記す箇所は、この本のハイライトである。

だが、実は電話もまた検閲に使われていた。GHQの占領政策を紹介した『GHQの検閲・諜報・宣伝工作 』(山本武利著、岩波書店・2013)には、共産党の活動が活発化した1949年の8月には37000件もの傍受活動が行われた記録が紹介されている。電話検閲は資料が徹底的に廃棄されたという話もあり今なお不明な点が多いが、重要な情報源の一つであったのは疑いないだろう。

我々の議論で重要なのは、マッカーサーが民営化の強い要求を押し切って、電話事業を逓信省の管轄としたことである。

そもそも米国において、電話が民間主導で大きく発展したのは有名な話であり、その民営化は日本でも戦前から常に議論の的だったという。実際、後の電電公社設立の理由として、この体制によって電話の復旧が進まなかったことが理由に挙げられているほどである。それにも関わらず、彼が強硬に国営化を推し進めたのは傍受活動への利用にほかならない。

実は後述するように、電話がメディアとして振る舞い始めたきっかけには、1985年の電気通信事業法施行に伴う民営化が大きく影響している。そのことを思うとき、戦後の電話の歴史もまた「アメリカの影」からの離脱過程にあったと見ることができるだろう。

先を急ごう。一方で、「アマチュア無線」の方もまた戦後の黎明期に数奇な運命を辿っていた。よく知られるように、戦後における電気街としての秋葉原の成立は、電気関係の旧日本軍の資材や占領軍の放出品の露天商が集まってきたことにある。そこには、軍用品の高度な無線機材や部品が揃っていたという。ここで無線機材が出回ったことは、後のアマチュア無線文化の発展に大きな影響を与えている。

だが、こうしたバラ撒きは別に進駐軍の「アマチュア無線」文化への敬意を示すものなどでは、もちろんない。むしろ国際色の強い「アマチュア無線」に対する措置は、「閉された言語空間」を志向するGHQにとって厳しく対処すべきものであった。日本アマチュア無線協会(JARL)の発行した『アマチュア無線のあゆみ―日本アマチュア無線連盟50年史』には、当時のアマチュアたちがGHQに交渉を続けてゆくものの、のれんに腕押しの状態が続く様子が描かれている。結局、他の先進国が次々に再開されていく中で、1940年代にアマチュア無線が再開されることはなかった。可能になったのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年のことである。

ちなみに、この年は同時に、電話事業が日本電信電話公社(以下、電電公社)のもとに置かれた年でもある。その後の「電話」と「アマチュア無線」の歴史は、ともにこのGHQによって設定された初期条件からの解放としてある。

「電話」の戦後史――2.会社から家庭へ、家庭から個室へ

その後、「電話」は朝鮮特需によって需要が一気に増大、高度成長期の中で大きく普及していくことになる。

ここで重要なのは、当時の電話は何よりもまず会社で使うものだったことだ。家庭用電話が企業向けの事業所用電話の台数を上回ったのは、70年代のことである。そもそも戦後の電話の普及は、なによりもまず大都市の法人に向けた事業所用電話から始まっている。なにしろ戦後間もない1947年の時点で、加入電話で復旧を遂げていたのは39%だったという。しかも、特に大都市圏においては、戦時中に設備投資が抑制されたことで老朽化も激しかった。それにもかかわらず需要は伸びる一方であり、申込者数に設置者数が追いつかない超過需要(積滞)は高度成長期の電話事業における大きな問題であった。

ちなみに、高度成長期の電話事業にはもう一つ課題があった。長距離通話に伴う待ち時間をなくす自動交換システムの普及である。例えば、当時の世相を紹介した本には、嘘か真かこんな記述がある。

「かつて奇妙なことに、愛知県のトヨタ自動車工業の本社社員は、いずれもソワソワ、イライラ、ムッツリタイプばかりで、個性喪失人種が多いというもっぱらの風評で、女の子からの評判はあまりよくなかったという。(中略)

トヨタ気質に顕著な変化が起きたのは昭和三十六年。原因は電話のダイヤル化ということだった。それまでは豊田市はまだダイヤル化されず、東京などに電話する場合は、四~五時間も待たなければならなかった。もうかかるか、もうかかるかで仕事に熱が入らない。また、電話で連絡しなければ片づく仕事も片づかない。(中略)それが昭和三十六年を境に、トヨタ気質もガラッと変わり、業績もめざましく向上したそうである」
(『日本人とてれふぉん―明治・大正・昭和の電話世相史』編・西林忠俊、1999・NTT出版)

今や日本の財政を支えると言っても過言でない企業の業績が、電話のダイヤル化如何に左右されていたというのは少々面白すぎる小話だが、事業者用の普及が急がれた当時の雰囲気が伝わるエピソードであろう。当然、そんな状況だから当初は家庭への電話設置は非常に難しく、高額の加入権も求められたという。年配の人との会話で、他所の家に電話を借りに行った思い出を聞かされた経験がある人もいると思うが、背景にはこうした状況があったのだ。

だが、1960年代以降、家庭用電話の台数は大きく伸びていく。60年代末にはピーク時に8割を超えていた新規加入者の事業用電話比率が、遂に3割を切った。その頃から、公社はシヴィル・ミニマムをお題目にして、地方や一般家庭への普及を重視していくのである。

そうした電話というテクノロジーの普及過程で起きたのが、家庭という親密圏への電話の侵入である。メディア研究の視座から電話文化を記述した古典『メディアとしての電話』の著者たちはその過程をこう記述している。

「電話が家庭に普及し始めてからしばらく、多くの家庭ではこのメディアを、玄関、それも下駄箱の上などに置いていた。(中略)人々は無意識のうちに電話というメディアの本質を見抜き、これを共同体の境界部に置いていったのではないだろうか。ところが、この電話の位置が、電話利用の頻繁化・日常化とともに、次第に応接間や台所、そしてリビングルームへと移動し始める。つまり、共同体としての家族の空間のより中心部へと移動していくのだ。そしてさらに、親子電話やコードレス電話の普及とともに、電話は両親の寝室や子ども部屋に置かれ、家族の各々の成員を直接、外部社会に媒介するようになるのである」
(『メディアとしての電話』吉見俊哉、若林幹夫、水越伸、1992・弘文堂)

その後にこの記述は、大学生(1989年当時)へのアンケートを引きながら、長電話が家族の間に摩擦を引き起こしている実態を描きだす。それが示すのは、家庭という親密圏とは別に生じてきた電子的なリアリティにもとづく新しい親密圏のネットワークの登場である。それを著者たちは、「(住居は)コミュニケーション空間としては分解し、個室レベルでより広域的な声のネットワークの端末群を成していくのである」と表現するのである。

まとめよう。かつての「電話」は法人や政治家などの公人の連絡ツールとしてあった。故にGHQは傍受に利用したのである。サンフランシスコ講和条約の発効と同年に誕生した電電公社もまた、その方向で「電話」の普及を進めてゆく。しかし、高度成長期以降には、公共圏における事業者用電話よりも、親密圏における家庭用電話が台頭してくる。だが、「電話」が次にもたらしたのは、家庭内において親密圏を分割して、一方でその成員同士にイエを超えた個別の親密圏のネットワークを生み出すことであった。その過程は、会社から家庭へ、家庭から個室へ、とまとめられるだろう。

もちろん、私たちがよく知るように、90年代の「移動体通信」の普及によって、この「個室」は家庭の外ですらも私たちの身体にまとわりつく存在になっていく(つまり「肌身離さず」持つものになる)。だが、それは興味深い歴史ではあるものの、この連載で語るのはまだ早い。むしろ注目すべきなのは、1985年のNTTの誕生から「移動体通信」の普及までの端境期にあった80年代後半に登場した、いまや時代の徒花となった有料サービスで生まれていた、電話カルチャーである。そこには、ほとんど日本的インターネットの原初的なあり方が見いだされるとさえ言えるのである。

情報民主主義の「個」と個室の「個」

だが、その話の前に、少し話題をアマチュア無線の方に戻そう。

サンフランシスコ講和条約以降、日本におけるアマチュア無線の人口は増加の一途をたどっていく。なにしろ1952年の主権回復とともに再開されたとき、日本には無線局が30局しか存在しなかったのが、1970年に一大ブームが訪れた結果、1980年には米国を抜いて世界最大のアマチュア無線局数を抱える国になっていたのである(ピークを迎えたのは1995年で、実に140万局に達していたという)。

実際、前出のJARLの活動史を見ていると、確かにその活動は華々しい。主権回復の翌年には九州の水害でアマチュア無線家が活躍、それを踏まえて災害時にすぐにアマチュア無線家が官公庁や警察と協力体制を敷けるように、無線通信の協議会へのJARL加入を決めている。1957年の会報には、ソヴィエトのスプートニク1号打ち上げをキャッチした無線愛好家たちが、青天の霹靂の中でバタバタしながらもその信号をキャッチしていく様子が描かれている。1970年代のブームの中で「趣味の王様」とまで呼ばれたのは、遠い世界と繋がり合うロマンと同時に、こうした災害時のインフラとしての役割や人類史の一場面にまで立ち会えるという、単なる趣味の域を超えていく社会的性質にあったのも間違いない。

このアマチュア無線の知的雰囲気は、単に無線通信が地域を超える性質を持つことからだけ導き出せるものではない。それは限られた周波数帯をめぐる争いの歴史で生まれた倫理でもある。

社会学者の吉見俊哉は『「声」の資本主義――電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(講談社・1995)で、米国において初期のアマチュア無線が一対一の通信としての性質と、ラジオのような一対多の放送としての性質の二つを帯びながら発展してゆくさまを描き出している。当時のアマチュア無線家たちには、海軍の技師など遥かに超える高い技術を有しながら、あえてアマチュアとして草の根的なネットワークを作り上げるものも少なくなかった。その姿は、吉見が「今日のパソコン・ネットワークの電波版」と指摘するように、確かにある種のネットユーザーに大変によく似ている。

しかし、やがてその盛り上がりにつれて、アマチュア無線は商業ラジオや海軍の通信に支障をきたすことが増えてきた。その結果、1912年のラジオ法でアマチュアは波長200m以下の利用に規制されてしまう。当時、そのような短波長の高周波数帯は無線通信には役立たないと考えられていたのだ。

だが、そのことが逆にアマチュア無線家たちに高周波数帯の「発見」を促してゆく。それまでの定説に反して、高周波数帯こそが長距離通信に向くと彼らは示してみせたのだ。今日、アマチュア無線の通信の周波数帯にはトータルで携帯電話会社5社分ともいわれる巨大な帯域が与えられている。それは、彼らのこうした無線技術の発展への寄与によるものにほかならない。そう、アマチュア無線の歴史とは、国家や資本主義との対峙の中で市民たちが自由を勝ち取ってきた歴史なのだ。

その精神は、日本の愛好家にも引き継がれている。先に引用したJARLの『アマチュア無線のあゆみ』に登場する愛好家たちの姿などは、現代の気骨あるハッカーたちが集う良質な技術系コミュニティを彷彿とさせる。認可こそ降りなかったものの、戦後間もない時期のGHQにすぐさま出向き、彼らは毅然とした態度で粘り強く交渉を続けてゆく。会誌では、こらえきれずに違法無線に走る同朋たちをたしなめながらも、世論を味方につけるために先だって認可された短波ラジオの啓蒙活動をあえて行う。その自らの趣味を貫くための戦略的な振る舞いには頭が下がるほどだ。

アマチュア無線のコミュニティとは、このように自立した、現代風に言えば大変に「意識の高い」個の献身によって成立していた。それがパソコンというマルチメディア端末に流れ込んだことは、パソコン通信のコミュニティの誕生に大きな影響を及ぼした。

実際、私は最近、当時のパソコン通信のヘビーユーザーたちに会っている。彼らは既に年金生活に突入している人もおり、周囲には鬼籍に入った人も少なくないという。だが、その誰もが団塊世代のインテリらしい屈託を抱えながらも、今となっては金銭的にも時間的にも「度を超えている」としか言いようのない当時の労力を語るとき、自負に満ちて目を輝かせるのである。

しかし、そのような「アマチュア無線―パソコン通信」の「意識の高い」世界に対して、「電話」のコミュニティは驚くほど「意識が低い」世界である。

そもそも、それはほとんどGHQの検閲のためだけに、経済合理性の議論さえもかなぐり捨てて行われた逓信省への移管から始まった。その後の歴史も単に年次計画等に従って粛々と公社が企業から各家庭へと普及を進めていっただけである。電話とは、日本人にとって「与えられた」ものにすぎないのだ。

したがって、電話の利用者には、アマチュア無線のようなコミュニティの意識などない。なにせそれは単に家の中にあって、老若男女の誰もが使うものに過ぎないのだから。医者などの比較的富裕な知的階層の男性たちが多くを占めており、サロン的な雰囲気さえあったアマチュア無線やパソコン通信とは違う、なんとも日常に埋没した世界なのだ。しかも、先に記したように、その歴史は公共圏から親密圏への収斂の歴史である。企業から家庭へ、家庭から個室へ――だが、そうして日本的世間が収縮していった果てに生まれた「個」の姿は、"情報民主主義"を担うような自立した「個」の理想像とは似ても似つかない。

しかし、日本の社会学や文化批評においては、この「意識の低い」電話とそのユーザーたちこそが名だたる学者や書き手たちに取り上げられてきた歴史がある。その始まりは、80年代後半の公社民営化後から登場してきた電話の様々な機能――伝言ダイヤル、ダイヤルQ2、パーテイーライン、ツーショットなどの機能に対してユーザーが仕掛けていった、呆れるほどに独創性(と性的欲望...!)に富んだ文化であった。

その現代風に言えばあまりにも「残念」な姿は日本社会に衝撃を与え、気鋭の社会学者やライターたちのフィールドワークを促すことになった。

それは、先に挙げた本の若林幹夫や吉見俊哉にとどまらない。ダイヤルQ2を研究した富田英典、テレクラのフィールドワークで名を成した宮台真司、伝言ダイヤルを分析した浅羽通明......そんな錚々たる面々が、この電話が生み出すコミュニケーションの研究へと向かってゆく。それらは、よく称されるような「若者論」である前に、まずは「電話論」なのである。私には、彼らのその後の仕事さえもがかなりの部分で、ここから始まった「電話論」の成果に負うようにさえ思えるくらいだ。

そして、先に結論から言ってしまうと、私は彼らが分析した電話ユーザーたちのコミュニケーションの延長線上にこそ、現代のネットカルチャーは存在していると考えている。次回は、こうした「電話論」が現代のインターネットとどういう形で重なりあうのかを見てゆくことにしよう。

(続く)

▼プロフィール

稲葉ほたて(いなば・ほたて)

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