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日本の「度量」と同調性

2013年11月16日 23時59分 JST | 更新 2014年01月16日 19時12分 JST

ここのところ「度量」ということについて拘って書いておりますが(山本太郎議員に対する脅迫と度量の広さフィリピンに対する中国の援助と度量)、今日はその補足のようなものです。

1 日本の「度量」

有り難いことに、転載もしていただけ、いろいろな感想をいただくことができました(※)。最初にことわっておきますが、私は日本の「度量」に全く問題がないわけではないと思っているわけではありません。

あくまで個人的な感想ですが、日本の場合同調意識が強すぎ、自分たちに同調しないものを排除しがちな傾向があると思っています(第3の性を認めるという理想と現実)。

これについては、農作業が中心だった時代の意識の残りだとか、「単一民族」という神話が生きている結果だとかいろいろなことが言われてきております。

そのため、中には排除するつもりはなくとも、結果として排除してしまっているようなところもあり、これをして「度量が狭い」というと心外だと思われる方もいるかもしれません。

2 同調性

それに都市化の進展などにより、かなり状況も変わってきています。例えば、村落共同体では、排除の論理が働く一方で、仲間になってしまえば、皆が同じでありたい、あらねばならぬという発想からいろいろ手助けや面倒を見る人もいるという面もありました。

それが都市化が進めば、こうした村落共同体が機能しなくなり、人と人の関係が薄くなれば、手助けをしてくれる人も少なくなるわけで、誰とでも付き合える半面、誰とも付き合えない可能性も出てくるわけです(婚活と労働と規制緩和)。

ただ、その一方で、昔からの同調性を求める意識も残っており、それが自分たちと違うものを排除しようとする「いじめ」につながったり(日本の「いじめ」(大津市の「いじめ」事件より))、結婚相手にも「人並み」を求めるという形で表れているのではないかと考えます(人並みを求めるから「結婚する」から「結婚しない」へ)。

3 世間

物事には何事にも長所と短所があるわけで、先に述べた短所だけでなく、長所もあります。人と同じでいようとするということは、服装でも行動でも「人並み」のそれなりのことが求められるということを意味します。

つまり、社会に「おかしな人」が少ないということを意味するわけで、社会は安全だという話になるわけです。実際、今回のフィリピンの台風では治安の悪化が報道されておりますが、東日本大震災では殆どそうしたことはありませんでした。

こうした同調性を山本七平は「空気」(『「空気」の研究』文春文庫)、阿部謹也は「世間」(『「世間」とは何か』講談社現代新書)と言う形で論考を行っていますが、どちらも一読の価値はあるかと思っております。


4 最後に

確かに日本には言論の自由があり、それなりの「度量」があるわけですが、山本議員に対する脅迫の様に、そうではない方もいれば、先に述べたように、全く欠点がないわけではありません。

そのため、昨日書いたもの(フィリピンに対する中国の援助と度量)は、半分私の願望も入っております。実際問題、もし韓国で大きな災害が起こったら「ざまあみろ」に近い感想をネットに書き込む方はいるのではないかと思います。

ただ、それが如何に情けない行為か、他人がしていることを見て(震災に対する中国の以前と同じ論調のコメント震災一周年に日本人の死を願う韓国人とそれに対する中国人の感想)、少しでも思い至ってくれる方がいればというのが本音です。

(※)そうした感想の中に私が日本人ではないのでないかという感想もありました。ちなみに私は日本人ですが、昨日の議論に国籍がどこまで関係するのかという話で、こうした発想が起こること自体、「日本」という同調性の強さの1つ表れかと思った次第です。

(※この記事は、2013年11月17日の「政治学に関係するものらしきもの」から転載しました)