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暴力と抵抗:小説『菜食主義者』で読む2016年の韓国社会

2016年12月19日 19時59分 JST | 更新 2016年12月20日 00時25分 JST

2016年の韓国文学は、マン・ブッカー国際賞の受賞作で、ニューヨーク・タイムズの「今年の本」にも選ばれた韓江(ハン・ガン)の小説『菜食主義者』に象徴されるだろう。

韓さんの国際的名声は、あえて皮肉をいえば、毎年ノーベル文学賞を待ち望む人びとに「銀メダル」をとったような喜びを与えたようだが、一方で韓さんが問いつづけてきた「暴力」の問題について、多くの人が共感するきっかけとなったのも事実である。

『菜食主義者』は、社会の抑圧から逃れようとするひとりの女性の物語である。その抑圧は、凡庸な顔をしている。自然な夫婦関係、親の愛情、普通の女性としての習慣......彼女が抵抗すればするほど、その抑圧は暴力へと変わり、その末に極端な欲望と交錯していく。

小説のなかの「日常の凡庸な暴力」は、「光州事件」をテーマにした韓さんのもう一つの小説『少年が来る』のなかの「国家の残酷な暴力」と共鳴しながら、現代韓国の一面を描きだしている。

その二つの作品がともに年間ベストセラーとなったことが物語っているように、韓国社会にとって2016年は、まさにその「日常の暴力」と「国家の暴力」との闘いが、多くの人びとによって繰り広げられた年であった。

その象徴ともいえるのが、5月に江南(カンナム)で起きた「無差別殺人事件」と朴槿恵大統領を共犯とする「崔順実ゲート」である。

前者が、日常的に起きている「ミソジニー」の問題を社会的に認識させ、フェミニズムのブームを巻き起すきっかけとなったなら、後者は、民主主義を標榜する法と制度の裏で、国家がどのように国民を欺瞞し、さまざまな暴力を振るってきたのかが発覚し、朴大統領の退陣はもちろん国家システムの根本的な改革を求める大規模運動を引き起こした歴史的な転換点となった。

しかしこれらの闘いにおいて看過してはならないのは、このような「日常の暴力」と「国家の暴力」はけっして分離しているわけではなく、つねに複雑に絡み合いながら作用しているということである。

すでに多くの韓国人は、軍事独裁と産業的近代化が同時に進行した開発独裁期(1961~1987年)をつうじて、社会と個々の身体に深く刻まれる日常的かつ国家的暴力を経験している。

そのとき、国家が「国家の繁栄と安定」を理由にさまざまな暴力を振るうあいだ、その暴力の論理と方法は、学校内で、職場内で、家庭内で、凡庸な形で再生産され、人びとを苦しめた。『菜食主義者』の主人公が対面し、抵抗しようとした凡庸な暴力は、『少年が来る』のなかで光州の人びとが直面した圧倒的に残酷な暴力と切り離しては考えられないのだ。

2016年は、韓国社会にとって大きな再出発点として記憶されるだろう。しかし待っているのは遠くて過酷な道だ。あの朴正煕の幽霊が「朴槿恵の時代」を生んだように、開発独裁期が生みだした抑圧と暴力はさまざまな形で残存し、社会を徘徊しているからだ。

先週開かれたある講演会で、韓さんはこう述べている。「『少年が来る』を出してから私がブラックリストに載ったと聞きました。未だに5.18(光州事件)が清算されていないことに、心が痛みます。」

暴力への抵抗は、まだはじまったばかりである。