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「賢い有権者」だけで政治はよくなるのか?『感情の政治学』著者・吉田徹氏インタビュー

2015年05月28日 17時26分 JST | 更新 2016年05月27日 18時12分 JST

有権者が合理的に政策を選択するだけで、政治は本当によくなるのか? 合理性に基づいた従来の政治学では捉えきれない政治と人びとの関係を、感情をキーワードに探っていく『感情の政治学』(講談社)。賢い有権者を前提とした「マニフェスト政治」の限界を説き、いま政治に必要なのは共感する有権者ではないかと語る著者・吉田徹氏に、インタビューを行った。(聞き手・構成/金子昂)

「賢い有権者」ではない政治のあり方

―― 本書は、これまでの合理性に基づいた政治学の限界を説き、選挙やデモなど、さまざまな「政治」の場で、感情がどのような役割を持っているのか、そしてその可能性を述べた刺激的な一冊となっています。そもそもなぜ本書で取り上げているような感情や信頼、共同体に注目して、政治を取りあげようと考えられたのでしょうか?

理由はいろいろです。まずポスト55年体制に入って、政治にお任せをする有権者ではなく、賢い有権者になろうというかたちで政治像が捉えなおされてきた状況があります。「あるべき民主主義とは、政治家や政党に白紙委任するのではなくて有権者が自ら主体的に政策を選択して作るべきものだ」――そんな「べき論」から始まって、そこからいわゆる「マニフェスト政治」もでてきた。あらかじめお約束を記したメニューを提示して、賢い有権者は、自主的にそれらを選択する。政党間の競争を激しくして、政権交代していこう、という政治が作り上げられていったわけです。そのまま、有権者が合理性を発揮すれば、政治はよくなる、という何の根拠もない神話が語られはじめた。

それ自体が間違っているというつもりはありません。でも、本で説明したように、政策に基づく政党政治が成り立つためには、実際にはさまざまな前提条件を満たさなくてはならない政治学上のモデルに過ぎません。とうぜん現実はモデル通りにはなりませんから、結局、政治に対する失望感を高めることにしかなりませんでした。

2009年に民主党が与党になったときは、民主党が支持されたというよりは、小泉を支持していた無党派層が民主党に流れただけだった。あるいは2012年も民主党支持者が離反したというよりは、強い失望を覚えた有権者が民主党の手元からスッとぬけおちて、その結果、安倍・自民がひとり勝ちしたという構図でした。

―― 競争は激しくなった。そして政権交代が実際に起きてはいる。

ええ、だからといって政治への満足度は高まったわけではない、という現実を重く受け止めないといけない。2012年に民主党が下野したのも、人びとの期待値を高めておきながらそれを裏切って信頼を完全に失ったからです。他方で、今では憎悪や怨念、執着が、澱が溜まるように社会に満ち満ちてきている時にあります。それらは、ヘイトスピーチの問題であったり、脱原発デモであったり、つまり選挙とは違った、街頭の民主主義が徐々に盛り上がっていることにみてとれます。実際、NHK放送文化研究所の意識調査をみると、70年代以降にはじめて投票以外の政治参加が大事だと考える人が少し増えているんですよね。

本の中ではもっと色々な理論やモデル、政治思想の話までを動員して説明をしていますが、既存の、公式的な「政治」に回収されないものが生まれてきているような現状をどのように捉えたらいいのか、いままで語られてきた、合理性に基づく政治とは違う、政治と人びととの関係がどう再解釈できるのか、それがこの本を書いたベースにあります。

だからこの本は、政治を駆動させている様々な感情や非合理を捉えて上でいかに新しい政治の形をイメージできるかについての問題提起でもあるんです。

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政治とは実践である

―― 吉田さんは、いまの政治や民主主義をどのように評価しているのでしょうか?

よく「どういう民主主義がいいと思いますか?」と聞かれますが、民主主義が優れた政治制度なのは、なにが正しいのかが常に空欄になっているからだとぼくは思う。これは、クロード・ルフォールという政治哲学者の物言いですが、民主主義というのは空虚な中心しか持ちえない。その中心は常に空欄でしかなく、そこを埋める権力も暫定的なものでしかない。だから、何が正しくてなにが間違っているのかはペンディングにしておきましょう、そのこと自体を大事にしましょう、というシステムです。空欄としての民主主義こそ、民主主義の核心なんです。こうした立場からすれば、政治学者としてぼくにできるのは、いまの民主主義が正しいか間違っているかを判断することではなく、状況を診断することでしかありません。

今日ここに来るまでにマンハイムの『イデオロギーとユートピア』を読み返していました。マンハイムを読み返しながら改めて思ったのですが、ぼくは結局マンハイムがやろうとしていたことをなぞっているに過ぎないのかも、と思い当りました。差し出がましいかもしれないですけど(笑)。

マンハイムは『イデオロギーとユートピア』で大概こういう風にいっているんです。「人間が絶対的な価値を持ち得ない現代では、手段と目的の連関しか精査できない。だからなぜその目的に対してその手段が用いられなければならないのか、究極的に答えることはできない」、と。簡単にいうと、マンハイムは現代社会ではポジション・トークしか成り立たない、といっているんです。もちろんそれを相対化する方法はあるのですが、そうした意味で政治とは常に流動的なもの、言い換えると実践的(プラクシス)なもの足らざるを得ない、と彼は見切った。僕がこの本でフレーミングしなおしたかった政治像というのも、そういう政治像です。

合理性と感情の両輪

―― では、吉田さんは、いまの政治状況をどのように診断されているのでしょうか?

日本のリベラルは、例えば自民党政治を、地縁でずるずるべったりだとか、前近代的な結びつきで成り立っている政治を「非合理的だ!」と断罪をしてきたわけですよね。あるいは共産党はイデオロギーだし、公明党は宗教だといって、既存の政治と人とのつながりをどんどん排除しようとしてきた。そこで「民主主義とは、合理性に基づき、市民が納得して政治に参加すること」と定義を上書きしていこうとしている。でも、その処方箋ははたして本当に有効なのか。ぼくはそうではないと思うんです。

繰り返しになりますが、マニフェスト政治というのは「政党がメニューを提示するので、それから何を選ぶのかは有権者が主体的に選んでくださいね」ということですよね。でも少なくとも政治はそんな単純に成り立っていない。例えばアベノミクス。専門家ですら論争になっている政策なのに、有権者がしっかりと理解をして選択することなんて無理でしょう。必然的に専門家がブリッジすることや、政策を掲げた政治家が責任をとるといったことが必要になってくる。

簡単にいうと「合理的に自分の利益を計算して、政策を比べて投票先を選ぶような有権者になれば、政治はうまくいく」というのはフィクションに過ぎません。しかも、人間は自分の利益だけを考えて投票するわけではない。地縁や血縁、イデオロギー、慣習、人間関係などの共同体を構成している要素の延長線に政治があって、その上で人ははじめて共同体に関わる営み――公共性と言い換えてもいいかもしれません――が出てくるからです。政治参加という集合行為を合理的な個人の次元だけで論じるのには無理があるんです。

そもそも合理性だけで考えると、投票すること自体が非合理的な行為になってしまう。アメリカの政治学者ダウンズの「合理的投票者のパラドクス」が有名ですが、投票に行くコストと、選挙から得られる利益や選挙が自らの一票で決まる可能性を鑑みると、絶対的にコストの方が大きいんです。しかもいまは世論調査が発達していますから、投票にいかなくても選挙結果は前もってだいたいわかるようになっている。それでもなぜ人びとは選挙に行くのか、その気持ちはどこから出てくるのか。合理性だけでは説明できません。ということは、人びとの政治への参加も、合理性だけに依存するわけにはいかないということになります。だから、政治を考えるときに必要なのは、政策をどう選ぶかではなく、なぜ人は政治に参加したいと思うのか、という風に問題を転換することなのです。

―― 本書で取り上げられていますが、スイスでは、投票コストを下げたらむしろ投票率が下がってしまった事例があるそうですね。

ええ、合理性で説明するなら、投票コストを下げれば、投票率が上がるはずです。日本でも若者の投票率を上げようという意見の中で必ず指摘される方法のひとつです。でも郵便による投票を認め、インターネット投票を認めたスイスのいくつかのカントン(州)では、むしろ投票率が低くなったという事例が多く見られた。しかも、投票コストの高い過疎地域、投票率の高かった地域であればあるほど、です。

これは、郵便やネット投票が可能になって投票の義務から解放されたことで、結果的にコミュニティの中で社会的尊敬が失われて、投票にいく魅力がなくなったのだと考えられています。端的にいうと、社会的な関係が土壌にあって、人は自らの共同体にコミットしようという、内発性が出てくる。このスイスの事例からいえるのは、投票は、たんに票を投じるという行為に留まらない、社会におけるさまざまな関係性が写りこんでいる行為である、ということなんですね。

イーストンというアメリカの社会学者は、民主主義が上手に機能するにはふたつの側面が必要だと説いています。ひとつは民主主義をいかに操舵できるのか、という賢い有権者が担う側面。もうひとつは、自分の共同体に対する愛着があるか。この本でも詳しく説明していますが、前者だけに基づいて、あるいは自分の利益だけを基準とした政治参加は、結果的に民主主義をあらぬ方向にドリフトさせていくことになります。

―― 扇動者が現れて、危うい方向に向かってしまう可能性がある?

どうでしょう、それも考えられるかもしれません。この本では「感情を爆発させれば政治がよくなりますよ」と言っているのではなくて(笑)、民主主義がうまく機能するためには、ただ賢い有権者という理知的な側面だけではなく、パブリックなものに参加するという感情的な側面も含めて考えていかないといけない、という主張をしています。

左翼に必要なものは「シンボル」

政治に参加すること、つまり共同体に関わる営みというのは自分の利益だけからは演繹できません。これは合理的に考えても、理論的に考えてもそうです。

いま日本の社会でとりわけ問題となっているのは、自分の利益を考えて行動すればするほど、つまりパブリックなものからデタッチすればするほど、得な構造になっているということです。このままではパブリックなものがどんどんやせ細っていってしまう。政治の機能のひとつに公共財の提供というのがありますが、そうすると、結局公共財を個人で用意しなければならないから、様々な資本の多寡が個人の有利、不利を決めて行ってします。それは社会という観念の崩壊、社会そのものの崩壊を意味します。

これも本の中で実例として出していますが、1万円のくじを1枚買うのと、100万円で100枚買うのならば、後者の方が当たる確率は高い。ということは、ひとりでくじを買うとしたら、お金持ちがよりお金持ちになる可能性が高い。一方で、100人が1万円ずつ出し合って、100枚のくじを買い、当選した額を分配するという方法もありますよね。ぼくは、政治のあり方としては、あとのほうが正しいと思うし、それを模索するべきだと思うし、政治学が発するべきメッセージだと思うんですよ。感情や共同体を意識した形で政治を分析するツールを発明しなくてはいけないし、そこに網をかけることのできるような政治的な言説を、社会的な価値を大事にする左翼の政治が作っていかないといけないと思っています。

左翼が「サヨク」と語られるようになったいま、左翼はリベラルに吸収されつつあります。保守との対立軸を作るのは、左翼ではなくリベラルの役割になってしまった。では、左翼とリベラルの違いはどこにあるのか。簡単にいえば、左翼と違ってリベラルは個人を世界観の参照点に置いている。それが政治という、どうしても個人の枠を超えて行動しなければならない場面ではむしろ弱点になっている。だからリベラルは訴求力を持たないんですよ。それ以上に、そこから生まれたのが、小泉純一郎による新自由主義ですらありました。前近代を嫌うリベラルの人間は小泉を支持した。共同体ではなく個人化を志向するリベラルは、ネオリベと表裏一体だ?