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東京の森(1)聖地だからこそ緑の空間が残った

2014年04月07日 23時11分 JST | 更新 2014年06月07日 18時12分 JST

東北を襲った震災からはや3年が経過いたしました。

現在でも仮設住居での生活を余儀なくされている方、元の生業がなかなか再開できない方、故郷の景観が損なわれてしまった方、ご家族や友人知人を亡くされた多くの方々に深く哀悼の意とお見舞いを申し上げます。

さらには、いまだ収束を見ない原発事故の行方も非常に憂慮しております。

あらためて、事態の一刻も早い解決と被災地復興をお祈りいたします。

この数カ月で新国立競技場建設コンペにおける諸問題について、

様々なメディアでもその状況や理由や建築業界の慣習なんかも

多くの方々と問題の共有がはかれたことは望外の喜びでした。

特に、現国立競技場を何度か訪れる機会を得ていろいろと気づくことも多かったです。

あらためてその周囲を散策したり、外苑前駅、青山一丁目駅、代々木駅、千駄ヶ谷駅、信濃町駅等からの周辺最寄駅からのアプローチや、外苑西通り、外苑東通り、青山通り、明治通り、首都高速からの周辺景観を確認しまして、

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都心に今のような聖地としての広大な緑の空間が残されていることがひとつの奇跡なのだ、という思いを強くいたしました。

神宮外苑周辺の歴史をふり返ってみると

元々ここがそういった場所、聖地ではなかったことをみなさんご存じでしょうか

今の明治神宮内苑は江戸時代までは彦根藩の屋敷があったところ、

外苑は日向飫肥藩の屋敷があったところです。

それが明治維新により、代々木御料地となり青山練兵場となりました。

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実はそれ以前の、江戸時代までの聖地は上野だったんです。

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上野の寛永寺が徳川家の菩提寺であり、歴代将軍が埋葬されていたのです。

三代将軍家光の時代に天海僧正により建立され長く壮大な規模を誇っておりましたが、幕末の彰義隊の戦いで堂塔伽藍のほとんどを消失してしまいました。

その後に、明治9年に設けられたのが上野公園なんですね。

時代の変遷とともに、時の為政者の交代によって聖地が移動したわけですが、

現代の東京の航空写真を見てみますと、

このように都内全域は建造物によりグレーに塗りつぶされています。

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しかしながら、その中に浮かぶ緑の島のようなもの、

それが今現在都心に唯一残されている開放緑地です。

東京は太田道灌(おおたどうかん)の時代から広大な湿地帯を埋め立てながら徐々に開発してきたもので、徳川家康が豊臣秀吉の命によって駿河から関八州に転封されてから大きく広がりました。

太田道灌のころは、かなりのところまで海ですね。

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みなさんは江戸城開祖といわれる太田道灌って名前は聞いたことがあるかもしれないんですが、よほどの戦国通でないと一体この人はどんな人?って感じだと思います。

戦国時代というのは群雄が割拠して下剋上が起こって、、と、織田信長はご存じですよね。

その織田信長よりも100年前くらいに生まれて、信長が生まれる50年ほど前に亡くなりました。だから、信長とかぶっていない。

メインエベントで登場していないから有名なのに何やった人かあまり知られていないんですね。

関東管領という、関八州の長であった上杉家のナンバーツーとして、関東圏のもめごとをすべて解決し関東発展の礎を築いた人です。

赤坂の日枝神社や九段の築土神社などを勧請し造営したりもしています。

上杉家のもめごとをうまく収めて主家をしのぐ力を得たのですが、

下剋上しなかった、すればよかったのに。

結果、主家からずっと妬まれ恐れられて最後は暗殺されてしまいました。

信長が活躍したころを戦国時代のど真ん中とすると、その前段階プレ戦国時代ってころの人、北条早雲と同級生です。

その後江戸幕府300年の平和な時代通じて世界的にも目を見張るほど大きな都市になった。

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その後、明治維新を経て大正、昭和まで著しい近代化を受け入れる中でも、

それまでの伝統文化をうまく残してきたのが日本人です。

 ↓戦前に採られたカラー写真

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戦前の街並みの空撮を見ても今と変わらないどころか、特にビル建築の意匠については戦前の建築家の方が秀でていると思われます。

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自動車だけは時代を感じさせますが、他は今とあまり変わらない、

変わらないどころか景観としてはむしろいいんじゃないでしょうか

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それが、

太平洋戦争に突入、東京大空襲でいったん灰燼に帰しました。

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しかし戦後復興から高度成長期を経て経済発展の後に今があります。

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それぞれの時代を通じ、東京の中心に市民の憩いの場、動植物も含めた自然環境が維持された場所、そのことによって日本の文化の中心的役割をもった空間として存在し続けているのが、このライトグレーの海に浮かぶ緑の島のような場所です。

これらの森はみな自然に残っていたものが、開発の手を逃れて森になったわけではないのです。

元々の他の用途であった土地を聖地と定めた。

その聖地を森とした。

その森を守り育ててきた。

だから残っているのです。

それが東京の森です。

一見、鬱蒼とした原生林に見える明治神宮の森も、

まだ100年ほどしかたっていない。

明治45年(1911年)明治天皇陛下崩御の後、陵墓は京都の伏見桃山に決まりました。が、当時の東京の有力者や市民は明治天皇の陵墓を「ぜひ東京に」と強く要望し、伏見桃山に決定されてからも、明治天皇の御神霊をお祀りし御聖徳を偲ぶ神宮を東京に創建するよう政府にに要望したのです。

これは、全国的な気運となり、大正2年(1913年)明治神宮建設の計画が決まったものです。

そのときに神宮の造林計画が立てられたのですが

その基本方針は、日本の神社の伝統にならい、

1.神苑にふさわしく世間の騒々しさがまったく感じられない荘厳な風致をつくる

2.常に大木が鬱蒼とし、天然更新により、永久に繁茂する森を育てる

3.森の自然の力によって神宮を荘厳なものにしてゆく

というものです。

東京にあらたなる、「永遠の森」を造ろうとしたのです。

そのためには、自然林に近い状態をつくり上げ、原生林と化し永遠に維持存続させなければなりません。

そもそも、我が国では古代から、森に神が鎮まりたまうという考え方があります。

むしろ、森そのものが神社あるいは御神体として崇敬されてもきました。

そのため、長期的な林相の変化を予想した高度な植栽計画が立てられました。

その計画を立案したのは、樹林・樹木の専門家である川瀬善太郎林学博士、本多静六林学博士、本郷高徳博士です。

ざっと以下のような計画です。

(都市研究センター研究理事 山口 智氏論文「明治神宮の森」より抜粋)

(第一次の林相)→当初

明治神宮の森の創設時に主木とされたのは、御料地時代からのアカマツ、クロマツであった。そして、このアカマツ、クロマツよりもやや低い層としてヒノキ、

サワラ、スギ、モミなどの針葉樹を交え、さらに低い層に将来主林木になるカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹を配し、最も低いところに常緑小喬木と潅木を植栽

(第二次の林相)→昭和時代

創設当時の主木で、森の最上層をなすマツ類はかなりの成長が予想されるが、やがてヒノキ、サワラなどの旺盛な生育に圧倒されて、次第に衰退し、数十年後にはこれらがマツに代わって森の最上層を支配すると予想された。この段階では、マツ類はヒノキ、サワラ類の間に点々と散在する状態となる。

そして、その下の層のカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹が成長し、ヒノキ、サワラなどと成長を競うようになる。

(第三次の林相)→平成の今、現在

森の創設後百年内外でカシ、シイ、クス類が支配木となって全域を覆い、常緑広葉樹の森になる。その常緑広葉樹の中にスギ、ヒノキ、サワラ、モミ、クロマツといった針葉樹と、場所によってはケヤキ、ムク、イチョウなどが混生する状態になる。

(第四次の林相)→これから

第三次からさらに数十年から百余年経つと、針葉樹は消滅し、純然たるカシ、シイ、クス類に覆われた鬱蒼たる森になる。

林内には自然に落下する種子から発生する多くの常緑樹の若木や小潅木が育ち、ここに至って永久に自然に森の更新(天然更新)が行われるようになる。

この林苑造成に必要とされる多くの樹木は全国から献木されました。

そして作業には多くの奉仕団ボランティア組織によりおこなわれました。

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明治神宮はその土地からして、多くの人々の犠牲や献身の元成った、明治維新時に彦根藩や飫肥藩の土地が提供され、新政府の用地となり造営されたものなのです。その土地や建物はもちろんのこと、そこに自生する動植物までもが全国民の精神と文化のよりしろであって、

これだけ先人が心をくだいて、がんばって守りぬいてきた森を壊すとか潰すとか、改造してやるとか、ましてや特定の個人や民間企業に利益誘導することなど、断じてまかりなりません。

つづく

(2014年3月11日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)

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