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日韓、今度は安重根と伊藤博文で波紋?

2013年11月19日 23時43分 JST | 更新 2014年01月19日 19時12分 JST

hirobumi ito

初代韓国統監を務めた伊藤博文元首相を中国・ハルビンで暗殺した安重根をたたえる石碑を建立する計画が韓国と中国によって進められていることについて、菅義偉官房長官が19日の記者会見で、「わが国では、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた」と述べた。これに対して、韓国外務省報道官は「極めて遺憾だ」と表明している。

本誌ではすでに共同教科書の問題についても伝えたが、こうした歴史認識の問題を両国ですり合わせることは決して容易なことではないだろう。

■ 若かりし頃の伊藤博文

ところで、ここで犯罪者として名指しされている安重根によって暗殺された伊藤博文であるが、若かりし頃は血気盛んな若者として倒幕運動に携わったことでも知られている。まだ10代で身分の低かった伊藤が、高杉晋作や桂小五郎、井上聞多らと共に倒幕運動へと身を投じた中で最もよく知られている事件の1つは、文久2年(1863年)に品川の御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちにした事件だろう。同年には生麦事件も起きており、安政6年(1859年)に開港したばかりの横浜居留地は、こうしたことから厳重な警備が施されることになる。

また伊藤は、文久2年(1862年)に山尾庸三とともに江戸期の国学者・塙保己一の四男である塙次郎や加藤甲次郎を暗殺したとされる。「次郎さきに国学者前田夏蔭と共に廃帝の典故を按ずとの説ある」(1)としたことで志士を刺激し、結果として和歌の会からの帰宅途中で暗殺されることになった。例えば、久米正雄の『伊藤博文伝』には以下のように記されている。

なほ、この同じ十二月のうちに、俊輔は宇野東櫻の暗殺と、塙次郎の暗殺とに加はつて居る。(略)これらの暗殺に、俊輔が果たして自ら手を下したかどうか、確かなことは解らないが、彼がその場に立ち会つてゐたことは、間違ひないらしい。後年、塙次郎の死に就いてある人が彼にたゞした時、彼は、

「うむ、あの時は吾輩實に危うかつた」と語つて居る。「と言ふのは、あの時、吾輩の着物に血が附いて居つた。その血の附いたまゝで、幕府の偵吏の前を通りぬけたのだから、もしあの時捕縛されてゐたならば、その血が証拠になって、ひどい目に会つていたに違ひない」(2)

また、実業家・渋沢栄一は大正10年(1921年)に開かれた塙保己一の没後100年を記念する場で、伊藤ら2人が犯人であると明らかにしている。(3)ただし、国民新聞編集局による『伊藤博文公』という回顧録によせた渋沢のエッセイ(4)の中では、渋沢と伊藤が出会ったのは大隈重信によって渋沢が大蔵省への入省を勧められた時期であったと語られており、渋沢が同時期にそのことを知っていたかは不明だ。

いずれにしても、伊藤が長州藩士らとこうした運動に参加していたのは事実であるようだ。2人は暗殺が起きた翌年に、井上馨と井上勝、遠藤謹助とともに、ジャーディン・マセソン商会の計らいによってロンドンへと留学し、長州五傑と呼ばれてる。後の伊藤の活躍はよく知られたとおりだが、一方の山尾も、維新の後には工部卿などの役職を歴任している。

■ 英雄か否か

伊藤に限らず、多くの志士が暗殺に傾いた時期があったが、このことは歴史小説やドラマなどで英雄か否かという二項対立の枠組みの中で偶像化されがちな彼らであっても、決してその評価を下すことが容易では無いことを意味しているだろう。

だからこそ言うまでもなく、このことは「誰かによる誰かの暗殺」という行為を正当化するものでもないし、その数や対象によって誰かと誰かを比較することは断じて適切な言説ではない。むしろこのことは、そのコンテクストや対象、あるいは生死者の多寡によって何らかの事象に対する評価が下されながら、歴史が再生産される可能性があることの困難さを如実に示しているのかもしれない。

これは純粋に政治的な問題なのだろうか?それとも、何かを「記念」すること、あるいは「記憶」することの困難性について、我々は改めて困難な問いかけを投げかけられているのだろうか?

もし後者であるならば、安易に何かを「記念」したり、あるいはそれを「犯罪者だから」として反対することには慎重になる必要があるだろう。ある歴史、特に記憶やシンボリックな問題に対する異議申立ては、その「正統性」に対する批判ではなく、むしろその記憶が二項対立には帰すことの出来ない危険性をはらんでいるという「可能性」に対しておこなわれるべきなのかもしれない。

『維新史料綱要』文久2年12月21日 [↩]

久米正雄『伊藤博文伝 偉人伝全集』、改造社、1931年、p49 [↩]

渋沢栄一伝記史料刊行会『渋沢栄一伝記資料』第46巻、p368-375 [↩]

渋沢栄一「辱知四十年の回顧」国民新聞編集局『伊藤博文公』啓成社、1930年、p73-91 [↩]

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(※この記事は11月20日に掲載されたTHE NEW CLASSIC「日韓、今度は安重根と伊藤博文で波紋?」より転載しました)