「大人」は「大人」でいられるのは年上や年下のおかげ

たいていの人は年下や年上抜きでは「大人」になれない。
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上掲ツイートには、現代人が忘れがちな本当のことが書かれていると思う。

これを見て、まず私は自分が出会った年下の人達のことを思い出した。

自分の年齢がアラフォーになったあたりから、新たに出会う知人や友人のなかに、年下の人がだんだん増えてきた。

たとえば私はブログを長く書き続けているので、インターネットで知り合い、オフ会で出会う人も多い。その際、干支が一回り~二回りぐらい違う年齢の人々に出会うと、「おお!若い!本物の若者たちだ!」と密かに感動する。肌ツヤや振る舞いが、自分とハッキリと違っているのを眩しく感じる。彼らを目の当たりにすると、自分が彼らよりも年上で、つまり、彼らに比べると「若者」ではなくなっているということが身に染みてわかる。

彼らの考えや振る舞いのなかには、自分がそれぐらいの歳だった頃とそっくりな部分があって懐かしさを覚えるところがある。と同時に、世代の違いにもとづいた肌感覚や価値観の違いを痛感させられるところもある。

わかりやすいところでは、私が30代の頃に楽しんでいたコンテンツやネットインフラを、彼らは小学生時代や中学生時代に知っていたりする。彼らは、『涼宮ハルヒの憂鬱』を未成年のうちから知っていたり、『mixi』を学生時代からやっていたりする。もっと若い若者になると、小学生の頃から『ニコニコ動画』を楽しんでいた、なんて話を聞くこともある。

そういったコンテンツレベルのたくさんの違いに加えて、新卒の頃の景気動向や親の世代といった、もっと重要な違いまでもが重なりあって、個人差では説明できない世代の差を生み出しているのがみてとれる。

のみならず、自分のほうが長く生きているぶん、彼らはまだ知らず、私がもう知っていることがあると気付くことがある。たとえば、学校時代のクラスメートの半分ぐらいが世帯を持つようになったら見える景色がどのように変わるのか、彼らはまだ知らない。年を取ることで主観的な景色がどう変わるのかは、人生経験によってしか知ることができないから、頭脳明晰な年下でさえ、こればかりはわかっていない。

【私が「大人」なのは、年下の「若者」に出会えているおかげ】

先日発売となった拙著『「若者」をやめて、「大人」を始める。』に、私は以下のような「大人」の定義を書いた。

では、もっと望ましい、あるべき「大人」とは、一体どのようなものでしょうか。 「大人」というのは曖昧な言葉なので、「大人」に期待されそうな要素を挙げていくときりがありません。 しかし、ひとつの条件、ひとつの定義に絞るなら、私は「世代や立場が違う人に、その違いを踏まえて対応すること」を「大人」にあって然るべきものとして挙げます。

現在の私は、世代や立場が違う人に、その違いを踏まえて対応している、つもりだ。少なくとも二十代の頃に比べればそうできているとは思う。

じゃあ、何が私に世代や立場が違う人との違いを踏まえることを可能にしているかといったら、実際に世代や立場が違う人に出会って、世代や立場の違いを常日頃から痛感しているから、だ、と私は思っている。

20歳~30歳の人とコミュニケーションして、彼らとの違いが確かめることによって、私は自分が「若者」ではないことをハッキリと自覚できるし、世代や社会経験の違いを計算に入れて話をしなければならないことを教わっている。

と同様に、自分の子どもや学校仲間のおかげで、自分が「子ども」からみてどのように見えるのか、そしてどのように振る舞うべきなのかを毎日のように教わってもいる。

こうしたことは、年下と接点があるからこそ学べることだし、もし年下と接点が無かったら、これほど学んでいなかったように思う。

冒頭ツイートにある、「10歳ぐらい年下の人たちの「これがわからない」という問いに答えていくことで人はひとつずつ大人になるんだ」という言葉は、だから私の実感とも一致する。

私が「大人」なのは、年下の「若者」や「子ども」との接点のおかげなのだ。なかには年下と接点が無くても「大人」に辿り着く人もいるのかもしれない。だが、私の場合は「大人」に辿り着くために年下の存在がたぶん必要だった。

年下のおかげで、私は「大人」をやらせていただいている。

【同じく私は、年上を「大人」にしていたのかもしれない】

それと、私に対して「大人」をやってくれていた過去の年上の人々のことも思い出す。

年上の指導医、年上の看護師、年上のオフ会参加者。

そういった人々が私に対して「大人」であろうと努めてくれていた時、彼らを「大人」たらしめていたのは彼ら自身の努力だけでなく、私という、年下の人間だったのかもしれない。私自身が40代になって年下の若者に接する際に感じていることを、彼ら自身も感じていたのではないだろうか。

もしそうだとしたら、「年下と接点を持つことで年上が『大人』になる」という現象が繰り返されて、世の中は回ってきたということになる。

現代社会には「大人」と「若者」、「大人」と「子ども」を分けるはっきりとした境界線は無い。けれども歳の差のある者同士が接点を持ち合い、世代や立場の違いを知ることを通じて、人は確かに「大人」になれる。そのことを年上の人々は私に対して身をもって示してくれたし、今は、それと同じことを私が年下に対して示す番なのだろう。

【「子ども」-「若者」-「大人」の連なりの大切さ】

ここまでは年下の重要性を書いてきたけれども、年上の存在も見逃せない。

年上が「大人」として振る舞っているさまに年下が感心すれば、年下にとってまたとない「大人」のロールモデルになる。逆に、年上が大人気ない振る舞いをしているさまに幻滅すれば、年下にとってまたとない反面教師となる。どちらの場合も、年上の存在によって年下が影響を受け、社会的加齢が促されていくという点では同じだ。とにかくも年上と接点を持ち、そこから何かを学び取る時、年下もまた「大人」に近づいていく。

一人の「大人」が成立している背景として、年上や年下からの影響がある以上、「大人」が、それ単体が褒め称えられることはあってはなるまい。「子ども」-「若者」-「大人」の連なりと繋がりこそが、褒め称えられるべきなのだろう。もちろん、ここでいう「大人」には、比較的若い年齢の「大人」だけでなく、高齢者と呼ばれる「大人」も含まれる。世代から世代に「子ども」-「若者」-「大人」の連なりがバトンリレーされた帰結として、私達の今と、日本社会の今があるからだ。そして、高齢者は私達の行く先を教えてくれる人生の大先輩でもある。

現代の日本社会には、世代や立場や価値観の近しい者同士が繋がりあうための手段はたくさんある。twitterやFacebookなどはその最たるものだ。しかし、世代や立場や価値観の異なった者同士が接点を持つための手段は充実しておらず、子どもは子どものいる場所に、若者は若者のいる場所に、高齢者は高齢者のいる場所に集められがちだ。そのおかげで現代人は世代間摩擦から守られているともいえるけれども、そのぶん、現代人が「大人」になるための機会も少なくなっているのかもしれない。

昨今は、「最近の若い者はダメだ」「最近の中年や高齢者は"老害"だ」といった声をあちこちで耳にする。だが、そういう風に安易に言ってしまえる人々は、年下や年上とどのような接点を持ち、何を学び取っているのだろうか? 年上や年下のおかげで「大人」をやらせていただけている人なら、そのようなことは安易には言えないのではないだろうか。

年上と年下の接点は、長らく、世代間摩擦の源として忌避されてきた。それで得たものもある反面、失ったものもあるだろう。失ったものは取り戻さなければならない。きっとそれは、少子高齢化が進むこの国には必要なものでもあるだろう──なぜなら、私と同様に、たいていの人は年下や年上抜きでは「大人」になれないように思われるからだ。

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