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熊代亨 Headshot

「一人では生きられない。もう一度群れるしかない。」

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「人は一人では生きられない。強い人間は、たくさんの他者を平伏させて一人で生きていけるかもしれない。だが、凡百の人間は、身を寄せ合い、心を寄せ合って生きていくほかない。」
  
この数百年、世界じゅうのいわゆる進歩的な人達は、地縁やイエに伴うしがらみと戦ってきた。皆、しがらみや束縛や抑圧に苦しんでいたからだ。結果、少なくとも日本では、思想とテクノロジーと都市計画によって二十世紀末までにしがらみは相当のところまで無くなった。
 
しがらみや束縛が無くなったことで、私達は自由な個人になった。ひとりひとりがワンルームマンションに暮らせるようになり、コンビニ等のサービスを利用すれば一人でも苦も無く生活できる。

ひとりで暮しているからといって飢餓や殺人に脅かされる心配も乏しい。強固なしがらみの温床としてのイエは核家族へ解体され、それぞれの核家族は自由裁量で子育て等を決定・実行できるようになっていった。
 
少なくとも物質的次元においては、金銭収入さえあれば、誰の手も借りず好きなように生活できるようになったと言って良いだろう。このような自由を空気のように呼吸できる環境をつくりあげてくれた先人には、ただただ感謝するほかない。
 
ところで、心理的にも私達は自由になれたと言って構わないだろうか。
 
そう思えない。旧来のしがらみから自由になった私達は、そのぶん、個人の欲求や葛藤に深く悩むようになり、みずからの不幸をしがらみに責任転嫁しにくくなった。「地域の連中が腐っているから」「イエ制度がいけないから」といった言い訳はもう通用しない。

差し引きの問題として、個人が自由になればなるほど、個人の内面に抱えた欲求や葛藤こそが自縄自縛の源泉として重要になる。そして、それら自縄自縛を再生産する構造としての核家族が、イエや地縁に伴うしがらみに代わって重要性を帯びるようになった。
 
それでも皆が幸福に過ごしているなら別によかろう。
 
だが、OECDの調査(注:リンク先はpdf)を見る限り、現代の日本人が他国に比べて主観的に幸福度が高いとは言いにくい。

GDPが高く、安全性や公共サービスといった点でも優れ、個人の自由な暮らしが思想面だけでなくインフラ面でも徹底しているにも関わらず、私達はそれほど幸福にはなっていないらしい。
 
他方、自由な、いや、自由の裏返しとして孤独だったり孤立だったりするような個人生活・核家族生活の問題点がトピックスとして浮上してきた。20世紀においては家庭内暴力や引きこもりが、21世紀においては児童虐待や貧困母子家庭や孤独死が、アトム化したライフスタイルに付随する問題として話題になった。思想的進展の結果としてそれらが意識されるようになったという指摘はもちろん正しい。

が、そこで意識されるようになったのは大文字の地域・大文字のイエにおけるコンフリクトではなく、アトム化した個人生活や家庭生活のコンフリクトとして現れてきたこと自体は認めなければならない。
 

「力を合わせなければ生きていけない」

「思想面でもテクノロジー面でも、最小のしがらみで生きていけるようになった」と思い込んでいたら、実はそうでもなかった、ということだ。
 
さきに挙げた諸問題が家族や家庭のレイヤーに集中しているように、これまでの思想的・技術的進歩は、家族というユニットの問題・血縁や地縁といった繋がりの問題には(総論的には)解決案を提示していない。むろん、各論的には建築家が二世帯住宅を提案するなどしているが、あくまで各論レベルの選択肢のたぐいで、思想や都市構造のような、万人に浸透するような性格のものではない。
 
だから、思想やテクノロジーの進歩は家族や世代再生産といった問題を適切に解決できていないまま今日に至っている、と言ってしまっても差支えないだろう。反対の見方をするなら、家族や世代再生産の問題を思想やテクノロジーは十分に顧みて来なかった、ということだ。

無理もあるまい。思想やテクノロジーを先導してきたのは、専ら、進歩的で個人の自由を実現する思想を抱き、家事や子育てを低収入アルバイトか苦役のようにしか考えず、自由な労働と個人の成長ばかりを良しとする人達だったのであって、しがらみにめげることなく血縁や地縁を守ってきた人達、子や孫の育成に人生を捧げてきた人達ではなかったのだろうから*1。
 
この数十年ばかり、いわゆる進歩的な日本人達は古臭い血縁や地縁を束縛として弾劾し打倒しようとしてきた。まだまだ血縁や地縁のしがらみが強固だった昭和時代においては、しがらみの副作用や呪縛をはらう運動として確かに有効で、時代に即していた。
 
しかし、そういったものが都市部や郊外からほとんど追放されている平成時代においては、しがらみの副作用や呪縛をはらう有効性はさほど意味を持たず、むしろ、しがらみをはらい尽くす弊害、あるいは一連の運動がもたらした新しい副作用のほうが目につくようになっている。

しがらみを解体すればこその家族病理なり母子家庭なり老人孤独死なりを解決しないまま、二十一世紀は十六年も進んでしまった。
 
血縁や地縁を遠ざけたのはいい。では、それに伴って、かつてそれらの束縛や抑圧に付随していた社会的機能や諸々のメリットを、誰が今、代行しているのか?そして何が代行されないままなのか?

私は、こういう事を若い人にも議論していただきたいと思っているが、不幸なことに、たとえば平成生まれの人は平成時代以降の家庭環境を所与のものとしているから、過去と現在の比較をしようにもしようがない。昭和生まれの世代にしても、都市部や郊外のニュータウンで生まれ育ってきた人には、なかなかピンと来ないところかもしれない。

だが、核家族というユニット、それも地縁や血縁とのかかわりが少ないタイプの核家族というユニットが普及・徹底してきたのは、昨今の思想的・都市構造的な変化を受けてのものであって、たかだか数十年前までは、東京の山の手に住む者以外はこの限りではなかった。
 
ときの政権は「大家族」的なものを理想として掲げているらしい。私にはそれが理想とは思えず、むしろ不気味と感じるが、ときの政権がそのような事を言い出すのはわかる。チャンスだろう。

「資本に恵まれた人間でなくても個人の自由を極限まで求めて構わない」といった幻想が打ち砕かれた現状は、粗雑な大家族主義をでっちあげるには好機である。
 
冒頭で私は「人は一人では生きられない。凡百の人間は、身を寄せ合い、心を寄せ合って生きていくほかない。」と書いた。経済的に豊かだった時代には、こうした課題も経済的余裕によってゴリ押しすることができたし、ワンルームマンションやコンビニとは、そうしたごり押しを推進し、生きていくために必要な諸力を経済力でやっつけてしまうためのインフラだった。
 
しかし今、個人の自由を極限まで追求ししがらみを避けるような生き方をしたところで、経済的・文化的・精神的に強い人間が勝ち、そうでない人間が負けると周知されている。

一人では勝てない人間が、弱くても生き残っていくために再度群れるためのライフスタイルや処世術が必要とされていると思う。紙幅の都合で略するが、既に、そのようなライフスタイルや処世術の再構成は観測されつつある。
 

脱-スタンドアロン志向


こうした「再び群れざるを得ない」「群れてでも生き残る」気分が再起動しはじめた情勢のなかで、窮地に立たされるのは「経済的・文化的・精神的に弱く、なおかつ、群れるための作法も訓練も素養も持たない人」だろう。

強者は個人単位で、それより弱い者はスクラムを組んで生きていくなかで、弱く、かつ群れることのできない者はどうやって生きていけば良いのか?

しかし精神科の外来診療で年若い適応障害圏の患者さん達と話をしている限りでは、群れることの苦手な個人の内面にすら、群れて生きる必要性・切実性が浸入しはじめているようにみえる。

社会適応の上手くない若い世代からは、「ひきこもる自由」に焦がれる精神性はあまり感じられない*2。本心としても、虚勢としても、スタンドアロンを指向する若者は今、どこにどれだけ存在するのか?
 
「個人主義の遺産を踏まえながら、もう一度群れよう・力を合わせて生きよう」。時代が巡り巡って、インターネットが新しい繋がりを生み出して、今はそういう風向きになっているのではないか。 

*1:そもそも、そうやって血縁や地縁や世代再生産に情熱を傾けた生活をしているようでは、個人主義社会の前衛闘士たることは時間的にも精神的にも困難だった。

*2:そのような精神性は、90年代、00年代にはぜんぜん珍しくもなかったのだが

(2016年02月07日「シロクマの屑籠」より転載)