海老蔵さんを本当に苦しめているのは週刊誌ではなく、ファンの方たちではないですか?

海老蔵さんが麻央さんのことを大切に想い続けていることは、どんなことがあっても周りから否定されるべきではありません。
Tomohiro Ohsumi via Getty Images

新しい恋人疑惑が週刊誌で報じられた海老蔵さんが自身のブログでそれを否定し、コメント欄には「捏造報道はやめろ」など、多くのファンからの応援メッセージが綴られた。確かに、メディアによる捏造報道はいけないことだが、私はそれ以上に、そこに書かれているファンからの応援メッセージの方が、海老蔵さんを苦しめているのではないかと心配になった。

私は、昨年、長男出産後に33歳の妻を亡くした。この経験を通して痛感したことは、大事な人を失った人のために周りができることは、その人が自由に故人と向き合うことができる環境を作ってあげることだ。しかし、海老蔵さんのブログに多数綴られた以下のようなコメントが、その環境作りの弊害になっているように思える。

●海老蔵さんは麻央さんのことを愛してるのに絶対にそんなことはないと、みんな、わかってます

●昨年、夫の友人も奥様を亡くされました。私たちの飲み会などで、誰かの彼女か奥さん以外の女性が参加する集まりには行かないとその彼は言っています

●こんなに麻央ちゃんとお子さん達を愛しているのに、そんな浅はかな事を書き立てる人がいると言う事が悲しいです。今の海老蔵さんには考えられない事です

これらのコメントには、「死別した配偶者を大切に思い続けること」=「新しい恋人と一緒になってはいけない」というメッセージが込められており、新しい恋人を見つけることでしか悲劇を乗り越えられない人にとっては、勇気づけられるどころか、重荷以外の何物でもないだろう。逆に、故人を深く愛していたからこそ、その分だけ孤独と苦しみは倍増し、誰かに寄り添ってもらうことでしか生き延びられないという発想があっていいのではないか。

私の場合、妻を突然亡くした精神状態で、一人で新生児を育てられる精神的余裕はなかった。でも、妻が残してくれた最後のプレゼントである長男をしっかり育て上げることこそが、私ができる妻への最後の恩返しだと言い聞かせ、フェイスブックで友人たちに「育児支援に来てください」と助けを求めた。そしたら、当時滞在していたヨルダンに、さまざまな国から家族や友人がリレー方式で来てくれた。そして、昨年10月末に日本に帰国。親の協力を得ながら、しばらく育児に専念しようと新潟の実家に移り住んだ。

しかし、当時の私の精神状態が、親との同居を不可能なものにした。私は、「私が●●していれば、妻の死を防ぐことができたのではないか」と自分を責め続け、家族からの何気ない以下の様な言動に敏感に反応してしまうようになった。

●「なんで●●してくれなかったの?」と些細な事で責められること。

●ノックせずに部屋に入られること。

●冷蔵庫のジュースを飲みすぎて注意されること。

●脱衣場のマットを濡らしすぎることを注意されること。

●妻が亡くなった3日後に、数か月前に立て替えて払っておいてもらったお金を請求されること。

●冗談で「アホ!」と言われること。

普段ならどうでもいい事なのに、私は「妻を亡くしたばかりの私によくそんなこと言えるね」と感情的になってしまった。ほとんど精神病状態だった。

できるだけ両親に迷惑をかけないように、大阪の友人宅や滋賀の姉宅などを転々とした。その結果、長男は生後半年間で、何と計10か所で寝泊まりすることになった。

このまま友人に頼り続け、ジプシーの様な生活を送るわけにはいかない。かといって、長男と二人きりで暮らせる自信もない。両親とは感情的になってしまう。完全に私は行き場を失いかけた。いっそのこと、親せきが関わっている農村共同体みたいな団体に入ってしまおうかと考えた。その親せきに電話をして、見学に行かせてとお願いしたが、あいにく、都合が合わず延期となった。

そんな時、ある友人が夢に出てきた。同い年で旧友の中村あずささん。「彼女なら今の私を助けてくれるかもいれない」と連絡し、状況を説明したら、中村さんは職場から長期休暇をもらい、頻繁に育児支援に来てくれるようになった。中村さんは、決して、ああしろ、こうしろ、とか言わなかった。ただ黙って私に寄り添ってくれた。1日数時間、長男の面倒を見て、夜泣きで寝不足の私に睡眠時間を提供してくれた。日中も長男と二人きりだと外出できる場所が限られるが、中村さんのおかげで温泉やハイキングに行くことができるようになった。夕ご飯前には私の母親の夕食作りを手伝い、すぐ両親にも気に入られた。私と両親との関係も中村さんが間に入ってくれることで改善した。まさに救世主だった。

先月、私は中村さんと入籍した。私の苦労を間近で見てきた両親は「おめでとう」と喜んでくれた。しかし、親せきや友人で、祝福の言葉をかけてくれる人はあまりいなかった。「俺がスージン(妻)だったら、亡くなって間もない時にようこうが別の女性と一緒になったことを悲しむだろうな」と言う人までいた。私はその言葉に首を絞められたような気分になった。私にとって唯一の生き残り策だった中村さんとの結婚を否定することは、私に「死ね」と言っているようにしか聞こえなかった。「あなたに私の気持ちがわかりますか?どれだけ大変だったか、想像できる?」とその人に対して感情的になってしまった。

スージンがどう思うかは、スージンとずっと一緒にいた私が一番よくわかっているし、再婚したからといって、私がスージンのことを大切に想っていないわけでもない。愛情の度合いを文字で表現するのは難しい。私も彼女も国連で働いていたが、スージンは私と違って協調性があって、4か国語を使いこなし、どの部署でもすぐに上司から頼りにされていたから、国連で出世するとしたら、絶対私でなくスージンだと思っていた。2‐3年ごとに別の国へ移動する生活で、常に夫婦そろって働き続けることは難しく、スージンのキャリアを優先させるため、私はアゼルバイジャンとヨルダンで主夫をやっていた。

どれだけ愛し合っていても、夫婦が同時に死なない限り、いつかはどちらが独りぼっちになることを想定し、少しでもその恐怖を和らげるために「どちらかが先に死んだ後は、天国から相手を束縛することだけはしないにしよう」と話し合ってもいた。もし、私が先に死ぬことがあったら、とにかく、スージンが一日も早く立ち直って、元気に生活を送ってもらうことだけを願える人間になりたいと思っていた。たとえ、スージンが他の人と一緒になろうとも、彼女が生き延びてくれるなら、私はそれでいいと思っていたし、スージンも同じ気持ちだった。

「死別して1年で再婚なんて早すぎる」と言う人もいるかもしれない。でも、皆さんにどうしても理解してもらいたいのは、四六時中一緒にいた配偶者を失ってから刻む1分、1秒と、時々会うだけの親せきや友人が亡くなってから刻む1分、1秒は全くの別物だということ。後者は、故人と日々接することがなくても、それぞれの生活が成り立っていたのに対し、前者は故人と日々一緒にいることを前提でしか生活が成り立っていなかったのだ。この違いはあまりにも大きい。にも関わらず、前者が選んだ道について後者が「早すぎる」とか評価できると思えること自体、私にとってはありえないことだ。

映画「東京物語」で原節子が戦死した夫を何年も想い続け、義父に「新しい人生を歩んでもいいのだよ」と言われても、それを拒み、義父と義母にやさしく接する姿には私も心を打たれた。私の親せきが病気で妻を亡くし、半年後に再婚した時は多少なりとも驚いた。学生時代に母親を亡くした友人が、すぐに再婚した父親に困惑する姿に多少なりとも同情した。でも今は違う。たとえ、死別後1か月で再婚する人がいたとしても、それが生き延びるために取った選択なのだとしたら、周りはそれを暖かく受け入れてあげるべきだと思う。無論、原節子の様な生き方を否定するつもりは毛頭ない。あくまで、それぞれのやり方が尊重されることだけを願っている。

当初、カンボジアに住むスージンの母親は「赤ちゃんには母親が必要だから早く良い人を見つけなさい」と言ってくれていたが、実際に見つけたと報告すると、1週間ほど音信不通になった。ようやく電話が繋がったら、「まだ1年も経ってないのに、新しい人ができたと聞いて、毎晩泣き続けたの。でも、今は気持ちを整理した。ようこうがスージンのことを深く愛していたからこそ、独りでいるのが辛くて、誰かに頼らざるを得なかったって考えるようにしたわ。子どもにとってもこれが一番よ」と言ってくれた。入籍前にカンボジアに行って中村さんを紹介したら、「あずさは天国からの贈り物だ」と喜んでくれた。今でも、頻繁に連絡を取り合い、「あずさの前でスージンの話したらダメよ。あずさを悲しませないでね」などと忠告をいただいている。

最後に海老蔵さんに伝えたい。海老蔵さんが麻央さんのことを大切に想い続けていることは、どんなことがあっても周りから否定されるべきではありません。この悲劇を生き延びる方法は海老蔵さんにしかわからないのですから、どうか我が道を進んで下さい。影ながら応援しています。

注目記事