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被災地で知った、「故郷」と私たちをつなぐもの

2016年03月18日 01時34分 JST | 更新 2017年03月17日 18時12分 JST

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宮古の海

私がまだ2歳のとき、父の友人を訪ねて岩手県宮古市に行った。そのとき見たエメラルドグリーンの海が、私の一番古い記憶だ。

父の友人は滝沢さんという人で、海岸沿いで和食店を経営していた。あれから長い歳月が経った今、滝沢さんの和食店はもうない。家も店も津波で流され、彼は今でも仮設住宅で暮らしている。

昨年の暮、音楽療法の講演のため宮古市に行ったとき、滝沢さんの住む仮設住宅を訪問してみた。

ドアをノックすると、70代前半の白髪のふさふさした男性が出てきた。海辺で生活しているせいか日焼けした顔で、優しそうな目をしている。父の名前を言うと、彼はとても驚いていた。2歳のときに会ったきりだから、私のことを覚えているはずがない。それでも、滝沢さんは私を笑顔で迎えてくれた。

「そうそう、今君のお父さんに送る新巻鮭を作っているんだ」

そう言って、滝沢さんは私を裏庭に案内してくれた。そこには、大きな新巻鮭が2本ぶらさがっていた。

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そういえば、1年前に実家に帰ったとき、滝沢さんから届いた新巻鮭が冷蔵庫にあった。でもなぜ、家に送ってくれるのだろう?

「津波のあと、君のお父さんが僕のことを必死に探してくれたんだ。そのことを本当に感謝してる......」

滝沢さんは当時のことを思い出していた。

「あの時は本当にすごかった......。防波堤のところまで船があったんだよ。そういうのを見てしまうと、今でも海のそばに住むのが怖くて......」

彼の声が震えた。

「僕は父親を置いて逃げてしまったんだ......。『逃げろ!』って言ったんだけど......。僕だってあと5分、いや、3分遅かったら、助からなかった」

滝沢さんは涙をこらえながら語った。家は4分の3津波で流され、残りの部分で父親の遺体が見つかったそうだ。2階に逃げる途中だったらしく、階段で発見された。

津波が起こったのが昨日のことであるかのように、滝沢さんは話をした。まるで、彼の中で時間が止まってしまったかのように―。

震災では、多くの親戚や友人を失った。長年住んだ家も、自分の夢だった店も一瞬にして消えた。彼が津波で失ったものは、今まで大切にしていたものすべてだったのだ。

滝沢さんは今、山の裏に新しく出来た復興住宅に引っ越すことを考えている。でも、そこからは買い物が大変だ。宮古の町には急な坂が多い。

内陸に引っ越すことも考えてた。宮古に住み続けていれば津波のことを思い出すし、つらい経験を忘れることができない。でも、故郷を離れるのはもっとつらいと彼は言う。

「あと10日くらいたったら、新巻鮭ができるから、あなたのお父さんに送るよ。新巻鮭を作るのは楽しい」

滝沢さんが初めて笑顔を見せた。

新巻鮭は三陸地方に古くから伝わる食文化だ。滝沢さんは幼い頃、漁師だった父親から作り方を学んだそうだ。

宮古に行く途中、被災地で活動する音楽療法士たちが話していたことを思い出した。三陸地方にはたくさんの民謡があって、人々の生活に根付いている。震災後、被災した人たちをつなぐものが民謡や踊りだったそうだ。被災者同士でもめごとがあったときも、一緒に民謡を唄ったり踊ったりすることで昔を思い出し、みんながひとつになれた。

津波ですべてを失った人々にとって、自分と故郷をつなぐ唯一のものが、新巻鮭作りや民謡といった文化なのかもしれない。

仮設住宅を去るとき、滝沢さんが私の住所を教えてほしいと言った。

「君にも新巻鮭を送りたいと思ってね」

そして、自分の店があった場所を指さした。

「あそこだよ。今はもう何もない」

彼は愛おしいものを見る目で、宮古の海を眺めていた。

【佐藤由美子】

米国認定音楽療法士。ホスピス緩和ケアを専門としている。米国ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間勤務し、2013年に帰国。著書に「ラストソング 人生の最後に聞く聴く音楽」(ポプラ社)がある。

(2016年3月11日「佐藤由美子の音楽療法日記」より転載)