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人へ耳の痛い話をするときは

2014年09月08日 16時15分 JST | 更新 2014年11月07日 19時12分 JST
Hans Neleman via Getty Images

他人へ耳の痛い話をする時には、とても気をつけなければいけない。

例えばあなたがこう思っていたとしよう。

「たとえ言いにくいことでも、その人のためになることならば言ってあげるべきだ。」

もちろん感謝されることもある。ところが「誠意を持って」忠告をしたとしても、実際にはその人を怒らせるだけで何の意味もなかったばかりか、かえって恨みを買うことにもなりかねない。

そんなものである。

「器の大きい人は、批判をうけとめる」という方もいるが、そんなに簡単な話ではない。

ある批判にはおおらかな人が、別の批判には烈火のごとく怒る。

同じ批判をされても、「あなたが言うのなら」という反応が返る場合と、「お前が言うな」という場合があり、人によって反応が異なる。

だから、これは器の話ではない。

本質的に、「人は自分の批判を聞きたくない」のであって、批判を受け入れるのは「特殊な状態」である。

「人間は考える葦である」という言葉で有名な哲学者ブレーズ・パスカルも、著書「パンセ」の中でこのように述べる。

"真実を伝えるのは、伝えられた人にとっては有益のはずだが、たいていは伝える人にとって不利に働くようだ。真実ゆえに憎まれることになるからだ。"

古今東西、人間の性質はほとんど変化していない。

残念ながら、「私は批判されてもそれを有り難いと思えるので、なんでも言ってください」という言葉ほど空虚に響く言葉はない。

さて、それでは「耳の痛い話」は人にしないほうが良いのだろうか。その人のためになると明らかにわかっていることであっても、それを黙っていたほうが良いのだろうか。

そんなことはない。それをカバーするのが「言い方」である。

「言い方」はとても大事だ。

武士にとっての実用書として江戸時代に書かれ、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という言葉で有名な書物、「葉隠」はこう言っている。

"意見をしてその人の欠点を直す、ということは大切なことであり、慈悲心とも言い換えられる。それは、ご奉公の第一の要件である。

ただ、意見の仕方に骨を折る必要がある。他人のやっていることに対して善悪をさがしだすということはやさしいことで、また、それについて批判をすることもたやすい。

大方の人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切の事のように思い、それが受け入れられなければ、力が足りなかったとしているようだ。

こうしたやり方は何ら役立たずで、ただいたずらに人に恥をかかせ、悪口を言うだけのことと同じ結果になってしまう。言ってみれば、気晴らしのたぐいだ。

意見というのは、まず、その人がそれを受け入れるかどうか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらの言うことをいつも信用するような状態に仕向けることからはじめなければならない。

その上で趣味の方面から入って、言い方なども工夫し、時節を考え、あるいは手紙などで、あるいは帰りがけなどに、自分の失敗を話しだしたりして、余計なことは言わなくても思い当たるように仕向けるのが良い。

まずは良い所を褒めたて、気分を引き立てるように心を砕いて、喉が渇いた時に水が飲みたくなるように考えさせ、そうした上で欠点を直していく、というのが意見というものである。"

(参考:三島由紀夫著 葉隠入門)

なるほど。

結局人は自分の信用している人からしか意見は聞かない。また、気分が良くなくては意見を聞くことができない。

そういった人に気を遣う「作法」もまた、社会で生きていくには大事なことなのだろう。

(2014年4月18日 Books&Appsに加筆・修正)