「じつは学歴で年収は変わらない」日本の教育を変えるエビデンス・ベーストとは? 中室牧子さんに聞く

今後ますます少子高齢化が進む日本。厳しい財政状況のなか限られた予算で、子供たちに本当に効果のある教育政策を行うには、何が必要か。今回は中室さんに、日本の教育を変える教育経済学の可能性や、これまでの歩みを聞いた。
吉田亮人

「どの高校や大学にいっても、将来の年収に影響しない」

「子供の学習時間は、父親が勉強を見ると長くなる」

これまでの常識を覆す、この研究結果を発表したのは、慶応大学SFC(湘南藤沢キャンパス)の教育経済学者・中室牧子准教授(写真)だ。

計量経済学を用いてデータを分析し、効果のある教育政策の実施を目指す、教育経済学。アメリカでは、"科学的な根拠"という意味をもつ「エビデンス・ベースト」(evidence based)を政策に反映するのは一般的だが、日本ではまだあまり馴染みがない。

今後ますます少子高齢化が進む日本。厳しい財政状況のなか、限られた予算で、子供たちに本当に効果のある教育政策を行うには、何が必要か。今回は中室さんに、日本の教育を変える教育経済学の可能性や、これまでの歩みを聞いた。

■データを分析して、最も効果的な教育政策を提案する「教育経済学」

これまで日本では「教育」と「経済」が同時に語られることは、ほとんどなかった。教育経済学とは何か。中室さんに聞いた。

「教育経済学とは、経済学的な理論と手法を用いて教育を分析・評価する応用経済学の一分野です。私の場合は、"インパクト評価"や"プログラム評価"など、データを用いた実証分析を行います。インパクト評価において政策的に重要な指標は、『費用対効果』と呼ばれるもので、1分の時間や1円のお金を投じた場合、どの政策がもっとも効果が高くなるかを明らかにするものです」

日本でよく知られている教育社会学との違いについて、中室さんは「教育社会学は、教育格差や不平等に注目し、親の所得や子供の学力との関係を分析したりしますが、教育経済学では、子供が自分で選べない"親"や"遺伝"などの影響を制御したうえで、子供の学力を上げるために、私たちに何ができるのかを分析します。科学的な根拠という意味をもつ『エビデンス・ベースト』の政策提案は、公教育へ貢献が期待できるのはもちろん、家庭での教育においても有意義な知見を提供できるのではないかと思っています」と語る。

■アメリカでは、科学的に検証された効果に教育予算をつける

データ分析は、ビジネスの世界では当たり前とされているが、日本の教育政策は、これまで個人的な経験をベースに議論されることが多かったという。

「財政・金融政策などを議論する場で、専門家以外の方が発言することは稀ですが、たとえば政府の諮問会議の議事録を読んでみると、教育政策の話題については、じつに様々なバックグラウンドの方が『私の経験では......』と発言されています」

「統計学者の西内啓(にしうち・ひろむ)さんが、ベストセラー『統計学は最強の学問である』の冒頭で、『教育という分野に関しては、まったくの素人といっていいほどの素人でも自分の意見を述べたがるという現象がしばしばおこる』と書かれていました」

中室さんは「もちろん、私も教員なので、現場での教育経験が大事なのは理解していますが、一方で、ひとりが体験できることは限られているのも事実です。経済学は、大規模なデータを分析することで、全体を捉えようとします。現場の知識を集めるのと同様に『どのような教育政策に、どの程度全体の平均を押し上げる効果があるのか(ないのか)』を見ていくことも必要だと思います」と、教育政策におけるエビデンス・ベーストの必要性を説く。

■「英語」「ICT」「奨学金」、日本の教育も検証が必要

中室さんによれば、アメリカでは教育委員会が教育経済学の専門家を雇用しているケースは少なくないという。アメリカでは、教育政策には科学的な検証が必要とされている。

「2002年、ブッシュ政権下で施行された『落ちこぼれ防止法』(No Child Left Behind Act)という法律によって、効果があることが科学的に立証されなければ、連邦予算をつけないという方針に転換されたんです。この法律には、『科学的な調査研究』(Scientifically Based Research)という言葉が、111回も使われていました」

これによってアメリカでは、教育政策の効果を測定するために大規模な社会実験が実施され、研究に基づいて「13〜17人の少人数学級の生徒は、22~25人と比較して学力が高い」といった政策の方向性が決定されている。

中室さんは「日本でも、少人数学級、1人1台タブレット端末教科書などのICT化、グローバル人材育成、奨学金の拡充、高校の無償化......など様々な政策が提案されており、それぞれに"やるべき論"がありますが、限られた予算や資源で、目標を達成するために、何が一番効果的かを見極めたほうがいいと思います」と語る。

「経済学の教えでは、経済では、すべてにおいてトレードオフの関係が成り立っています。小学校に英語の授業を導入すれば、その分、国語や算数の授業を減らさなくてはなりません。本来であれば、小学校で英語を導入すると本当に英語力が上昇するのか、国語や算数の学力は落ちないのか。そうした影響を検証したうえで、政策が議論されるべきだと思います」

■「じつは学歴は年収に影響しない」という研究結果

教育政策にエビデンス・ベーストを取り入れることで、日本の教育は大きく変わる可能性がある。中室さんが発表した「どの高校・大学にいっても、将来の年収は変わらない」という研究結果は、教育政策に様々な気づきを与えるものだ。実際の研究では、教育が賃金と学力に与える効果を推計するために、双子のデータを用いたという。

「よくアニメ『ドラえもん』を例にして説明しています。のび太くん、スネオ、ジャイアン、出木杉くんの4人がいるとします。このまま彼らが、中学、高校、大学と進学すると......出木杉くんは名門大学に進むんじゃないかと多くの人が予想すると思います」

「しかしそれは、もともと彼の持つ能力の高さによるものなのか、それとも彼がその後に辿った中学や高校での教育の効果なのか。これを識別するのは非常に難しいんです。教育の効果をはかるときには、出木杉くんが名門大学に行った場合と、出木杉くんのコピーロボットが、普通のレベルの大学に行った場合を比較して、ふたりの賃金を計測しないといけないのです」

「そこで、私たちの研究では、一卵性双生児のデータを使いました。一卵性双生児は、DNAのパターンも家庭環境も同じですから、双子の兄弟姉妹をコピーロボットのようにみなすことができます。そして、違う大学に進学した一卵性双生児の就職後の賃金の差を見てみました」

双子のふたりに賃金の差は、ほとんど見られなかったという。「同じ大卒であれば、どの大学に行っていても、その後の人生で得られた賃金に、ほとんど差はなかったんです。それならば、と教育段階を下げて、同じ設定で、高校の選択が学力に影響しているかを調べてみました。すると、同じ中学に通い、別の高校に通った一卵性双生児が合格した大学の偏差値にも、差はありませんでした」

調査を行った中室さんは、「大学や高校の選択は、世の中で思われているほど重要ではない可能性がある」と語る。

類似の研究として、アメリカでは、プリンストン大学の経済学者らが「大学の選択は将来の賃金に影響しない」ことを明らかにしている。この結果は、アメリカの教育関係者にもよく知られており、高校の進路カウンセラーが、生徒に『偏差値で大学を選ぶんじゃない。何をやりたいのかが大事だ』などとアドバイスしているという。

■アメリカの定説「5歳以下の教育が、生涯に影響を与える」

高校や大学が、将来の年収に影響しないという結果が出ている今、中室さんは幼児教育の重要性にも注目している。アメリカでは、『5歳以下の教育や健康への投資が、生涯に渡って大きな影響を与える』という研究が多数報告されているという。

厚生労働省が収集した約5万人のデータを用いた研究では、子供からテレビやゲームを取り上げたとしても、子供の学習時間は、ほんのわずかしか伸びないという調査結果が出たという。子供が自ら学習するようになるためには――中室さんの調査によれば、親が「勉強時間を決めて守らせている」「勉強を見ている」ことが重要だという。

「親のコミットメントを、父親と母親に分けて、『勉強したか確認している』『勉強を見ている』『勉強をする時間を決めて守らせている』『勉強するようにいう』の4類型に分けて、子供の学習時間への影響を見ました。すると両親が『勉強を見ている』『勉強する時間を決めて守らせている』場合、子どもの学習時間は長くなる傾向があったんです」

調査では「父親が、机に座って勉強を見ている」場合に、もっとも学習時間が長くなる傾向が見られた。逆に、母親が「勉強するようにいう」のは、子供が女子である場合に、学習時間を減少させた。また親ではなく、大人が子供の勉強を見た場合でも、子供の学習時間が増える結果が得られたという。親や大人の行動によって、子供の学習時間は変わるのだ。

出展) Nakamuro et al (2013)

■国際学力テスト、学力水準の低い子供が増加する日本

世界65カ国・地域の15歳を対象に行われる国際学力テスト(PISA)。2003年や2006年に実施されたテストにおいて、日本の子供たちの学力水準の低下が顕著であることが確認されてから、様々な取り組みを経て今、子供の学習時間は徐々に増加しつつある。一方で、学力上位層と下位層の学力格差は拡大している。

「PISAの結果を見ると、レベル5といわれる学力上位の子供の層は厚いんです。ですが、レベル2、レベル1という学力下位の層も急速に増加してきています。下位層の増加が、全体の平均を押し下げているのです」

中室さんは、この学力下位層の子供たちの学力を上げることが、政策的な課題だという。「『親の学歴・収入が高いほうが、子供の学力が高い』という相関関係を明らかにした研究成果とも照らし合わせると、下位層の子供の保護者の学歴や収入は、高くないと考えられます。貧困の世代間連鎖は、深刻な社会問題です。これを断ち切るために、下位層の子供たちの学力をどう上げていくかが重要です」

エビデンス・ベーストの議論を進めることで、政策的な課題が明らかとなり、より効果的な教育政策を掘り下げることができる。日本で、学力下位層の子供の学力を上昇させるために、中室さんは、これから効果測定が必要としたうえで「放課後教室」などの補習授業に注目している。

「すでにいくつかの自治体で実施されている『放課後教室』です。学習塾などに委託し、公設民営方式をとっているところもあります。また、オンライン学習や映像授業の配信なども、家庭での学習のサポートとして有効かもしれません」

■検証に基づいた教育政策は、子供たちの世代間の不平等を防ぐ

アメリカでは、まず学校・自治体・州といった小さい単位で政策効果を検証し、効果が認められたものを徐々に全体に広げていくという。しかし中室さんは「日本では、アメリカのような広げ方は難しい」と指摘する。

「効果があることが確認された政策を全体に広げていくほうが、予算や資源の無駄遣いが少ないことは明らかです。しかし、教育の効果測定で一般にとられる手法は、いわゆる社会実験ですので、政策の対象になる人とならない人を比較する必要があります。日本では、このことが『教育上の不平等』だと受け止められて、教育関係者にとって著しく評判の悪い調査設計になるのです」

「ですが、世代『内』の不平等にこだわりすぎると、世代『間』の不平等を見過ごしてしまう恐れもあります。たとえば、ゆとり教育とそれ以降の世代をみれば、世代間で差が生じている可能性が高いといえます。日本では、最終年度の3月31日生まれと、その翌年度の4月2日生まれ......誕生日が数日違うだけで、教育制度が大きく異なるのです。しかし、受験や就職活動で、その前後の世代と競争することになるような状況は、不平等ではないのかという疑問が生じます」

今なお、ゆとり教育の影響については様々な議論があるが、定量的に説得力のある研究は多くはないという。この状況について、中室さんは「一番の問題は、全体を対象にした政策は、比較対象がなく、厳密な効果測定というのはきわめて困難なこと」だと語る。

「ある世代の子供たちが、すべてが犠牲になり、予算の膨大な無駄遣いが生じる可能性があります。やはり、効果のある教育政策を明らかにするためには、同じ世代の子供は、平等なければならないという考え方は、必ずしも正しくない」と、中室さんは語る。

「エビデンス・ベーストは、政策だけではなく教育現場でも応用することができます。現場の教員が、効果測定とセットにして、新しい教育を実践して、効果が確認されたものに予算や資源を配分し、学校の内外に広げていくアプローチがあってもいいと思います」

■「エビデンス・ベースト」で効果的な教育の実現を

最近では、中室さんのもとに、自治体や学校、学習塾などからも、効果測定の実施に協力を求める依頼が多く寄せられるようになったという。

公私を問わず、教育機関が教育の効果を測定し、その知見を蓄積していくことが、子供たちにとって効果的な教育の実現につながる。エビデンス・ベーストの教育政策は、日本の教育を変える大きな一歩になるだろう。

※初出時、統計学者の西内啓さんの名前のふりがなを誤って表記しておりました。お詫びして、訂正いたします。(2014/06/07 10:45)

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