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69回目の長崎原爆の日 残された被爆者の願い「生きているうちに、語りついでいく」

2014年08月08日 22時35分 JST | 更新 2014年08月08日 22時35分 JST
時事通信社

2014年8月9日、69回目の原爆の日を迎えた長崎では、爆心地に近い平和公園(長崎市松山町)で「長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典」が開催される。被爆者や遺族のほか、安倍晋三首相らが参列し、犠牲者の冥福を祈る。式典には、過去最多の約50カ国になる見通しだという。

原爆投下から69年。原爆の記憶が風化されつつあるなか、6月には、長崎で被爆し語り部として活動する森口貢さんが、同市を訪れた横浜市の中学生に「死に損ない」などと暴言を吐かれたという。

森口さんは10人ほどを爆心地から600メートルほどの山里小学校へ案内。話を始めようとした際、別行動をしていた男子生徒5人が近づき、「死に損ないのくそじじい」と大声を上げ、周りの生徒に向けて「笑え」「手をたたけ」などと言ったという。

森口さんは「こんな経験は初めて。被爆69年となり、戦争や原爆をひとごとと感じているのだろうか。本気で向き合ってもらえなかったことが悔しく、悲しい」と話した。

(朝日新聞デジタル「修学旅行生5人、長崎の被爆者に暴言 横浜の中学校謝罪」より 2014/06/10 00:17)

被爆者の平均年齢は、80歳に迫り、生存者は20万人を切っている。今後は、被爆者の声を後世に伝えていく取り組みが必要となるだろう。

今回は、ネット上に掲載されている被爆者の声の一部を以下に紹介する。

■爆心地から約1キロの自宅で被爆、2歳の息子を失くす

長崎市の飛永アヤ子さん(92)に出会った。飛永さんは爆心地から約1キロの自宅で被爆。顔や足に大やけどを負い、気付いた時には、熱風で服が焦げ、肩や足に生地が残るだけだった。「母ちゃん、痛かねえ」といたわってくれた2歳の息子は、急性放射線障害で2カ月後に亡くなった。「言葉が達者な子でね」。涙ぐみながら回想する飛永さんは「戦争はもう嫌だと思うが、体験したことのない今の人に言っても、分からんのじゃないか」と嘆いた。

(毎日新聞「<記者の目>8月9日、長崎平和宣言」より 2014/08/08)

■10歳で被爆、弟は死去 「孫たちに同じ思いをしてほしくない」

生田道子さん(79)も、投下時刻に手を合わせた。10歳の時、長崎原爆の爆心地から約1キロの油木町で被爆。顔と胸にやけどを負った。ケロイドが残った弟は被爆し数年後に死去。別の弟も全身にやけどを負い、片目が見えなくなった。「孫たちに同じ思いをしてほしくない」。カトリック信者の生田さんは、毎日朝と夜に平和を祈る。



(長崎新聞「広島原爆の犠牲者を追悼 (8月7日)」より 2014/08/07)

■工場の仲間は全員死去、家族を失った伯父の涙に圧倒

衝撃は2、3秒だったでしょうか。うちは大丈夫でしたが、すぐ近くの郵便局のガラスが 割れました。

岩川町から先は道路が通れなくなりました。家が倒壊して道路をふさいでいるのです。人 や馬が生きてるままの格好で真っ白の灰になって道路にあります。人は全部両手を前に何 かを抱えるような形にし、腰を落として白い像になってます。あれは驚いて腰を落とすのと 同時に一瞬のうちに灰になったのでしょう。その後、あの真っ白な像はどうなったのでしょうか。

私が行けなかった工場では、働いていた人全員が亡くなりました。親戚の谷口の家では、私より1歳年長で私とよくあそんでいたアキラという名の男の子とマツエというその母親が家にいて即死でしたが、父親のカツジと三人の姉妹が助かりました。谷口の家族は11日に田結村の私達のところへ来ました。伯父のカツジが私の母に報告をするのをそばで私も聞きましたが、マツエおばさんとアキラが死んでいたと告げて、伯父はあたりかまわず大声で泣きました。「マツエとアキラ。。。」。

私は大の大人がこんなに大声でなくのかと驚き、圧倒されました。



(朝日新聞「長崎の声 - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ」より 2005年)

■兵器工場での夜勤後、爆心地から約1.5キロの寮で被爆

中野さんは夜勤を終えて戻った寮(爆心地から約1・5キロ)で被爆し、足や手に重傷を負った。(中略)被爆地から逃れるためにようやく乗り込んだ汽車には、窓から顔を出して「水をくれ」と叫ぶ負傷者や、死んだ子供を必死に揺さぶる女性がいた。血のにおいが充満する車内で、中野さんは涙をこらえきれなかった。

(毎日新聞「長崎:15歳の被爆体験記 語り部支えるノート 中野さん」より 2014/08/08)

■高熱が続き、髪の毛が抜けた原爆症 被爆者の話「語りついていかなければならない」

熱が出て、近くの福島病院にリヤカーに乗せて連れて行ってもらったのですが、病名も解らず毎日38度39度と、熱が続きました。当時は原爆の放射能を浴びたということさえ、わからなかったのです。15日ぐらい経ってやっと熱が下がりました。その時から髪の毛が抜け始めたのです。半年ぐらい、丸坊主でした、終戦後だったから、帽子の買うのもありません。その時の年齢17歳、何処へ行くにも恥ずかしくて、手ぬぐいを破っていきました。人のいないところでは、もう髪の毛は生えてこないと、何時も涙を流して泣いていたのです。半年ぐらい経って髪の毛が、すこしづつ手で頭を撫でる度に、ざらざらと生えてきたのです。

その時の嬉しかった事、60年経った今でも、はっきり覚えています。

一瞬にして家族を失い、食べ物もなく誰からも看取られずに死んで逝った、被爆者の話を私が生きているうちに、語りついで行かねばならないと思っています。無念の死を遂げた被爆者、過ちを二度と繰り返さないためにも、憲法九条を守り核戦争をなくして、行かなければなりません。それが被爆者の願いです。

(朝日新聞「長崎の声 - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ」より 2010年)

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