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ダーイシュ(イスラム国)から脱走したシリアの少年兵「ダーイシュには加わるな」

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isis child soldier

トルコ、シャンルウルファ 1月27日、ダーイシュ(イスラム国)から脱走した少年兵は自分の首にある傷を記者に見せた。戦闘中に銃弾が首をかすめたという。

ャンルウルファ(トルコ)――14歳でハレドは初めて銃を手にした。15日後、世界で最も恐れられている過激派グループがハレドを戦地に送りこんだ。

ハレドは、カラシニコフ銃にどれほどの重量感を感じたか、どれほど騒音が耳を傷つけるものだったかを思い出す。銃弾が自分の首の背後をかすめた後、病院で目を覚ます恐怖を思い返す。

この物静かな10代の少年は今、シリア東部の県都デリゾールから、イラクとシリアの広大な地域を暴力的に占拠したジハードグループを強く非難している。メッセージはシンプルだ――ダーイシュ(イスラム国)に加わるな。

ハレドはシリアに数多くいる少年兵の一人だ。シリア内戦に関わる当事者のほぼすべて――アメリカが支援する穏健派、クルド人戦士、過激派グループ、そして政府勢力も同様に――が、戦闘員やその補佐役として子供たちを軍務に就かせたり、働かせたりしていると非難を受けている。とりわけ、ダーイシュはこの件に関して最も悪名高い。

ハレドは、2014年の冬ダーイシュに参加した時、「自分に何が待ち受けているのかまったく分からなかった」と語った。

2011年春、反政府デモがシリア全土に勃発した時、11歳だったハレドはただ、表通りに出たかっただけだった。自由を求める活動に参加した兄やいとこをうらやましく思ったが、家族はハレドにデモに行くことを禁じた――家族は、子供には危険すぎると言った。

それは正しかった。間もなく、シリア政府は容赦なく反対派を弾圧した。ハレドの家族は長年にわたり、ハレドを隠すしかなかった。反対運動は間もなく戦争に変わった。

その年の冬、ハレドの学校は閉鎖になった。政府軍の砲弾が飛び交い、反体制派勢力が政府軍と衝突し、ハレドは外で遊ぶことができなくなった。そこでハレドは1日を屋内で過ごし、家事を手伝い、戦争で破壊された家の敷地外へ行くことを夢見ていた。

A photo posted by khalilashawi (@khalilashawi) on

ロイターのフォトグラファー、ハリル・アシャウィが撮影した、デリゾールが破壊され尽くした街並み 2013年8月11日、Instagramに投稿

死と破壊は避けられないものだった。ハレドの世界は崩れ去った。紛争により知人はことごとく殺され、ハレドの家族にも及んだ。ハレドによれば、政府軍がデリゾールに攻撃した時、ハレドの叔母といとこが死に、他の家族は負傷した。ハレドの兄弟と数人のいとこは、武器を取って戦うことを決意し、自由シリア軍と連携する反政府グループに加わった。

数カ月が過ぎたころ、ハレドは新しい反政府グループの存在について耳にし始めた。それが、後にダーイシュ(イスラム国)として知られるグループであった。

「ダーイシュが革命を起こそうとしている――そんなような話が聞こえてきました」ハレドは、暗く悲しい目を、自分の前にあるテーブルに焦点を合わせて語った。シリア領内のダーイシュ支配地域からわずかに離れた、このトルコの町のホテルロビーで、ハレドは自分がどれほど重大な過ちを犯したのかを話した。

「ダーイシュに加わってはいけない」ハレドははっきり語った。「ダーイシュのやり方は間違っている」

2014年1月のある木曜日、ハレドは両親に別れを告げないまま、デリゾールの家を後にした。不安そうな笑みを浮かべ、「両親とはすぐにまた会えると思っていた」と説明した。

ハレドはいとこと共にバスに乗り、デリゾール県内の都市マヤーディーンの近くの街へ向かい、南東へ移動した。そこには、かつてサッカークラブがあった建物にイスラム国の本部があった、とハレドは語った。ハレドのいとこは、最後の最後で気持ちを変え、自宅へと戻った。しかしハレドは、反政府組織の建物に足を踏み入れ、ダーイシュの兵士を志願している、と伝えた。

退屈さと絶望感に突き動かされ、自分の隣人に砲撃を加えた部隊を打倒する。ハレドは、戦争前のように、サッカーをしたり勉強をしたりした希望にあふれる少年ではなくなっていた。

「ハレドはとても礼儀正しく、とても恥ずかしがり屋でした」ハレドのいとこで教師をしていたオサマは、ハフポストワールドポスト編集部の電話取材に答えた。「ハレドがトラブルに巻き込まれることはありませんでした。でも混乱していたんです。ダーイシュがこのエリアに来た時、彼らは善良な人間であるかのように振る舞っていたからです」

ダーイシュの本部で、兵士はハレドに名前と、どこに住んでいるのか、そして年齢を尋ねた。ハレドが、わずか14歳であることを告げた時、まばたきもしなかった。「彼らは僕の身長が高かったから、気に入ってくれました」わずかに口ひげが見える少年らしい顔つきをした、やせ気味のハレドは語った。

「土曜日に戻ってこい」兵士の一人が言ったことをハレドは覚えている。

そして、ハレドはその通りにした。その土曜日、ハレドはダーイシュに加わった。次の日、自宅から持ってきたわずかな着替えを手に、他の新入りと共にバスに乗り、30マイル離れた、アルティブニのトレーニングキャンプへと移動した。そこは岩塩鉱山で有名な所であった。キャンプはダーイシュが首都と主張しているラッカからおよそ60マイル程の距離にある。ラッカは現在、シャーリア(イスラム法)を厳格に運用し、磔刑が横行し、銃を持った兵士が通りをパトロールしているなど悪評が高い。

ハレドによると、新入りの給料は月7000シリア・ポンド(およそ4400円)に設定されている。ハレドはトレーニングを受け、戦闘方法を学んだ。既婚の兵士は、2倍の額を受け取っていたようだ。

ワールドポスト編集部は独自でハレドの話を確認できなかったものの、ハレドの説明は、彼の家族や友人、そしてシリアから発信されるアルティブニや他のトレーニングキャンプを詳述した数多くのレポートと一致している。

ハレドは、他に30人ほどいた少年兵のうちの一人だったと語った。残りの新兵は成人男性だった。

中東と北アフリカのUNICEF子供保護アドバイザー、ローレン・チャピス氏は、ダーイシュが若者の感覚を鈍らせる方法として極めて苛酷な暴力を用いると述べている。「[ダーイシュは]少年兵の採用や洗脳を公然と行っていて、しかも他のグループよりもかなり大規模だ。子供たちを宣伝活動の目的で利用し、戦闘での役割や、戦争での「殉死」を美化している」と説明した。「さらに、感覚を鈍らせる手段として子供たちを苛酷な暴力にさらす戦略を採用している」

おぞましいダーイシュの動画の中で、男性たちが幼い子供に撃たれて死亡した

わずか2週間の間、ハレドは集中トレーニングを体験した。ハレドは、複数の武器、例えばカラシニコフ銃、PKCマシンガンや拳銃の用い方を学び、持久力やスポーツの訓練を受けた。よいイスラム教徒となるための方法について、シャーリアの授業に参加した。「この授業がとても過激でした。そこで教わったことは、僕が知っているイスラム教とは全く異なっていたことに衝撃を受けたんです」

子供も含めて異論を差し挟んだ者、あるいは喫煙や窃盗が見つかった場合は誰であっても、20回の鞭打ちに処せられたとハレドは語った。兵士の中には、プラスチックの水道ホースで鞭打たれていた者を目にした。もし、再び「不法行為」が見つかると、拷問にかけたれた。

ハレドは「多くの人が拷問に遭っているのを目にしました」と静かに語った。「毎日、彼らは人々を、たとえ子供であっても、鞭を打っていました。誰一人、そこを出ることは許されなかったんです」

"多くの人が拷問に遭っているのを目にしました。 毎日、彼らは人々を、たとえ子供であっても、鞭を打っていました。誰一人、そこを出ることは許されなかったんです"

トレーニングは恐ろしいものだったという。一人ぼっちで、怖い思いをした。ハレドの教師役となった人間や上長で誰か気に入った人がいないかどうかを尋ねたところ、たった1人だけ、「アブ・ムサブ・アル・フランシ」という名を思いついただけだった。

ハレドは、彼がユニークなブロンドのフランス人で、ほとんどアラビア語を話せず、チュニジア人通訳を介して新入りにスポーツを教えていた、と説明する。同じ「アブ・ムサブ・アル・フランシ」というノムデゲール(仮名)を用いたダーイシュ信奉者のTwitterアカウントはフランス語とアラビア語の両方で書かれており、ハレドが説明したスポーツ担当の人物と一致しているように思われる。そのアカウントは、シリアのニュースから、パリの週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件、アメリカ・ミズーリ州ファーガソンで起きた黒人少年射殺事件への抗議活動に至るまでさまざまな事柄を詳述している。ワールドポスト編集部は、このアカウントが、かつてのハレドの教師と同一人物かどうかは確認できなかった。

アル・フランシは、ハレドがアルティブニで体験したなかで、彼が思い出すことのできるほんのわずかしかない、いい思い出だ。ほとんどの時間、ハレドは恐怖におののいていた。

「両親が恋しくなりました。逃亡しようと考えましたが、自分が住む村からはとても遠いところにいて、彼らは僕と家族が連絡を取らないようにしていたから、親は僕がどこにいるか知りませんでした。僕が死んだと思っていたんです」とハレドは語った。

ハレドの言葉では、大抵の新人は最低3か月トレーニングを行うようだ。しかし、急いで兵士を増やす必要があったため、ハレドはわずか15日後に送り込まれた。そして最初の銃撃戦で負傷した。ハレドの上長らは新入りに、自分たちが「泥棒やギャング」と戦うと言っていたという。ハレドはその言葉を信じていた。後になって初めて、ハレドが負傷した時、他の兵士たちがシリア政府軍の反体制派「自由シリア軍」(FSA)の兵士たちと戦っていることを立ち聞きした。さらに、ハレドはFSAと共に闘っていた自分のいとこがダーイシュに殺害されたことを後に知った。

ハレドは、「子供は家族と話すことが禁じられていました」と語った。ダーイシュは、一度グループの兵士たちと共に武器を手にしたら、たとえ親が抗議したとしても、ダーイシュから離れることを許されなかった。ハレドの親が、ダーイシュの窓口に問い合わせてハレドの居場所を突き止めた。母親がキャンプにやってきて、ハレドに会いたいと願い出た。母親は拒否されたが、1週間後に再び来るようにと言われた。母親は1週間後、成人した兄の一人を連れてやってきて、ハレドに会うことを懇願したところ、兵士は二人を中に入れ、キャンプ内にあるイスラム国リーダーの住居に連れて行った。

ハレドは、過激派グループに参加して以来、初めて母親に会った時のことを忘れることはないという。

「母は泣いていました」と語る。ハレドはほほ笑むしかなかったことを思い出した。「みんな泣いて、抱き合いました」

ハレドは母親に「家に帰りたい」と伝え、家族は上長に数日間の休暇を申し出ようと決めた。しかし、返事はなかった。

民主主義防衛財団(Foundation for Defense of Democracies)のトニー・バドラン主任研究官はこう証言する。「デリゾールの活動家は、彼らが子供を洗脳し、学校から子供らを連れ出し、トレーニングキャンプと呼ばれるところに連れ込み、そこで幼い子供や若者により広くトレーニングしていると語っています」

ダーイシュのトレーニングキャンプの研究を行っているアブダビのデルマ研究所のアナリスト、ハサン氏は「アルティブニは数カ月間、地元の人間と外国のジハード集団たちが集まり、ダーイシュの要塞となっていました」と述べた。

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2014年1月14日に過激派のウェブに掲載されたもの。ダーイシュが首都としているシリアの都市ラッカにいる兵士が映っている (AP Photo/Militant Website, File)

ハサン氏や他のシリアの情報源によると、シリア政府とアメリカ主導の連合軍によるダーイシュへの攻撃は、最近アルティブニを標的としている。少なくとも1人の子供を含む犠牲者が多数出たと報告されている。報道によると、多くのダーイシュ兵士はそれ以来アルティブニのキャンプやベースを離れ、安全確保のために分散している。

対ダーイシュ戦に加わっているアメリカ中央軍タスクフォースのスポークスマンは、攻撃目標をデリゾール地域と定めたことを発表したが、アメリカ軍は一般人の犠牲者を減らすために予防措置を講じたと主張した。

しかし、軍事研究所でシリア内戦の研究しているジェニファー・カファレラ氏によると、アメリカ主導の連合軍はシリア内で必要とされる情報機関からの情報を得ておらず、少年兵を抱えているトレーニングキャンプへの攻撃を回避できていないという。

ハレドはラッキーだった。ダーイシュを説得し、短い休暇を取るために自宅に帰したいと懇願した母親の助けを得て、3カ月で何とか脱走することができた。デリゾールの自宅に戻ると、反体制派「アルヌスラ戦線」(シリアのアルカイダ強硬派)が、ハレドを12日間拘留した。このグループはダーイシュとの熾烈な戦いでこう着状態にあり、ハレドは敵だった。しかし再び、母親がハレドを無事に解放に導いた。

ハレドの拘留は短期間だったが、彼が言うには自由シリア軍とともに、地域を支配していたアルヌスラ戦線が、ダーイシュの報復からの防波堤になってくれたという。

しかし、数カ月後、ダーイシュがハレドのエリアから他の反政府軍を追放した時、母親はハレドを連れ出す時だと決意した。息子が捕まるのではないかと恐れたためだ。「家族を思い、とても怖くなりました。彼らが家に来て、僕に再び戦うように強要するんじゃないかと怯えていたんです」とハレドは語った。ハレドは、一般人を大虐殺するような集団に戻る気はなかった。

ハレドは偽のIDカードを購入し、11月、ある支援家族の一人だとして移動し、ダーイシュの検問所を通過した。しかし、ハレドの母親は、費用を捻出し危険を冒して脱出できないほかの家族たちと共に残ることになった。ハレドは、密輸業者の助けを得て、自分と支援した家族がトルコ国境を越えた時、ほっと一息ついたが、その家族と離れた時、15歳になったハレドは、母国から離れた地で一人ぼっちだと感じた。

今、この少年兵は難民となったが、トルコでは教育を受けたり、職を探したりすることは容易ではない。ハレドは見ず知らずの人とホテルで生活し、サウジアラビアに避難して働く兄からの仕送りで生活している。ハレドは兄と一緒になりたいと切に望んでいる。

ハレドは2014年1月のあの木曜日に戻り、いとこと同じように、ダーイシュの兵士採用事務所から引き返すことはできない。しかし、ハレドはあらゆる人に、この過激グループについての耐え難い真実を知ってもらいたいと思っている。なぜなら、もしハレドがその事実を知っていたなら、決して参加してはいなかったからだ。

トルコ、シャンルウルファからザヘル・サイード、ワシントンD.C.からのアクバル・シャヒド・アフメド、サンフランシスコからエリーヌ・ゴーツが寄稿

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この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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