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福知山線脱線事故10年、負傷者が振り返る苦難。でも「人生捨てたもんじゃない」

2015年04月20日 16時50分 JST

乗客と運転士の107人が死亡、562人が負傷したJR福知山線脱線事故から、4月25日で10年となる。

事故で人生を変えられた人々の10年は、事故後も苦難の連続だった。それでも「いろんな方の10年を共有することで、10年後に笑って過ごせることを想像できない渦中の方に、生きる勇気を発信できれば」と、生き残った負傷者やその家族、支援者が4月19日、兵庫県川西市でシンポジウムを開いた。

その中から、自身が列車に乗っていて負傷した2人の話を紹介したい。

手術20回、歩けるようになった

管理栄養士をしていた玉置富美子さん(65)=兵庫県伊丹市=はあの日、通勤のため、伊丹駅から快速電車の3両目に乗り込んだ。猛スピードでホームに走り込んできた電車は、停止位置を70メートル過ぎて止まった。以来、顔や足腰に残る苦痛と闘いながら、約20回の手術を受けてきた。

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玉置:この10年間、なぜ私は生き残ったのか。何かしなければならないことがあるんじゃないか。それを問い続けてきました。仕事も辞め、未だに週3日、病院に通っています。

いつも乗っている電車を、3両目の先頭で待っていた時に、目の前を「あれ、特急電車が通ったのかな」という勢いで電車がすり抜けました。はっと見ると、7両目の車掌の顔が見えました。「あっ、これは絶対に事故を起こすな。乗らないでおこう」と思って一歩後ろに下がりました。しかし降りてきた方も少ないし、私も「大丈夫なのかな」と思って、つい乗ってしまったんです。乗った瞬間、「しまった、やっぱり事故が起きる」とすぐに思いました。それでも私は、この光景を覚えておかなければいけないと思いました。

2両目と3両目の連結部分の壁にもたれていたとき、電車がものすごく大きくカーブして、はっと気がつくと2両目が目の前に迫ってきていました。ちょうど車両がつぶれたところで、顔面を押さえつけられ、顔面が切れてきました。車内の中はスクランブル状態で、目を開けて見極めようと思っても、自分の体がどこを回ってるかもわからなかったんですね。「このまま失明するかもしれないし、このまま目を閉じて開かなければ死んだんだ」と覚悟して目を閉じました。

カーブを曲がりきれず、マンションに衝突した快速電車。7両編成のうち先頭車両はマンションの地下駐車場に潜り込んだ。(C)時事通信社

そして、気がついて頭の上が明るいなと思った時は、マンションのフェンスのところまで飛ばされていました。頭を上げたらすごい出血でした。

貴重品の入ったショルダーバッグや、両足の靴は車内に残りましたが、ただ、車外に投げ出されたとき、手元に新聞とショールの入ったカバンが偶然に腕に残っていました。ちょうどマンションの地下駐車場横のフェンスでしたが、前は石ころとガラスだらけでした。石ころとガラスを避けて、カバンを置いて、止血しました。手元にショールが残っていなかったら止血できずに死んでいました。投げ出されたことで幸か不幸か、周りに人がいなくて止血できる場所がありました。

そのうち「ガソリンが爆発する。逃げろー!」と男の声がしました。両足、靴が脱げてえぐり取られてますから、このまま歩いたら足からも出血して苦しみながら失血死するだろう。そう思いました。そうしたらちょうど私の後ろに投げ出された女性が「奥さん、このままここにいよう」と言いました。私は覚悟を決めました。苦しみながら死ぬんだったら、この場で爆発と一緒に死んだほうが楽だと思い、その場で止血を続けました。

そのうち、かなり時間が経ったと思いますが、近所の方が、折れそうな戸板に私を乗せてマンションのピロティーの方に運んでくれましたが、どんどん出血し、息ができなくなってきたんです。そこへちょうど救急隊の方が来られたので、酸素をお願いしました。とても暑い日でしたが、近所の尼崎製菓の方が氷とタオルを持ってきてくださって、顔にかけてくださいました。

やがて救急車に乗せられました。その日は道がものすごく混んでました。ちょうど救急隊の方がお知り合いだったらしく、近くの病院に運ばれました。非番だった方で、形成外科の先生が、いつも行く病院を断って駆けつけてくださいました。先生は、CTOやレントゲンを撮り、治療を始めてくださいました。先生が躊躇されているのを感じたので「先生、痛み我慢します。存分にしてください」と言いました。頭から顔半分にかけて、皮膚が破れて骨が見えていました。動脈はもちろん切れていました。顎は貫通だったんですね。全身打撲していますから、腕は倍ぐらい腫れていましたし、腰も背中も紫色ですごかったみたいです。足はえぐり取られていまして、肉に食い込んでいたストッキングを引っ張り出したときの痛みで思わず声が出ました。ものすごい痛みを今でも思い出します。

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玉置さんの足には、今もミミズ腫れが残っている。(C)Taichiro Yoshino

一応、一命は取り留めたんです。足の中が深くえぐられていましたので、皮が張るまで3カ月入院しました。顔面神経5本のうち1本の運動神経が切れていましたので、顔の半分が垂れ下がって、口にはブロッコリーも入らない。足も痛い、毎晩、痛み止めが切れてうなされる。そんな日々でした。私の顔面神経は「ゴム紐が引っ張って切れた状態で、あなたの場合は切れた両方の先がどこにあるのかわからないから、手術は無理だろう」と言われました。

やがて、関西の形成外科では3本の指に入るという大阪大学の教授を紹介されました。その先生は「顔面神経は1年半経ってるから無理です。ただ、顔の傷は気になりませんか」と言われました。今は、遠目で見れば、まったくわかりませんが、もう20回ぐらい、顔の手術は毎年受けてます。2014年12月18日に目の上の部分も受けました。顔が下がってくるので、目に傷が入ってすごく痛くなるのです。麻酔を打つのは痛いのですが、麻酔の痛みか、目の痛みかを天秤にかけて手術を決めています。

2014年6月までは腰と反対の足が全部痛くて、このままでは車椅子だな、と諦めておりました。たまたまJRの示談の話を受けたとき「再生医療を受けさせてほしい」と頼み、2015年1月に手術を受けました。この手術を受けるまでは、カートにもたれながらしか歩けませんでしたが、今は杖なしで1万歩歩けます。けがされた方、諦めないでください。私はiPS細胞が実用化されて、顔面神経がつながることを期待しています。

私の命を救ってくださり、支えてくださったりした方のいろんなご縁で、ここまで元気になりました。大きな財産は、新しい医療に巡り会えたことです。きっと皆様の中にも苦しんでいる方、いらっしゃると思うんで、人生捨てたもんじゃないと知っていただければ幸いです。皆さんも希望を捨てずに頑張ってください。

自分を支え、妻は心を病んだ

2両目に乗っていて脚を骨折したイラストレーターの小椋聡さん(45)は、被害者としての真相究明活動、支えてくれた妻の朋子さんの発病、会社を辞めて独立したことなど、波乱万丈の10年を振り返った。

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小椋:今日は私の妻について話したいと思います。大きな事件、事故に巻き込まれた人の家族はどうなるか。いろんな被害者に共通するものがあると思います。

事故から1〜2年目は、被害者同士のつながりもまったくなかったので、事故車両に誰が乗っていて、どんな被害にあったのか、それをつないでいく作業が大変でした。当時の事故調査委員会も最終報告書を出していませんでしたので、遺族や被害者に説明責任を果たすよう求めるなど、やることが山積みで、家庭の問題に目を向けることがほとんどありませんでした。

事故当日の様子。マンションに巻きついているのが2両目。(C)時事通信社

私にとって2両目に乗っていたことは多くの意味を持っています。最も多くの犠牲者を出した車両でもあり「そこで生き残ったあなたしかできないことをやりなさい」という責任を背中に負わされたような気がしています。「家族が何両目で亡くなったのすら分からない」という方がかなりたくさんおられましたので、遺族の方と一緒に乗車位置を探す活動をしました。負傷者と家族で手記を集めて2年目に出版したり、事故原因の調査に関する取り組みなど、当時の事故調査委員会に説明責任を求めたりもしました。その横でいつも「あなたのやっていることは間違っていないよ」と励まし続けてくれた妻が横にいたから出来たことです。

やがて、電車に乗っていた私ではなく、妻が精神的な障害を持つことになりました。事故から3年目に認定されまして、今も障害者手帳を持って生活しています。いろんなことが負担となって積み重なり、徐々に妻の精神を蝕んでいったのではないかと思います。私自身は記者の皆さんにたくさん話を聞いてもらい、自分の感情もそれなりに消化できましたが、彼女は常に受け止める側でした。メディアの取材も、遺族との取り組みも、私が話す横で聞いている。優しい心を持っている人であるがゆえに、人の思いにダメージを受けたのではないかという気がしています。

事故から1年半後、一緒に乗車位置を探していた遺族の女性が自殺しました。もともと出会った時から危うい感情を持っている子で、「でもなんとか一緒に乗車位置を探している中で元気になってくれればいいな」と思って彼女を支えたのが妻でした。その女性が発案して妻の誕生会をしようと言い出してくれました。最初はまったく笑わない子だったんですが、そういうことを言い出してくれて嬉しかったんです。

2007年02月01日、JR福知山線快速電車脱線事故の意見聴取会を終え会見する遺族の浅野弥三一さん(右端)、事故で重傷を負った小椋聡さん(右から2人目)ら(東京・国土交通省) (C)時事通信社

事故から2年が経過した頃、妻は物を食べなくなりました。37kgまで痩せ、杖をつかないと歩けなくなりました。3週間入院しましたが、原因が見つかりません。家に帰ってからも、彼女に合う薬がなかなか見つかりませんでした。幻聴や幻視、不眠にずいぶん苦しめられました。私が会社から帰ってくると、真っ暗な部屋で布団の中に丸まっていて起きている状態。「今日帰ったら、彼女は死んでいるかもしれない」。恐怖の日々が続きました。事故から3年目、あまりにひどいので、精神科医と相談して、完全に事故の情報から隔離して、集中して合う薬を見つけるために、兵庫医大の隔離病棟に2カ月入院しました。

その間に私は彼女に相談せず会社を辞めました。38歳でした。辞めずにいたら彼女は恐らく今、この世にいなかったと思います。家で家事をしながらやろうと思って決めたのが、イラストレーターとデザイナーの仕事でした。何も考えずに辞めた割には比較的仕事はあったんですが、家賃を払ってビジネスを回す固定費を払うと、たちまち家計は困窮しました。最初の2年間で、全財産が5000円になったことが2回あります。どんなに屈辱か。私にとってもっとも苦しかった時期です。人には言えないし、自分の人格まで変わっていくのがわかって嫌でした。

福知山線の事故以外にふと目を向け、「自分の人生を生きよう」と思ったことがありました。事故から6年たった東日本大震災です。被災者の姿を見聞きして、誰にも言えずに自分一人で苦しんで耐えてきた人がたくさんいる。自分の周りにも、苦難の真っ只中にいる方がたくさんおられると気づきました。

当時住んでいたところから、兵庫県多可町という田舎に引っ越しました。蛍が飛び、庭に鹿が出るし、最寄りの駅まで車で40分です。苦しみの真っ只中にいたときは、未来とか希望があるなんてちっとも思えませんでした。自分が気がついたいちばん大切なことは、会社を辞めた決断だったと思います。私よりもっとひどい怪我をした人もいますが、努力してきたことで、どういう人生が待ち受けていようとも、過ごしてきた時間は無駄にならないんじゃないかと思うようになりました。この事故の経験を通して、人生は生きるに値すると思っています。

私がいちばん感謝しているのは、自分のそばにいてくれた朋子が10年生きてくれたことです。事故の前日が結婚記念日なんですが、あの事故で「事故の前日」となってしまいました。私と一緒に人生を歩んでくれてありがとう。

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