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国鉄分割民営化から2年後の1989年、JR西日本初の新型車両として221系が登場した。
「JR福知山線の事故」と言えば、その事故を覚えていることを「あぁ」という表情で示してくれる人は少なくない。しかしその後に、あの事故現場となったマンションがいまどういう状況にあるか知っているかを尋ねると「ふつうに人が住んでいるんじゃないんですか?」と聞いてくる人もいれば、「あのマンション、まだあるんですか?」と聞き返す人もいる。
福知山線脱線事故から10年。私は事故現場を2度訪れており、当時の様子を綴ってみよう。
福知山線脱線事故から10年がたつ。事故前から今日までを振り返ってみよう。
乗客と運転士計107人が死亡、562人が負傷したJR福知山線脱線事故から、4月25日で10年を迎えた。
事故現場となった兵庫県尼崎市のマンション(現在は無人)では、4月24日夜、遺族や負傷者が約600本のろうそくを灯した。
この10年にわたって被害者の人々と共に歩んできた支援者の立場から、いくつかの"成果"と"課題"と"葛藤"を書き残しておきたい。
事故に遭遇したことに背中を押されて、葬儀司会者として歩み始めて6年4ヶ月。これまで尊い1000人以上のお命を送らせて頂きました。
「もって3カ月」と医師は言った。呼んでも反応のない順子さんの体を、母もも子さんは必死でさすり続けた。
事故で人生を変えられた人々の10年は、事故後も苦難の連続だった。それでも「生きる勇気を発信できれば」と、生き残った負傷者やその家族、支援者が4月19日、兵庫県川西市でシンポジウムを開いた。