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「ゴッホは生涯1枚しか絵が売れなかった」というのはウソ。知られていない5つのこと

2015年10月05日 16時46分 JST | 更新 2015年10月05日 17時32分 JST

あなたはフィンセント・ファン・ゴッホのファンで、豪華な画集を持っているかもしれない。ほとんどの作品を美術館で直に見たというファンも少なくないはずだ。

そんなゴッホの大ファンでも、ここで紹介する逸話は初めて耳にするものかもしれない。

2015年はゴッホ没後125周年だ。これを記念してオランダ・アムステルダムのゴッホ美術館で「ムンクとゴッホ展」が開催されている。ノルウェー出身のムンクとオランダ出身のゴッホ、ふたりの巨匠の知られざる類似点が紹介されている。

展示会に先立ち、ゴッホ美術館主任研究員のテオ・メーデンドーフ氏や、美術館の代表でゴッホの甥のひ孫にあたるヴィレム・ファン・ゴッホ氏ら関係者に話を聞いた。ちなみに、ヴィレム・ファン・ゴッホ氏の育った家には、ゴッホの原画が飾られていたそうだ。

彼らへのインタビューを元に、ハフポストUS版はゴッホの連載記事を発表していく予定だ。初回は、ゴッホ研究者や彼の一族しか知らないようなゴッホのトリビアをご紹介しよう。

1. ゴッホが1枚しか絵を売っていないというのは誤り。また、帽子にろうそくをつけて絵を描いたりはしていない。

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ステイシー・フェイヒー氏の許可を得て掲載

ゴッホにまつわる伝説は星の数ほどある。そのため、よほど熱心なファンでなければ、事実と間違った逸話の区別がつかないかもしれない。

その一つが「ゴッホは生涯にわたって1枚しか絵を売っていない」という逸話だ。メーデンドーフ氏によれば、ゴッホは数枚の絵を売っていたことが、研究で明らかになっている。

この逸話のせいで、「生前ゴッホは、芸術家として完全に否定されていた」と思われがちだが、事実とは異なる。メーデンドーフ氏は「ゴッホが画家として活動したのは自殺する前の10年間だけだ。画家として名を知られ絵を売るまでには、ある程度時間がかかるものだ」と指摘する。メーデンドーフ氏はさらに「ゴッホが10年しか活動しなかったのは不運なことです。もし自殺せず、長生きしていればさらに多くの絵を売っていたでしょう」と話す。

もう一つの有名な逸話は、ゴッホが帽子にろうそくをつけて絵を描いた、というものだ。メーデンドーフ氏によると、この逸話は、フランス人ジャーナリストで、ゴッホについての本を1922年に著したギュスターヴ・コキオに端を発する。本には、「ゴッホは川沿いで帽子にろうそくを入れて『星月夜』を描いていた」と書かれている。しかしゴッホは、この時のことを回想して、絵画は「ガス灯のもとで」描いたと記している。

2. ゴッホは宿題の代わりに花を提出しようとした。

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これを知れば、ゴッホにより親近感を抱くかもしれない。ゴッホはほとんど宿題をしなかったそうだ。

ゴッホは聖職者になるためにアムステルダムで神学を学んだが、代数やラテン語、ギリシャ語などの授業も受けねばならなかった。しかし、メーデンドーフ氏によれば、こういった神学に直接関係のない学問は聖職者になるために必要ないとゴッホは考え、あまり一生懸命取り組まなかったようだ。 

メーデンドーフ氏は、当時ゴッホの教師だった人が語ったという、次のような逸話を教えてくれた。教師によれば、ゴッホが課題を終えたかどうかは、彼が花を持っているかどうかですぐにわかったという。課題が終わらないと、お金がなかったゴッホは墓地で花を盗んで、宿題の代わりに提出しようしたらしい。これは「ゴッホの弱い一面を示している」とメーデンドーフ氏は話している。

3. 神学校で成果をだせないと、ゴッホは自分自身を棒で激しく打った。

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(左)1873年の写真。(中央)フィンセント・ファン・ゴッホ「タバコをくわえた頭蓋骨」、1885〜1886年。(右)ゴッホ「自画像」1887年

ピュリッツァー賞受賞作家、スティーブン・ネイファー氏とグレゴリー・ホワイト・スミス氏の著書『ファン・ゴッホ:その人生』には、信仰上の理由からゴッホが自身の体に罰を与えた様子が書かれている。コートを着ないまま嵐の中に出て行ったり、黒ライ麦のパンしか食べなかったり、杖の上に寝たりしたという。

ゴッホ美術館は、本の大半には同意していない(特にゴッホは自殺ではなく殺されたという主張に関して)。しかしメーデンドーフ氏は、ゴッホは確かに自傷行為をする傾向があったと話してくれた。

前述した神学校の教師から聞いた逸話として、「ゴッホは課題をやっていない時に、自分自身を傷つけたり、罰したりすることがあった」と話す。

4. カフェのオーナーに恋した一文無しのゴッホは、本物の花を買えなかったので、代わりに花の絵を捧げて彼女を口説き落とした。

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(左)フィンセント・ファン・ゴッホ「カフェ・ド・タンブランに座るアゴスティーナ・セガトーリ(カフェ・タンブランの女)」1887〜1887年。(右)ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「イタリア人のアゴスティーナ」1886年

ヴィレム・ファン・ゴッホ氏は、彼のお気に入りの逸話を語ってくれた。ゴッホが元モデルで年上のカフェオーナーと恋をした時の話だ。

ヴィレム・ファン・ゴッホ氏によると、ゴッホは「カフェ・ド・タンブラン」という名のレストランをパリで経営していた、アゴスティーナ・セガトーリに恋に落ち、彼女の肖像画を描いた(左上の写真。右側はジャン=バティスト・カミーユ・コローの作品)。最初は花を買って求愛しようとしたようだが、金銭的余裕がなかった、とヴィレム・ファン・ゴッホ氏は話した。

しかし、ゴッホはもはや地元の墓地から花を盗む必要はなかった。絵画を通じて愛を伝えることができたからだ。ヴィレム・ファン・ゴッホ氏は次のように続けた。「セガトーリに出会った時、彼は静物画、特に花の静物画を練習していました。彼は本物の花束をあげる代わりに花束を描き、セガトーリに『これを君に捧げる』と言ったのです。とても素敵な話です」

ゴッホとセガトーリの出会いに関して、ゴッホがカフェ・ド・タンブランでの食事代を絵で支払い、セガトーリは絵を壁に飾った、という逸話が、これは作り話のようだ。

5. ゴッホが本当に求めていたのは、妻と子供たちのいる家族だった。しかしそれを手にすることはなかった。

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フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」1888年

「彼が本当に求めていたのは妻と子供だったが、実現することはなかった」と、メーデンドーフ氏は話してくれた。

メーデンドーフ氏によれば、ゴッホにとって人と会うのは難しく、そのため家族を作るのは難しいとわかっていたそうだ。しかし、成長する上で家族がとても大切な存在だったゴッホは、自分の家族を持つ夢を見続けた。

オランダのハーグで、ゴッホはモデルで元売春婦のシーン・ホールニクとその子供たちと1年半を共に過ごしている。メーデンドーフ氏はこれを「家族ごっこ」と表現する。この交際の後、ゴッホは多くの女性と付き合ったが「うまくいかず、長続きしなかった」という。

だからゴッホは、弟のテオに子供ができた時、嬉しくも複雑な気持ちを抱えたのかもしれない。息子ができるとテオから伝えられたゴッホは、今では有名になった「花咲くアーモンドの枝」を描き、夫妻に贈った。ヴィレム・ファン・ゴッホ氏によれば、彼の曾祖父に捧げられたこの絵は、子孫たちのお気に入りの作品だいう。

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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ゴッホの作品

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