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「カメラは差別に対抗する武器」 伝説の写真家、ゴードン・パークスは語った

2016年03月31日 20時31分 JST | 更新 2016年03月31日 20時32分 JST

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1967年、カリフォルニア州ロサンゼルスのワッツで演説をする差別撤廃闘争の指導者ストークリー・カーマイケル氏

無視できない写真がある。

まずダッシュボードカメラで撮られた黒人女性のサンドラ・ブランドさんの逮捕の写真だ。これらは、彼女が留置所で不当な行為で死に追いやられる3日前に撮られたものだ。

そして、シートで覆われた黒人青年のマイケル・ブラウンさんの遺体を捉えた写真。これは、武装していない丸腰の18歳の青年が警察官に銃で撃たれ致命傷を負ったすぐ後の瞬間を撮らえた。

さらには、1つのメッセージを掲げた群衆が抗議する写真。そのメッセージは余りにも単純すぎて滑稽かもしれない。「黒人の命は大切だ」

カメラ自体は、政治的なものではない。しかし、それは、多くの人々を政治的意識に目覚めさせ、改革や革命を広げる可能性を持っている。現代の抗議運動は、ソーシャル・メディアで流される写真や動画によって後押しされる。そして、アメリカの黒人たちに対する組織的な不正や残虐行為が広められている。

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黒人解放運動の急進的政治結社「ブラックパンサー」のリーダーの1人だったエルドリッジ・クリーバー氏と妻のキャスリーン。1970年、アルジェリアで撮影

ゴードン・パークス氏は、1912年にカンザス州フォートスコットで生まれた。その頃、写真家は黒人の生活や我慢を強いられている苦境などを写真に撮ったりはしなかった。黒人たちにとって、他人に見られることは、本来、「戦い」だった。そして、その「戦い」に向き合って、パークス氏は一生を捧げた。

貧困の中で育った彼は、15人兄妹の末っ子だった。高校を卒業してからは、セミプロのバスケットボール選手やウェーター、皿洗い、売春宿のピアノ弾きなど、いくつかの雑用的な仕事をこなした。時が経つにつれ、パークス氏は農業安定局のプロジェクトのために撮られた写真に夢中になった。つまり、どのようにしてジャック・デラーノやドロシア・ラングといった写真家が、移民労働者や大恐慌時代の地域社会の苦境をとらえたのかを考えていた。

カメラは貧困や人種差別、あらゆる社会的不正に対抗する武器になり得るのだと知った」。パークス氏は、亡くなる7年前の1999年に、インタビューにこう答えた。「その時点で、カメラを持たなければいけない、と思った」。たまりかねて、パークス氏は質屋を訪れ、ついに自分用のカメラを買った。

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黒人公民権運動家マルコムX(右から2人目)ら。1963年ニューヨーク市ハーレムで撮影

1948年から1972年まで、パークス氏はライフ誌の写真家を務め、同誌の歴史上初めてのアフリカ系アメリカ人の写真家となった。ライフ誌で働く間パークス氏が撮った画像は、それ以降、公民権運動の歴史の中で不朽の名声を与えられた。そして、彼が記録に残さなければ決して語られなかったかもしれない歴史を如実に映し出している。

ゴードン・パークス:ハイアー・グラウンド(さらに高い場所へ)」と題された展示会は、パークス氏の最も影響力のある、ライフ誌の写真集8冊を紹介し、アメリカ南北戦争終結150周年を記念するものとなった。そこに収録された写真は、革命に火をつけ、その過程を記録した。変化を起こさせる力強い武器としての写真の強大な力を表現していた。アメリカ公民権運動の指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは1961年にこう述べた。「マスメディアが証拠を示すまで、世界は歴史上の恐ろしい出来事をほとんど信じようとしない」

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パークス氏の作品「見えない人間の隠れ家」。1952年、ニューヨーク市ハーレムで撮影

パークス氏の写真集は「1人の人間が見えなくなる」で始まる。これはラルフ・エリソン氏が1952年に全米図書賞を受賞した小説『見えない人間』に基づいている。エリソン氏の小説は、無名の黒人の主人公の視点から、アメリカで1人の黒人として存在しているという孤立した経験を探っている。パークス氏の写真の1つに、「見えない人間の隠れ家」という題がつけられ、無名の被写体が1人腰をおろし、1369個の白熱電球が照り輝く中で、ルイ・アームストロングのレコードを聴いているものがある。

その後間もなく、1956年にパークス氏は「人種差別の物語」という題の連載に乗りだし、1950年代のアラバマ州で、アメリカ南部の人種隔離法「ジム・クロウ法」による人種差別下で生きるアフリカ系アメリカ人家族、ソーントン一家の生活のドキュメンタリー写真を撮った。パークス氏は、人種問題での正義を求める戦いの中で、画期的事件となるような瞬間に焦点を合わせるのではなく、偏見を静かに示す行為にレンズを向けた。アイスクリーム・ショップの黒人と白人を分ける線や、地方の百貨店の裏口など、たいてい写真に残したりしないようなものに。

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ワシントン大行進、1963年撮影

全体として、写真は、人種差別の根幹にある劣悪な作り話の正体を暴こうとした。つまり、肌の色が違う人々には本質的に何か違うものがある、という作り話だ。パークス氏は、ソーントン一家の最もありふれた瞬間、長椅子に座ったり、外で遊んだりする姿などを記録しながら、アメリカ人の一般の生活とは何らも変わらない、アフリカ系アメリカ人の生活のすばらしい平凡さを撮影した。

パークス氏の写真は、人種差別の現状を初めて多くのアメリカ人にさらけ出し、それによって引き起こされた一連の出来事が、今日良く知られている公民権運動をもたらした。パークス氏の1963年のシリーズ、「ワシントン大行進」は、黒人の歴史の中の場面を記録し、その中には、ワシントン記念塔の周りにあらゆる背景を持つ大勢の人々が、必死に変化を求めて集まっている、忘れることのできない写真も含まれている。

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イリノイ州シカゴで1963年撮影

パークス氏は、人種的正義のために戦うもう1つの分派、アメリカの白人と黒人の分離を唱えるイスラム教徒からなる組織「ネーション・オブ・イスラム」も記録に残した。マルコムXとイライジャ・ムハンマド氏に導かれたこの運動は、白人のジャーナリストとの対話を拒否したが、パークス氏は学校や店、礼拝所や自衛訓練所などへのアクセスを認められた。

パークス氏と同じように、マルコムXは視覚に訴える表現の力強さをよく認識していた。著者家のモーリス・バーガー氏はマルコムXを、その時代で最もメディアに精通した黒人指導者の1人だと呼んだ。マルコムXは、マスコミ向けに、カリスマ的で威厳のある顔をカメラで印象付けようとしたほか、彼自身もよくカメラを持ち歩き、自分の周りで活気にあふれる孤立した社会の進行状況を写真に収めた。パークス氏はこれを「証拠集め」と呼んだ。

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銃を持つ男性。1956年、アラバマ州で撮影

「ハイアー・グラウンド」を飾るその他の写真エッセイには、デューク・エリントンやモハメッド・アリ、ブラック・パンサーなども映されている。それらは、公民権運動の歴史と黒人の写真のどちらにも光を当てていて、2つを切り離すことはできない。今日、キャリー・メイ・ウィームズやラトヤ・ルビー・フレイジャー、ローナ・シンプソンなどの写真家は、写真を通して真実を語ることや、積極的行動主義をとることで、パークス氏の遺産を継続させようという人々のうちのほんの数人にすぎない。

それによってとても力づけられます、なぜなら、真正面からしっかりとある重大事件を見据えることができれば、喪失や苦労、苦痛に対処することに役立ちます」。2015年にマッカーサー・フェローの認可を受けたフレイジャー氏は、アメリカの公共ラジオ局のNPRにこう説明した。「そして、それは人間生活の記録、公文書、不公平や不正、労働者階級に対してなされたことの証拠を得ることにも役立つのです」

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デューク・エリントン。1960年、カリフォルニア州ロサンゼルスで撮影

今日、アメリカの黒人たちの生活について、失望も希望も与えるような写真がソーシャルメディアに絶え間なく流れている。それが、ビヨンセのビデオ「フォーメーション」のスチール写真であれ、ハリウッド・リポーター誌のオスカー特集が驚くほど白人だらけだということであれ、黒人の多いミシガン州フリントで、濁った水を飲めと勧められている住民の写真などだ。

亡くなったパークス氏は、単にアメリカの歴史上の最も重要な瞬間のいくつかを記録に収めただけではなかった。彼はカメラを従えて、後に続く写真家やドキュメンタリー作家、活動家、アーティストのために道を切り開いた。見て見ぬふりをすることができない人々の先駆者となったのだ。

ゴードン・パークス:ハイアー・グラウンド」はサンフランシスコのジェンキンス・ジョンソン・ギャラリーで4月2日まで開催されている。

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1966年、ロンドンで撮影

この記事はハフポストUS版に翻訳・掲載されたものを翻訳しました。