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北方領土問題とは、そもそも何? わかりやすく解説 【今さら聞けない】

投稿日: 更新:
RUSSIAN PRESIDENT VLADIMIR PUTIN AND PRIME MINISTE
会談する安倍晋三首相(左)とロシアのプーチン大統領(ロシア・ソチ)2016年5月6日 | Kommersant Photo via Getty Images
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安倍晋三首相は5月6日、ロシアのプーチン大統領とロシア南部の保養地ソチで非公式に会談し、両国間で懸案となっている「北方領土問題」と「平和条約」などについて協議した。毎日新聞によると、安倍首相は会談後に「未来志向の日露関係を構築する中で、プーチン大統領と2人で解決する考えで一致した」と記者団に述べ、両首脳間での解決を目指すと表明した。

会談では、北方領土問題や平和条約の締結問題をめぐり、双方が受け入れ可能な解決策の作成に向けて「新たな発想に基づくアプローチで交渉を進める」ことで一致。その上で、6月に事務レベルで平和条約締結についてや、9月2〜3日に安倍首相がロシアのウラジオストクを訪問し、再び首脳会談を実施することを確認した

第二次世界大戦が契機となって生じた「北方領土問題」だが、なぜ今日に至るまで解決できなかったのか。これまでの歴史的経緯を振り返る。

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■そもそも「北方領土」ってどんなところ?

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北方領土の周辺図

「北方領土」とは第二次世界大戦に絡み、ソ連(現在のロシア)が占領した歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)の4つの島(北方四島)を指す。面積はおよそ5000k㎡で、千葉県や愛知県と同程度の面積になる。日本とロシアの双方が自国の領土と主張し、現在はロシアが実効支配している。北方領土をめぐる日本とロシアの領有権の対立、これが「北方領土問題」だ。

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北方領土・国後島

北方領土の東側は太平洋、西側はオホーツク海に面している。南からの暖かい日本海流(黒潮)と、北からの冷たい千島海流(親潮)の影響を受け、周辺海域は水産資源も豊富だ。また択捉島は、本土四島(北海道・本州・四国・九州)を除き、日本で最大の島である火山島で、温泉が多いことでも知られる。

■日本とロシア、国境策定の経緯

戦前に日本とロシアは、数度にわたって国境を策定する条約を締結している。その主なものを地図と合わせて、簡単に振り返ってみる。

(1)1855年 日魯通好条約(日露和親条約)

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日魯通好条約(日露和親条約)に基づく国境線

およそ160年前の1855年2月、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)の間で初めて国境を確定する条約が締結された。この日魯通好条約(日露和親条約)で、両国間の国境線は、択捉島と得撫島(ウルップ島)間に定められた。これを根拠として、日本政府は「北方領土はこの時点で日本領と定められた」とする立場をとっている。また、両国民が混住していた樺太島(サハリン)は国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすることが定められた。

(2)1875年 樺太千島交換条約

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樺太千島交換条約に基づく国境線

1875年、日本(明治政府)はロシアと樺太千島交換条約を締結。日本は樺太全島の領有権を放棄するかわりに千島列島をロシアから譲り受けた。この条約では、千島列島として占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島までの18の島々の名を列挙している。そのため日本政府は現在に至るまで「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は、千島列島に含まない」としている。

(3)1905年 ポーツマス条約

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ポーツマス条約に基づく国境線

朝鮮半島と中国東北部の支配圏をめぐって争われた日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約で南樺太を獲得した。

■「北方領土問題」の発生、きっかけは第二次世界大戦だった

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1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書調印式に臨む日本側全権団

第二次世界大戦中の1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結し、両国は互いに中立を保った。だが、広島に原爆が投下された2日後の1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。背景には南樺太(南サハリン)・千島列島のソ連領有を決定したヤルタ秘密協定があった。8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾、降伏した。しかしソ連軍はその後も千島列島を南下。9月5日までに「北方領土」を占領し、現在に至る。

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サンフランシスコ講和条約に基づく国境線

日本は51年、連合国と「サンフランシスコ講和条約」を講和条約を締結した。条約では、日本が終戦時に受諾したポツダム宣言の「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島」に限るとする内容を受けて、日本の領土は「千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日(1905年9月5日)のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とされ、台湾や朝鮮をはじめ南樺太と千島列島の放棄が確定した。ただ、この条約にはソ連や中国が調印に参加せず、いわゆる「片面講和」となった。

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サンフランシスコ講和条約に調印する日本全権の吉田茂首相

ここで問題となるのが、「千島列島」が何を指し、最終的にどこに帰属するかという点だ。調印に先立つサンフランシスコ講和会議では、日本全権だった吉田茂首相が「歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しない」と述べた。しかし、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するにとどまった。一方で、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月の衆議院特別委員会で「放棄した千島列島に南千島(国後島、択捉島)も含まれる」と答弁した。千島列島が最終的にどこに帰属するか、サンフランシスコ条約には記載されなかった。

■日本とソ連(ロシア)はどんな交渉をしてきたのか?

(1)1956年 日ソ共同宣言

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日ソ共同宣言と通商航海議定書の調印式に臨む鳩山一郎首相(左)とソ連のブルガーニン首相

サンフランシスコ講和条約後、日本はソ連との戦争状態を終結させる平和条約を締結するため交渉を続けた。日本が国際社会に復帰する上で、国連安保理で拒否権を持つソ連との国交回復には重要な意味があった。また、敗戦時にシベリアで抑留された日本人の帰還交渉も必要だった。一方のソ連側も、当時の最高指導者だったフルシチョフ第1書記が「スターリン批判」や「平和共存路線」を提唱。資本主義陣営との関係修復を目指していた。

56年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名し、戦争状態の終結と国交回復がなされた。当初は「平和宣言」の締結を目指していたが、両国間の国境線の策定が折り合わなかった。その理由は、領土問題だった。共同宣言では「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」となった。ソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は「四島返還」での継続協議を要求。そのため両国間の溝は埋まらず、ひとまず「共同宣言」という形に落ちついた。

日本側の主張の背景には、アメリカの圧力があったとも言われている。共同宣言の2カ月前、アメリカ(アイゼンハワー政権)のダレス国務長官は重光葵外相と会談。二島返還を受諾した場合は沖縄を返還しないという圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)をかけていたと伝えられる。そのひと月後、同年9月にアメリカ政府は日本の外務省に「覚書」を通達。その内容は「択捉、国後両島は北海道の一部である歯舞群島および色丹とともに、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、日本国の主権下にあるものとして認められなければならないとの結論に達した」というものだった。当時は東西冷戦の最中、日ソ接近を警戒しての圧力だったと言われている。

(2)1960年〜70年代 日ソ交渉の停滞

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来日したミコヤン・ソ連第1副首相(右)と会談する池田勇人首相、1964年5月15日

日ソ間ではこれ以降、平和条約の締結に至らず、引き続き領土問題が交渉の焦点となった。米ソ冷戦の中で、60年に日米安保条約が改定延長されると、1961年にフルシチョフ第1書記は日ソ共同宣言の内容を後退させ「領土問題は解決済み」との声明を出した。これに対し日本側は同年10月「南千島に関する外務省見解」を発表。歯舞、色丹のみならず南千島(国後、択捉)も日本固有の領土として、あくまで四島返還を求める姿勢を強めた。同年11月には池田勇人首相がソ連首相への書簡で「択捉、国後両島については日本政府は何らの権利をも放棄したものではない」とし、日本政府の統一見解として「国後、択捉島及び色丹島、歯舞群島の一括返還がない限り条約の締結はできない」という立場を強調した

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レーガン大統領(右)に紅葉の説明をする中曽根康弘首相(東京・日の出町の「日の出山荘」)、1983年11月11日

70年代になると、日本ではアメリカからの沖縄返還(1972年)の流れをうけて「南の次は北」という声が出ていた。ソ連側も、中国との関係悪化や日・米・中の接近を警戒し、日ソ間に歩み寄りの空気が生まれつつあった。しかし、1979年にはじまったソ連のアフガニスタン侵攻による東西冷戦の悪化や、アメリカのレーガン大統領と中曽根康弘首相の接近(「ロン・ヤス関係」)により、日ソ間協議は停滞した。

(3)1980年代後半〜90年代 ゴルバチョフ書記長の登場、ソ連崩壊とロシア連邦の誕生

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共同声明に署名するソ連のゴルバチョフ大統領(左)と海部俊樹首相、1991年4月18日

1980年代後半になると、ソ連では政治改革「ペレストロイカ」を提唱したゴルバチョフ書記長が登場。日ソ間でも領土問題交渉の再開機運が高まった。ゴルバチョフ書記長は「両国間の困難な問題」という言葉で領土問題の存在を事実上認めた。これに呼応するように日本側も、領土問題の解決がない限り経済協力をしないという「政経不可分」の立場を軟化させた。91年4月にはソ連の元首として初めてゴルバチョフ書記長が来日。海部俊樹首相との6回にわたる首脳会談をおこなった。この時に調印された共同声明には「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ(中略)詳細かつ徹底的な話し合いを行った」と、日ソ両国の交渉で初めて、北方四島の名前が領土問題の対象であることが明記された。

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「東京宣言」などに署名し、握手するロシアのエリツィン大統領(左)と細川護熙首相

91年にはソ連が崩壊。後継国家のロシア連邦は、エリツィン大統領が主導した。民主主義や市場経済の導入を目指す新生ロシアにとって、民主主義国かつ経済大国の日本は、重要なパートナーと考えられた。1993年、エリツィン大統領が来日し、細川護煕首相とともに「東京宣言」に署名した。この宣言では北方四島の問題を「法と正義の原則に基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し」と明記された。56年の日ソ共同宣言では平和条約の交渉継続で合意したが、その交渉内容が「北方四島の帰属の問題を解決すること」と明確に定めたものだった。

(4)1990年代後半 橋本首相とエリツィン大統領、「クラスノヤルスク合意」と「川奈提案」

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会談前に握手する橋本龍太郎首相(右)とエリツィン・ロシア大統領(アメリカ・デンバー)、1997年

日ソ共同宣言40周年を迎えた96年、日ロ間の交渉進展機運がさらに高まった。この年、ロシアではエリツィン大統領が再選。日本では橋本龍太郎政権が誕生した。橋本首相は、領土問題以外でのロシアとの関係改善と協力を通じ、最終的に領土問題を解決に導く「重層的アプローチ」をとった。この「急がば回れ」の政策は北方四島周辺における日本船の安全操業協定などの成果につながった。

97年、橋本首相は「ユーラシア外交」の名の下に「信頼」「相互利益」「長期的な視点」の対ロシア3原則を発表。さらに「勝者も敗者もない解決を目指す」と発言した。また、エリツィン大統領と個人的な信頼関係の構築にも努めた。この年の6月、アメリカのデンバーで開かれたサミット(主要国首脳会議)で、橋本首相はエリツィン大統領との首脳会談を実現した。サミット後の記者会見で橋本首相は、「多くの点で従来の雰囲気を超えるものであり(中略)日露関係の一つの壁を超えることができました」と、関係性の高さをアピールした。

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首脳会談を前に笑顔で握手を交わす橋本龍太郎首相(右)とエリツィン大統領(ロシア・クラスノヤルスク郊外)

デンバーサミットの5ヶ月後の97年11月、橋本首相とエリツィン大統領はロシアのクラスノヤルスクで非公式に会談。エリツィン大統領の提案で、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力をつくす」ことに合意した。この「クラスノヤルスク合意」で日本側では四島返還への期待が高まった。

翌98年4月、橋本首相は静岡県の川奈での首脳会談でエリツィン大統領に新たな策を提案した。いわゆる「川奈提案」だ。その内容は「択捉島とウルップ島との間に、両国の最終的な国境線を引く」「当分の間、四島の現状を全く変えないで今のまま継続することに同意する」「ロシアの施政を合法的なものと認める」というものだとされる。この提案で日本側は、歯舞と色丹の返還を直ちに求めていない。四島返還を求める日本側にとって、最大限の譲歩案、妥協案だった。エリツィン大統領は「まさに新しい興味深い提案だ」と興味を示したものの「検討の時間が必要だ」と即答しなかったと伝えられる。

その後、ロシア側は川奈提案を、99年間かけてイギリスから香港を返還させた中国になぞらえて「香港方式」と批判。ロシアは、川奈提案を譲歩とは見なさなかった。98年11月、橋本首相は参院選敗北の責任を取り辞任。エリツィン大統領も経済危機や自身の体調悪化で99年に辞任。こうしてソ連崩壊を契機におこった領土問題解決の機運も、ここへきて頓挫することになった。

(5)2000年代 プーチン大統領の登場

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イルクーツク声明に署名後、文書を交換する森喜朗首相(左)とプーチン・ロシア大統領

2001年3月、森喜朗首相はエリツィン氏の後継者となったプーチン大統領とロシアのイルクーツクで会談し、北方領土問題を中心に話し合った。この時に発表されたイルクーツク声明では、56年の日ソ共同宣言を「平和条約交渉締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とし、その上で「東京宣言に基づき、択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題を解決することにより、平和条約を締結し、もって両国間の関係を完全に正常化するため、今後の交渉を促進する」とした。

この会談で日本側は、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが約束されている「歯舞、色丹の返還交渉」と、東京宣言で帰属問題が争点となっている「国後、択捉の返還交渉」を並行して進める「同時並行協議方式」を提案した。これはまず歯舞、色丹の二島の返還を先行させ、「国後と択捉の帰属は交渉の結果による」とするものだ。結果的に「国後、択捉を諦めることにつながるのではないか」という反対論が日本国内では強まり、森政権から小泉純一郎政権に変わる中で頓挫した

■北方領土問題、これからどうなる?

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会談する安倍晋三首相(左)とロシアのプーチン大統領(ロシア・ソチ)

5月6日に開かれた安倍首相とプーチン大統領の会談時間は合計3時間を超え、通訳を介した2人だけで話し合った時間も35分間あったという。会談後、安倍首相は「今までの停滞を打破するべく、突破口を開く手応えを得ることができた」と同行記者団に語った

一方でプーチン大統領は20日の記者会見で、安倍首相が6日の首脳会談で提案した経済協力プランに関連し、「一つとして(島は日本に)売らない」と発言した。その一方で、「我々は日本などすべてのパートナーと対話を行いたい。その中には平和条約締結問題も含まれるし、その文脈の中で領土問題も話し合われる」と柔軟な姿勢も表明した。ただし、「経済や人的交流、スポーツ、平和条約とすべての方向で議論するが、1つのテーマに、ほかのものを結びつけることはしない」とも述べ、領土問題と経済などは切り離して交渉する姿勢を強調した

安倍首相とプーチン大統領の2人が在任中に北方領土問題の解決を目指すとすれば、タイムリミットは2018年になるとみられている。この年、ロシアでは次期大統領選がおこなわれ、日本では安倍首相が9月に自民党総裁の任期満了を迎える。プーチン大統領は再選を目指す可能性が高いとみられているが、自民党の総裁任期は党則で連続2期6年までとなっている。それまでに解決の道筋をつけられるか、注目される。

参考文献:
岩下明裕『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』中公新書、2005年
浦野起央『日本の国境: 分析・資料・文献』三和書籍、2013年
東郷和彦『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』新潮文庫、2011年
外務省『われらの北方領土 2015年版

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