浅間山荘事件から45年。視聴率90%、日本中が息をのんだ瞬間(画像集)

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「浅間山荘」への突入を試みる機動隊 | 時事通信社
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社会に衝撃を与えた「浅間山荘事件(あさま山荘事件)」から、2月19日で45年を迎えた。昭和史に残る大事件を、当時の朝日新聞などの報道を元に振り返ろう。

▼「あさま山荘事件」当時の現場写真▼

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あさま山荘事件(1972年2月)
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1972年2月19日、午後3時ごろのことだった。長野県軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」に、新左翼の過激派「連合赤軍」のメンバー5人が逃げ込んだ。犯人たちは、山荘で留守番をしていた管理人の妻を人質に立てこもった。警察は山荘を包囲。10日間におよぶ攻防戦が始まった。

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朝日新聞(東京本社版)1972年2月20日付朝刊

現場は雪に埋もれた真冬の南軽井沢。気温は時に氷点下10度になることも。あまりの寒さに弁当はもちろん、靴まで凍ったという。

犯人グループは銃砲店から盗んだ散弾銃やライフル銃で武装。警官隊に発砲し、抵抗した。事件発生から3日目の21日午後5時半すぎ、犯人グループの母は、拡声器を使い、投降するよう説得を試みた。

「これではあんたのいっていた救世主どころじゃないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの」
「最後は、ふつうの凶悪犯と違うところを見せてもらいたいのよ。武器を捨てて出てきてね」

だが犯人たちは、肉親の呼びかけに応答しなかった。それどころか銃を撃つことさえあった。警官隊が近づくと、壁に開けた銃眼から発砲し続けた。警察からの要求も一切聞き入れなかった。

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山荘の窓から銃を向ける犯人グループ

急斜面にそそり立つ山荘は、さながら難攻不落の要塞となり、警察側は苦戦を強いられた。犯人グループからの主張や要求はなく、人質の安否もわからなかった。膠着状態が続く中、警察側は「強行偵察」を繰り返し、情報を収集しようと努めた。

寒空の下、機動隊員らが日清食品の「カップヌードル(1971年発売)」を食べる姿もテレビで映し出された。これがきっかけで、一気に知名度が高まったとされる。

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浅間山荘を監視する警官隊

■事件発生から10日目、警察が「突入」へ

事件発生から10日目、警察は人質救出のため「突入」を決断。2月28日午前10時から作戦が始まった。

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朝日新聞(東京本社版)1972年2月28日付夕刊

事件を解決へと前進させたのは、アメリカ製の大型クレーン車から吊るされた巨大な鉄球だった。午前10時47分すぎ、振り子のように動かした直径70センチ、重さ1.7トンの鉄球が山荘の壁を打ち破った。そこへ催涙ガス弾や激しい放水も加わり、最後は銃撃戦になった。

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鉄球で破壊された山荘への突入を試みる機動隊員

事件の経過はテレビで生中継された。負傷した警察官が担架で運ばれる姿など、現場の生々しい様子がリアルタイムでお茶の間に伝えられた。「いま、警察官が横たわっています。顔が真っ赤です」「ライフル銃で右目を撃たれたようです」――日本中が息をのんでブラウン管をみつめ、アナウンサーの言葉に耳を澄ました。

浅間山荘から200mの場所にあったNHKの保養所から実況中継に臨んでいた平田悦朗アナウンサーは、視聴者にこう語りかけた

人間が人間に狙いをつけて、銃で撃っているということを、そのまま同時にテレビで中継している。この犯罪そのものが異常であることはもちろんですが、テレビでこんなに長時間、茶の間に送り込まれるということ、そのことの異常さ。そんなことが同時に進行している。異常なことの積み重なりで、大変恐ろしくなりますね。

NHK・民放を合わせたテレビの総世帯の最高視聴率は、午後6時26分に89.7%に達した。国民のほとんどすべてがテレビを見ているという空前の出来事だった

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警視庁・第九機動隊が突入に成功。窓から「9機」と書かれた旗を振る隊員

■作戦開始から8時間超…人質救出に成功、犯人全員を逮捕

28日午後6時15分、警官隊は人質を無事救出。同20分には犯人5人を全員逮捕。ここに10日間、約219時間におよぶ「浅間山荘事件」は終結した。事件解決までにTVカメラマンを含む27人が負傷、警視庁の内田尚孝警視(当時47、死後警視長)と高見繁光警部(当時42、死後警視正)、山荘に近づいた民間人1人の計3人が犠牲になった。

連合赤軍をめぐっては、事件の捜査が進む中で「総括」と呼ばれる仲間内でのリンチ殺人が判明。内部崩壊が明らかとなった。浅間山荘への立てこもり直前の1971年12月から72年2月にかけて、群馬県の山中で12人を殺害していた、世に言う「山岳ベース事件」だ。

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大量リンチ殺人された4人の遺体が発見された現場(群馬県倉淵村水沼、1972年03月12日)


また、事件と時同じくして、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、毛沢東主席や周恩来首相と会談。「米中共同声明」が発表されて両国の緊張が緩和するなど、戦後世界の枠組みは着実に変わり始めていた。

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毛沢東主席(左)とニクソン大統領(1972年2月22日)


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ニクソン大統領(左)と周恩来首相(1972年2月25日)