沖縄戦終結から72年 「捕虜になるなら自決しろ」元沖縄県知事・大田昌秀さんに渡された手榴弾

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MASAHIDE OTA
沖縄県知事当時の大田昌秀さん | Susumu Toshiyuki / Reuters
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20万人以上が亡くなった沖縄戦の終結から72年が経った。

旧日本軍と民間人が最南端の摩文仁(まぶに)に追い詰められた1945年6月23日。牛島満(みつる)司令官の自決によって、沖縄での組織的な戦闘が終わったとされるが、それ以降も散発的な戦闘は続いた。

2017年6月12日に92歳で亡くなった 元沖縄県知事・大田昌秀さんも摩文仁で戦い続けた一人だった。師範学校生だった19歳のとき、学生部隊「鉄血勤皇隊」に動員され、摩文仁で戦った。終戦を知ったのは10月23日、実に4カ月後のことだった。日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏してから2カ月が過ぎていた。

大田さんが遺したメッセージを動画とテキストで振り返ろう。以下は2015年7月、保坂展人・世田谷区長とハフポスト日本版が大田昌秀さんに沖縄でインタビューしたときのものだ。

——大田先生自身は「戦争が終わった」と、いつごろ知ったんですか?

私が戦場から出てきたのは10月23日なんですよ。そのときに宣撫工作員といって、沖縄守備軍の将校で「一人でも多くの命を救い出す」ということで壕を回って「もう戦争は終わってるから出てきなさい」と言って歩く人がいたわけです。

そういう人が私たちの壕に入ってきたものだから「こいつは敵の回し者だ」と、手榴弾で殺そうとした(一部の兵士がいた)。そうすると2人の陸軍の軍医が止めて、日本軍の元将校に対して「日本が負けたというはっきりした証拠を示せ」と言ったら、天皇の「終戦の詔勅」を明日持ってくるという。それでコピーを持ってきて、読んで聞かせたけど「こいつはスパイだ」とまた殺そうとした。

そこで2人の軍医が押さえて「天皇の詔勅が、特別な文体で出来ていて普通の人にはでっちあげできないから本物だ」ということで、10月23日に壕から出てきたわけです。

——(6月下旬の激戦は)どのように過ごしていたんですか?

摩文仁の岩と岩の間に身を潜めたり、海岸のところに寝たりしていました。

私は至近距離の弾で右足の裏がえぐりとられて歩けなくなり、腹ばいで動いていました。そうしたら、戦車がいっぱい押しかけてきて、住民と将兵が摩文仁の狭い海岸に追い詰められたわけです。(米軍の)戦車がすごい音を立ててきますから、泳げる人も泳げない人も海に飛びこんだんです。私も飛び込みました。

海の中で意識を失って、気がついたときには胸まで潮に浸かり、海岸で倒れていた。そういう形で、やっと生き延びたんです。

——そこで亡くなった人も多いわけですね

いっぱい亡くなりました。私たちは銃1丁と120発の銃弾と手榴弾2個を持たされて、戦場に出されたわけです。そのときに「絶対、捕虜にはなるな」「捕虜になるんだったら、この手榴弾を1個は敵に投げつけ、もう1個で自決しろ」と言われていました。学友たちがその結果、たくさん死にましたよ。


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