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「ラストエンペラー」溥儀の没後50年。波乱の生涯をふり返る(写真集)

晩年の好物は、日本の「アレ」だった。

2017年10月18日 16時13分 JST | 更新 2017年10月18日 20時18分 JST
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愛新覚羅溥儀(1906-67)

中国最後の王朝「清(しん)」最後の皇帝で、日本の傀儡国家「満州国」の皇帝となった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が61歳で死去してから、10月17日で50年を迎えた。

歴史に翻弄されたその数奇な運命を、写真とともに辿る。

■清朝最後の皇帝「宣統帝」として即位

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3歳頃の溥儀。

1906年、溥儀は清朝11代皇帝「光緒帝(こうしょてい)」の弟・愛新覚羅載灃(さいほう)の子として北京で生まれた。

時の最高権力者・西太后から皇帝に指名された溥儀は、1908年に紫禁城で12代皇帝「宣統帝(せんとうてい)」として即位した。この時、わずか2歳10カ月だった。

母親の元から引き離された溥儀は、ここで皇帝としての教育を受けた。

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紫禁城の正殿「太和殿(たいわでん)」。皇帝の即位式、元旦など祝日の式典,詔書の頒布など重要儀式が執り行われた。現存する中国最大の木造建築。

1912年、「辛亥革命」によって250年以上続いた清朝が滅亡。溥儀は皇帝の座を追われたが、革命後もしばらくは中華民国政府に紫禁城での暮らしが認められた。

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青年期の溥儀。

ところが1924年11月に事態は一変する。軍事クーデターの影響で、住み慣れた宮殿から退去を命じられてしまった。

溥儀は、家庭教師だったイギリス人レジナルド・ジョンストンを通じてイギリスとオランダに保護を求めた。ところが、革命後の不安定な中国への内政干渉を忌避した両国は、この要請を拒否した。

この時に溥儀を受けいれたのが、北京の日本公使館だった。

私は紫禁城の外の筒子河(トンツーホウ、紫禁城の堀)のほとりまで行って、角楼と城壁の輪郭を望見しながら思わず胸が熱くなった。私の目には涙があふれ、心のなかで固く誓った。いつの日か、かならず勝利した君主の姿でここへもう一度帰ってくるのだ。愛新覚羅溥儀『わが半生』

溥儀は、結婚したばかりの妻とともに日本公使館に身を寄せたのち、天津の日本租界へと移った。その胸中には、清朝再興への思いが湧いていた。

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正妻の婉容(えんよう、写真左)と手を取り合う溥儀

■清朝再興を夢見て、満州国へ

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<満州事変>柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団

1931年9月18日、「満州事変」が勃発。溥儀の人生は、ここでまた大きく転換する。

日本の関東軍は、瞬く間に中国東北部を占領。この地を中国本土から切り離し、新たな国家を建設しようと目論んだ。

関東軍が新国家の元首として迎えようと白羽の矢を立てたのが、清朝最後の皇帝・溥儀だった。満州の地は、清朝の発祥の地でもあった。

満州事変勃発から約2カ月後、日本側から奉天特務機関長の土肥原賢二・陸軍大佐が溥儀のもとを訪れ、満州へと誘った。

溥儀は清朝再興のために関東軍を利用しようと考え、また関東軍は大陸進出のために溥儀を利用しようと考えた。

こうして、清朝再興を夢見た溥儀は「玉座」を約束されて満州へと渡った。ところが、その実態は関東軍の傀儡だった。

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日満議定書。日本の満州国承認に際し、両国間で調印された。満州国は関東軍の実質的指導下におかれた傀儡国家だったが,この事実上の関係を成文化したもの。

1932年3月1日、中国東北部に「五族協和」「王道楽土」をスローガンとする「満州国」が建国され、溥儀は国家元首の「執政」に就任した。

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1932年3月、満州国の執政に就任した溥儀(中央)

■満州国の皇帝に即位

1934年3月、溥儀は関東軍との約束通り、満州国の「皇帝」となった。この時すでに清朝滅亡から22年が経っていた。

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満州国軍大元帥服を着用した溥儀(中央)

即位式にあたって、溥儀は清の皇帝のみが着ることを許された礼服「竜袍(ロンパオ)」を用意していた。

(前略)私は一人、栄志太妃が22年間保存していた竜袍を鑑賞していた。心のなかに感慨があふれてきた。これは光緒帝が着たものだ、本当の皇帝の竜袍なのだ。これこそ私が二十二年間思っていた竜袍なのだ。私はかならずこれを着て即位せねばならない、これが清朝再興の出発点だ。愛新覚羅溥儀『わが半生』より

だが、関東軍側は竜袍を即位式で着ることを認めなかった。あくまで溥儀は「満州国皇帝」として即位するのであり、「清の皇帝」として即位するのではないという立場からだった。

一方で、関東軍側も妥協を見せた即位式に先立ち、溥儀が先祖に皇帝即位を報告する伝統儀式「告天礼」の実施することや、儀式で竜袍を着用することを認めた。

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即位式に先立つ清朝伝統の儀式に臨む溥儀(右)。竜袍を着用している。

満州国の皇帝となった溥儀は、1935年と1940年の二度来日している。

1935年の来日は、溥儀にとって初の外国訪問だった。自伝『わが半生』によると、溥儀はこの時、絶大な権威を誇る昭和天皇の姿をみて、こう思ったという。

「天皇と私は平等だ。天皇の日本における地位は、私の満洲国における地位と同じだ、日本人は私に対して天皇に対するのと同じようにすべきだ」

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東京駅で握手する溥儀(右)と昭和天皇

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1935年、馬車に乗る昭和天皇(左)と来日した溥儀(右)。(Photo by Fox Photos/Hulton Archive/Getty Images)

溥儀は帰国後、国民に向けて詔書を発表した。そこには、こんな一文が記されていた。

朕日本天皇陛下と誠心一体の如し1935年(康徳2年)5月2日「回鑾訓民詔書」

■わずか13年で満州国は崩壊

満州国は、日本の敗戦とともに崩壊の道を辿る。

1945年8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を反故し、対日参戦。関東軍の主力はすでに満州にはなく、圧倒的なソ連軍の侵攻の前に、満州国はなす術がなかった。

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満州でのソビエト軍(1945年)

8月10日、関東軍は満州国政府の移転を勧告。溥儀たちはソ連軍から逃れるため、首都の新京(現:長春)を放棄し、南に向かった。

8月13日、溥儀の一行は朝鮮との国境にある小さな村、大栗子(だいりっし)に到着。ここが満州国臨時政府の首都となった。そして、満州国終焉の地となった。

1945年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」がラジオで放送され、日本は敗戦を迎えた。

3日後の8月18日。満州国政府は国家の解体と皇帝退位を決定。溥儀は、自らの退位を告げる詔書を読み上げた。建国から13年5カ月、ここに「満州国」は崩壊した。

溥儀は日本への亡命を図ったが、退位翌日にソ連軍に逮捕され、抑留された。

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ソ連軍に逮捕、抑留された溥儀。

■東京裁判では検察側証人として出廷
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極東国際軍事法廷のキーナン検事と会見する溥儀(朝日新聞1946年8月14日朝刊)

1946年8月、溥儀は極東国際軍事法廷(東京裁判)に検察側の証人として出廷した。

溥儀を戦犯として起訴しようとする動きがある中、溥儀は自らを日本の被害者であると主張した。当時の新聞記事には、溥儀の証言内容が記されている。

朝日新聞社
朝日新聞1946年8月20日朝刊

日本人は満州を奴隷化し、さらに中国、南方、世界をも奴隷化せんとした。三種の神器の剣と鏡を日本の天皇から受け取って帰った時は私一代の恥辱として家族も皆泣いた。溥儀の証言(1946年8月19日)
形式上は諮詢を受けたが、満州はすでに日本軍によって完全に占領されており、私は自由を持っていなかった。溥儀の証言(1946年8月19日)

また、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍の将校・吉岡安直中将の名前をあげ、「吉岡中将が紙に書いたものを私に渡し、それ以外を話すことを許可しない」などと証言した。

こうした証言について、溥儀は後に自伝『我が半生』の中で、ソ連軍の侵攻時に満州国軍に対し日本を支援するよう指示した事に触れながら、こう告白している。

「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」

■中国共産党による「思想改造」、最後は一市民に

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収容所での溥儀

1950年、溥儀の身柄は中国(中華人民共和国)に引き渡された。溥儀は撫順戦犯管理所で、満州国皇帝としての罪を告白し、中国共産党の思想を学ぶ「思想改造」を受けた。

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収容所での溥儀。

1959年、溥儀は特赦で釈放された。元皇帝の思想改造は、中国共産党の成果として喧伝された。

釈放後、溥儀は北京の植物園に勤務。その後、満洲族の代表として中国人民政治協商会議の全国委員に選出された。

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1961年、北京の植物園で勤務する溥儀。

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1961年、タバコを吸って庭でくつろぐ溥儀(中央)

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1965年、取材に応じる溥儀。

1967年10月17日、溥儀は腎臓がんによる尿毒症で死去。享年61。最後は一市民として、その数奇な人生に幕を下ろした。この時、中国は文化大革命の真っ只中だった。

病身の晩年に食べたいものを尋ねられると、溥儀は「日本のチキンラーメン」と答えたという。朝日新聞(2005年05月27日夕刊)は「素朴な味を好み、日本から送らせていたそうだ」と伝えている。

「チキンラーメン」を開発した日清食品の創始者、故・安藤百福(ももふく)氏は2000年7月、北京の故宮(旧紫禁城)を訪ねた際に「チキンラーメン」を玉座の前に供えたという。

溥儀の死から20年後、その生涯をベルナルド・ベルトルッチ監督が映画「ラストエンペラー」で映像化した。

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1987年、北京で「ラストエンペラー」の撮影に臨むベルナルド・ベルトルッチ監督。(Photo by Mondadori Portfolio by Getty Images)
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映画「ラストエンペラー」より。中央がウー・タオ演じる青年時代の溥儀。 (Photo by CHRISTOPHE D YVOIRE/Sygma via Getty Images)

イタリア・イギリス・中国の合作となったこの映画は、アカデミー賞9部門を受賞。坂本龍一氏が手がけた壮大なテーマ曲とともに、いまなお名作として語り継がれている。

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映画「ラスト・エンペラー」でラストシーンの舞台となった紫禁城・太和殿の玉座。ジョン・ローン演じる老いた溥儀が、玉座の後ろからコオロギの入った筒を取り出すシーンが有名。