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舛添都知事の問題とかけて、パナマ文書と解く、その心は ~日本的ナルシシズムの罪~

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母子の結びつきが強い日本社会においては、タテ社会の論理(中根千枝による用語)による抑圧が外れると、エディプスプレックスを構成する要素の中で、父殺しの欲求が果てしもなく強くなって、お父さんたちはただひたすら殺され続けるのかもしれない。

したがって、そのことが分かっている古手のお父さんたちは、ただひたすらタテ社会の論理を維持しようとする。もう、それが機能しない戦略であることは明らかなのに。日本社会に必要なのは、それに代わることができる、共有できる心理・社会システムを構築していくことだ。そのために、日本的ナルシシズムと私が呼ぶ古いシステムの「罪」を明らかにして、それを乗り越えることが必要だと考える人々が増えていくことが、私の意図していることである。

タテ社会の論理が機能しないからと、それを単純に否定しただけの日本社会は、残念ながら混乱と呼ぶことがふさわしい状況に陥った。ズルズルベッタリの関係性、無意識的な羨望やナルシシズムの病理が跋扈してしまう状況。父を殺すだけではなく、子の立場に留まる心地よさを断念し、父の立場を引き受けようとする人々が増えねば、社会は機能しない。(この場合の父は象徴的な意味で、生物学的な意味ではない。)

タテ社会の論理や、それと密接に関連している日本社会の伝統を、尊重するか反発するかという判断では浅い。それは、是々非々である。それよりも、深層の心理に目を向けることが、変化の時に対応するためには必要である。

お金に関する二つのスキャンダルが日本社会で話題になっている。舛添都知事の問題と、パナマ文書のことだ。私の感覚では、前者への熱狂は過剰であるし、後者の話題を忌避する姿勢も不適切だ。

この二つの話題について、心理的にどんな影響を与える話題であるのかを比較する。

舛添   話題になっている金額が、日常的な感覚で想像できる
     対象を攻撃しても、直接的な利害関係がある有力者を怒らせるリスクが少ない
     既存の慣れ親しんだ心理社会システムに乗ったままで感情を発散できる

パナマ  話題になっている金額が、日常的な感覚で想像できない
     うっかり攻撃すると、自分が直接的な利害関係のある有力者を怒らせるかもし
     れない
     既存の慣れ親しんだ心理社会システムそのものを、客観視して思考しなけれ
     ばならない
 
つまり、前者は空気にベッタリと依存したまま、日常生活の延長である思考と情緒の発散を行うことで対応できるが、後者は一旦はそこから身を引き剥して、抽象的で全体を対象とした思考を必要とする。

前者を全否定する訳ではない。しかしながら、後者のような精神的な課題について、いつまでも忌避しつづけていることは問題だろう。現代の日本社会において、災害への対応の不十分さや貧困問題、政治的な主体性を発揮できないこと、経済的な競争力が低下を続けていくことなどは、もはや機能しない心理社会システムをずるずると継続させていることに由来している面が大きい。

再三指摘されていることなのに、これを反復・継続するのは、もはや「罪」なのではないだろうか。

社会的な立場を引き受けることを忌避して全体に融解することで担保されるナルシシズムにおいては、心理的なズルが可能になる弊害がある。自分と誰かに共通する欠点―例えば経済的な貪欲さ―があったとして、それが非難される状況が生じた場合を考えよう。昨今では、古いシステムに同一化していることの罪が明らかになる事態が頻繁に生じている。そのことを意識化して考えることが望まれているが、その動きは弱い。

そこでその代わりに、無意識的・前意識的にではあるが、目立っている誰かにその罪をなすりつけて非難することで、自分は心理的にその点について無罪だと感じる心理的な利得を得て、課題を意識化すること・考えることを回避する姿勢が継続されている。そしてこれは、実際の社会的・経済的利益を確保することにもつながっている。

心地よい、全体へと個人を融解させる一体感の中で、攻撃性などの情緒を発散させる享楽は、ほどよい所で切り上げねばならない。社会的な立場を引き受ける覚悟を持った個人が連携することによる共同体の再建が望まれている。

現在の風潮が続けば、力のある個人は、社会のオモテに出て象徴的な役割を引き受けることをますます避けるようになるだろう。そうして、社会的な立場を引き受けることを最小限にして、ウラの無名のシステムの一部へと自分を融解させ、経済的な利益の確保をはかる傾向が強まるだろう。その流れの現れの一部が、パナマ文書である。これが続けば、社会の凝集性は失われる。