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ナルシシズム(自己愛)の用語を使用することについての説明

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私は文章を書くときに、頻繁に「ナルシシズム(自己愛)」の用語を使っている。小論では、そうしていることの意図について説明したい。

まず明らかにしたいのは、一連の文章には特定の個人や集団・団体を攻撃する意図がないということ、そして、ナルシシズムは必ずしも否定的な内容だけを含むものではないということである。ナルシシズムの満足を得るために、人は困難な使命や運命を担い、厳しい鍛錬に耐えることができる。例えば三島由紀夫は、日本的なナルシシズムを体現している人物の一人である。しかしそういった言説を用いることは、三島由紀夫の人物や文学作品を貶めるものではなく、かえって三島由紀夫によって日本的なナルシシズムという概念が持つ内容が豊かにされている。

また、私がナルシシズムの語を用いる時には、これを通俗的な用法ではなく、精神分析学を参照しつつ可能な限り学問的に正確に使用することを心がけている。現状において私が文章を書く主な目的は、時代の転換期にあって危機にある日本社会の問題を心理学の分野から明らかにし、それへの有効な対応策を考えることである。その目的を達成するためには、日本社会・文化と一体化している日本語の内部だけで思考をめぐらせることのみでは困難である。

それと比べるとナルシシズムは、いかにも日本語の文章の中においた時に落ち着きの悪い、不自然な用語である。そしてこの不自然な用語は、世界的に一定の評価を得ている精神分析学の理論体系(これは基本的には日本語で書かれていない)と接続している。このような言語を用いて問題を考えてみることで、日本語内部の言説だけでは開かれなかった文脈が開かれ、新しい行動の可能性が見いだされる。

人間のこころが従う原理には、現実原則と快楽原則の二種類があることを精神分析学の創始者であるフロイトは指摘した。理性の働きは、現実を認識した上で合理的な判断を行うことである。このように理性的な人間が、近代人の模範であった。しかし、フロイトが見出したのは人間が必ずしも現実原則にのみ従う生き物ではないということだった。無意識が存在して活発に働き、それが全体的な状況を考慮することなく快楽原則を優先していること、つまり性欲などの欲求を満たすことが重視されていることを明らかにすることで、人間理解の一つの方法が開かれた。フロイトの学説は当初、近代人の誇りを傷つけるものとして、おおいに批判された。

ナルシシスティック・パーソナリティー(自己愛性格)とは、現実原則よりも、自分のナルシシズムの満足を優先させてしまうようなパーソナリティーである。このように表現すると、図々しい周囲の人の気持ちに鈍感なタイプの人を想像される方が多いだろう。それも間違いないのだが、それとは逆の繊細なタイプのナルシシスティック・パーソナリティーの人々もいる。日本人を含めたアジア人ではこちらの繊細で敏感なタイプの方が多いと考えられている。このような人は、周囲の人から共感的な情緒を多量に向けられないと、人間関係の場で「自分が支持されていないのではないだろうか」という不安や緊張が容易に高まり、混乱した末に本来持っている精神的な機能が発揮されなくなるような脆さをこころの中に抱えている。

つまり、ナルシシズムの発達が悪い場合には、情緒的に複雑な状況に置かれた時に冷静に考えることができなくなり、現実原則に則った判断を行うよりも、自分のナルシシズムを守るための言動を無意識に優先してしまうのだ。問題を回避する反応が、もっとも容易なものであろう。

残念ながら、現代の日本社会ではナルシシズムの発達が阻害されやすい。そのために、社会的にも個人的にも、なかなか成果が上がらない本当に困難で重要な問題に粘り強く取り組める人が少なくなり、ある程度成功の見通しのついている課題の反復や、他の成功事例がある内容に安易に乗っかるような仕事の仕方が優勢になっている。長期にわたって目に見える形でナルシシズムの満足が与えられないことに耐えられないのだ。そのような精神状況がさらに悪化すると、仕事の内容を偽装することも横行するようになるだろう。

かつての日本社会には、個人の素朴なナルシシズムの発露を社会が矯正してそれを成熟へと導く一貫性が備えられていた。しかし残念ながら、さまざまな現場がそのような懐の深さを失ってしまったように思える。集団全体としても、ナルシシズムの病理が深まっている。

精神分析学の中のクライン派の人々の学説を参照したい。ビオンというインドで生まれ育った英国人の精神分析家は、人間が考えることができなくなるこころのあり方について、「排除」と「道徳的な万能感」というふたつのメカニズムを報告した。どちらも、自分のこころに苦痛を引き起こす現実とまともに取り組むことを不可能にする。(このことについては、後に触れるコフートの議論とともに別の機会に紹介したことがある。「コフートの自己心理学とビオンの「考えることの理論」」)

現在の日本は、国の抱える負債や少子高齢化、沖縄の基地問題に代表される国防や外交の問題、原子力発電の是非などのエネルギー政策、東北の震災復興など多くの課題に直面しているが、残念ながら国民一般がそれらと現実的に取り組んでいるとは言えない。民主主義の社会においてこれらの問題が解決されるためには、国民一人一人の主体的な意思決定が重要であるが、その根本となるはずの個人の思考が、多くの場合に、ナルシシズムの脆弱さ等の事情に翻弄されて個人としての意見の形成にまで達していない。

道徳的な万能感についてビオンは、それを現実的な判断を道徳的な断定に置き換えることであると説明した。なかなか解決できない問題に直面し、葛藤をこころの中に抱え続けることはとても苦しいことだ。ナルシシズムが未成熟な場合には、そこで強い無力感を抱く。自分の不安を直視できないままに、「意識的に決断して能動的に実践する自分でありたい」という心理的なニーズを満たすことが主な目的となってしまった性急な行動には、問題が生じやすい。さまざまな学習を行うことを欠いたまま、自分の慣れ親しんだ道徳的な判断を反復してしまう。特定の団体や個人を貶めて批判したり、逆に理想化・美化したりすることが頻出するようになる。私は現在、東日本大震災後の福島県で原発や放射能と関連した問題に接することが多いが、道徳的な万能感に影響された思考に出会うことは少なくない。

実はビオンが「道徳的な万能感」を語った時には、キリスト教などの信仰心への批判が含まれていた。信仰が人間を強くするのは事実であるが、教義のなかに人のこころを閉じ込め、現実に取り組むよりもキリスト教の教理の実現が求められるような文化の傾向が高まることを、ビオンはこころよく思ってはいなかっただろう。しかし、日本人が道徳を強調して語る時には、教条的なキリスト教徒たちの間違いと同じような失敗をしているのではないだろうか。

私の著述の目的は、日本社会におけるナルシシズムの問題を明らかにし、そのことに意識的に取り組むことの重要性を訴えることにある。ナルシシズムの問題を取り扱うことを通じて、国全体として、日本が直面しているさまざまな困難な課題に正面から考える力が向上することに貢献できると考えている。

コフートという精神分析家は、クライン派とは別にナルシシズムについて探求した。コフートが強調したのは、ナルシシズムが人の生涯を通じて成熟していくという点である。未熟な段階にあるナルシシスティックなこころでは、何でも自分の思い通りになるような万能的な空想と結びついた誇大的自己が中心にあるが、これが共感的な環境の中で、適度な欲求不満をくり返し経験することで磨かれていく。こころの中の誇大な自己の裏側には、無力感や虚無感を抱えたきわめて卑小な自己についての表象が存在し、多くの場合に見えないまま強大な影響力を発揮している。万能感と結びついた主体に賞賛を与え続けるような世界についての空想も、虚無感に呑み込まれた主体を迫害し続けるような世界についての空想も、どちらも現実ではない。経験を通じて徐々に、自分のナルシシズムと結びついた空想に沿って周囲の世界を変えようとするこころの働きが弱まり、現実に即して周囲と交流を行うこころの働きが活発になっていく。誇大な極と卑小な極の距離は近づき、一貫した責任を担える主体となっていく。

しかし危惧されるのは、現代の日本社会でこのようなナルシシズムの成熟が行われる経験の場が得られにくくなっていることである。過剰な共感と管理された先回りした満足が与えられる空間と、突き放され放置され迫害されるような空間の落差が大きくなっているのではないだろうか。そのような状況では、精神的なトラウマとなりかねない空間に出ることを回避し、管理され保護された空間に留まろうとする心性が優勢となりやすいが、その場合にはナルシシズムの成熟を期待することが困難となる。

個人の水準でできることは、可能な限り自分の本当の言葉、本当の考え、本当の願望、本当の感情を表現することだろう。簡単ではないが、それらは試みる価値がある。何らかの応答があって、誇大的な部分は削られ、卑小な部分は支えらえるだろう。遠回りに見えても、そのような実践が数多く行われるようになることが重要である。

社会の側からは逆に、真情を表現するような個人を共感的に受け止める空間をいかに確保するかが問題となる。経済効率ばかりが追及されたり、性急に成果が求められたり、道徳的な教化が目指されたりするのではなく、個人がその個人としてあることが尊重される場が開かれることが求められている。

このような経験を通じて、ナルシシズムが成熟へと向かうことが可能となる。

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