コフートの自己心理学とビオンの「考えることの理論」

現在の日本では、東日本大震災と原子力発電所の事故に十分に対応できていないこと、経済大国として地位が揺らいでいることなど、さまざまな社会問題が頻発している。その中で考えねばならないのは、日本人のナルシシズムが大いに傷ついているという可能性である。

現代日本における意識の分裂について(3)

予備論としてのメタサイコロジー(ii)

コフートの自己心理学とビオンの「考えることの理論」

精神分析家であり、集団精神療法の発展に大きな功績を残したビオン(1897-1979)には、「考えることの理論」と題された初期の論文がある。これは、人間の考える力の発達を、環境との相互作用の観点から理解しようと試みたものである。

私たちのこころの中に、何か異質で強力なものが侵入してきたとしよう。そこで私たちのこころは圧倒され、さまざまな否定的な感情や破壊的な空想が刺激される。そのような時に適切な他者が現れ、自分にとって異質で圧倒する体験の意味するものを告げたとしよう。もしその解釈が真実であった場合には、私たちが曝されている体験の圧倒する性質が緩和され、その異質な体験への対処法を考えることが可能となる。

その上で、次に同様な体験に曝された時には、それはもはや異質なものではなく、前回以上に落ち着いてその体験の中で考えることができる。このような形で、ビオンは人間の考える能力が発達していくと想定した。

例えば、泣き叫ぶ幼児は、自らの空腹や尿意の意味を理解できず、身体的な欲求が満たされたり発散されたりしないことから生じる緊張の高まりから、破滅的な空想が呼び覚まされている。ここで幼児の不安に対処する力を十分に持つ母親は、適切な対処法を選択することで、幼児の不安を抱え込んでそれを宥めることが可能となる。このような体験をくり返す中で、幼児は自らが曝される欲求不満について考えられるようになっていく。

精神分析家が分析場面で与える解釈とは、本来はそのようなものである。隠された病理を暴き立ててクライエントを告発し、その精神性の価値を貶めようとするものでは決してない。むしろ、圧倒される苦痛に満ちた体験について、ある種の立場からの解釈を加えることで、それについて自ら考えることを可能とし、その内容の破壊的な性質を緩和することができる。

ナルシシズムの発達が未熟であるとは、「自分」のこころのまとまりを維持するために、美しい自分についての想像的な像(イメージ)に強く依存する精神性を意味している。本当の意味でナルシシズムが十分に発達している時には、他者から自分についての否定的なイメージを投影されたとしても、そのことが強い不安をひき起こすことはなく、冷静にそのことについての対応を考えることができる。

それとは逆に、ナルシシズムの発達が悪い時に、他者から否定的な投影を受けることは破壊的な不安をひき起こす。精神分析家のコフートは、ナルシシズムの発達が脆弱な個人が、それの揺るがされた時に感じる苦痛に満ちた感情を記載し、「ナルシシスティックな患者は、失策を思い出したとき,過度の羞恥と自己嫌悪の感情で反応しがちである。彼は、何度も何度も苦痛の瞬間にたちもどって、その出来事の現実性を魔術的手段で除去しようとする。つまり、取り消しを行う」「緊張に直面した子供の心が再構成されている」「そういう状況のもとで一人の子供が緊張を追い払ってくれる大人を求めている」と論じた。

私は自分の論を展開する中で、「日本的ナルシシズム」と語る内容をこのようなものに限定し、真に成熟した「日本的な誇り」とは区別していきたい。ナルシシズムの病理は難治で、長期化する傾向がある。しかし欲求不満が適切な範囲内に収まる場合には、そのナルシシズムは次第に成熟していく。

「ナルシシズム、つまり自己の備給という主題はきわめて広汎かつ重要である。それは人間の精神の内容の半分をさしているといってもさしつかえない」とコフートは論じた。ナルシシズムは人の生涯を通じて発達を続ける。

ナルシシズムの発達が悪い時に、私たちは自分や自分が一体化した対象の価値が傷つけられることによって、大変に苦痛に満ちた情緒を体験する。そして、その場合に苦痛の中心が自らのナルシシズムの傷つきであることが理解できず、否定的な像を外界に投影してそれに破壊的な感情を向けることとなる。そのことが実際に行動として発散された場合に、憎悪に満ちた行為は破壊的な結果をもたらすことがある。精神分析では、うつや自殺の問題に、このような攻撃性が内向して自らに向かう機序の関与を想定している。

現在の日本では、東日本大震災と原子力発電所の事故に十分に対応できていないこと、経済大国として地位が揺らいでいること、国際情勢の中での相対的な地位が低下したこと、さまざまな外交問題に曝されていること、特に過去の戦争の責任問題について隣国から強い告発を受けていること、国内でも少子高齢化の問題等が解決できないことなど、さまざまな社会問題が頻発している。その中で考えねばならないのは、日本人のナルシシズムが大いに傷ついているという可能性である。

そして、その体験の中で私たちはどのように反応しているのであろうか。

ビオンの「考えることの理論」に戻ろう。ビオンは乳幼児が欲求不満と出会った時に,その状況を「考えることの装置」が発達するか否かは,その乳幼児が欲求不満に耐える力があるか否かに関わっていると考えた。乳幼児に十分な欲求不満への耐性が備わっている場合には,この乳幼児は自らの置かれた苦痛に満ちた状況について現実的に考えることができる。その状況を耐えやすくするような行動を選択しながら,考えることの装置はさらに発達していく。

耐性が著しく不足している場合に行われるのは、欲求不満をもたらす対象のこころからの「排泄」である。こころの中のモヤモヤについて考えられることはない。それは、速やかにこころの外に排泄されることのみが求められるような悪い対象となる。このような幼児的な心理機制をクライン派の精神分析では「投影同一視」と呼び、自己と他者が別の存在であることが分からなくなっているこころの状態であると考えた。

それよりは欲求不満への耐性が発達している場合には、「道徳的な万能感」が発達するとされた。一つのことを道徳的に良いとして他のものを悪いとする独善的な断定が葛藤場面で頻繁に行われ、真と偽との判断はなくなってしまう。ビオンは道徳的な万能感には、現実を否認する精神病的な側面があると考えた。

こころの「考える」能力が破壊され、それが排泄と投影を行うだけの装置のようになってしまうことがありうる。これは、とても危険な兆候である。

集団では個人よりも心理的な退行現象が起こりやすい。そして、集団のナルシシスティックな性質が強くなっている場合には、「排泄」や「道徳的な万能感」が頻繁に現れることとなる。例えば原子力発電所事故後の、日本人の福島の問題についての連想はどのようなものだっただろうか。

現地にいない人々にとって、「放射能」の話題は未知な不気味なものであろうし、「原子力発電所」の事故とその後に起きた一連の出来事は、日本人としてのナルシシズムを傷つける出来事であった。したがって、これをこころの中から「排泄したい」、つまり、無かったことにしたいという無意識的な動きが生じることは、容易に想像できる。オリンピックの誘致などには、ナルシシズムの傷つきから生じた日本人の欲求不満を和らげつつ、一つの「良い日本」についての空想の機能を高めることで、現実から目を逸らさせる心理的な効果もあっただろう。

道徳的な万能感にかんしては、二つの対照的な「道徳」からの投影が福島の地に行われることがありうる。一つは、「反原発」の立場からであり、もう一つは「原子力発電所などを擁護して日本の経済的な競争力を維持することが善」とみなす立場からである。両者は反対のように見えて、同じ性質を持っている。どちらも外部からの投影を押し付けることを通じて、必ずしも現地の負担を減らしてはおらず、本当の意味で被災者のことを「考えていない」。

付言すると、「可哀そうな傷ついた人々を助ける」という投影が過剰なのも、空想が優位なこころの働きなので、現地での援助の在り方を歪めることがある。このような思いが強すぎる支援者は、「被災者の可哀そうでない姿」に接した時に、過剰に傷ついたり失望を感じたりするようになる。

靖国神社をめぐる諸々の出来事にこの解釈を適応することから、いろいろと連想は広がるのであるが、今回はそれについて論じることは控えることとする。

ここまで「日本的ナルシシズムという精神病理」ばかりを記載してきたが、過剰に不安になる必要はない。こういう所に焦点を当ててしまうのは、精神科医の悪癖かもしれない。現地にはしっかりと考える被災者がいるし、しっかりと考えてそれを応援する支援者たちがいる。日本人の素晴らしさを信じよう。

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