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「ロヒンギャ問題」で問われる「スーチー責任論」より大事なこと--樋泉克夫

国家指導者である彼女には、もはやポピュリズムは許されない。

2017年09月24日 16時09分 JST | 更新 2017年09月24日 16時09分 JST

ノーベル平和賞剥奪要求からはじまり、グテレス国連事務総長の「民族浄化と形容するよりほかに適切な表現なし」との発言まで、仏教徒が圧倒的多数を占めるミャンマーにおける少数派イスラム教徒ロヒンギャ族の取り扱いに対するミャンマー政府当局の対応、わけても国家顧問兼外相としてミャンマー政府を率いるアウンサン・スーチーに対する国際的非難の声は高まる一方である。おそらく当分は収まることはないだろう。

イギリス植民地政策の犠牲者

ミャンマー国内で約100万人を数えるといわれるロヒンギャ族は、数年前から隣国のタイやマレーシアへ海路による脱出を繰り返してきた。宗教弾圧が原因だという。今回の陸路での脱出によって、西隣のバングラデシュに逃げのびた数は40万人前後と見られる。

今回の難民としての大量脱出を引き起こした直接的な原因は、8月25日の西部のラカイン州における総勢1000人ほどのロヒンギャ族武装勢力(アラカン・ロヒンギャ救世軍=ARSA)による国軍や警察施設などへの襲撃事件にあるとのことだ。

そもそもロヒンギャ族は国境を挟んだ西隣のベンガルの地を故郷とし、イギリスによる植民地政策の下に19世紀から20世紀初めにかけ現在の地に移り住むこととなったイスラム教徒であり、彼らの中には、第2次世界大戦中、日本軍によるインパール作戦に協力した者もいるようだ。大戦後、イギリスが彼らの法的立場を明確にしないままにミャンマー(当時はビルマ)の独立を認めた。

以来、彼らの法的地位は曖昧なままであり、ミャンマー国籍を与えられていない者も少なくない。ミャンマー政府は一貫して彼らを不法移民と見做す一方、1972年にバングラデシュ政府は彼らへの難民資格付与を拒否している。つまり、ロヒンギャ族はミャンマー国内の他の少数民族と同じように、イギリスの植民地政策の犠牲者と見做すことが出来るだろう。

もともとイギリス植民地政府は、仏教徒である圧倒的多数のビルマ族、中国との国境寄りの山岳地帯に在ってキリスト教を信仰するカチン族やワ族などの少数民族、それに西南部に位置するイスラム教徒のロヒンギャ族など、彼らを分割統治することで円滑な植民地行政を狙った。

この民族と宗教の対立構図が解消されることなく現在に続き、それゆえにミャンマーは統一国家としての実態を欠いたままに現在に至っている。軍事独裁政権は力によって少数民族を押さえ込み、統一国家の体裁を保ってきたが、民主化によって誕生したスーチー政権では、力を行使することは当然のように許されそうにない。そこで少数民族が自らの権利を要求することとなり、国家としての求心力は低下することとなった。

国家再建のためには、先ずは国内的統一を目指すべきか。それとも民主的政治を掲げ個々の民族の独自性を尊重すべきか――。この点に国家指導者となったスーチーの苦悩があるといえるだろう。

「あのスーチーが......」

今回の事件発生のはるか以前から、ラカイン州ではモスクなどイスラム関連宗教施設は閉鎖されるなど、イスラム宗教活動監視を含む厳重な警戒態勢が布かれていた。にもかかわらず、襲撃事件が起きてしまった。そこで、面子を潰された形の治安当局が強圧的な掃討作戦に乗り出したのではなかったか。

であればこそ、国家指導者としてのスーチーに対して国際的非難が集中することになるわけだが、その背景に、長年ミャンマーの民主化のために戦った「あのスーチーが......」という"大いなる落胆"があることは否めない。可愛さ余って憎さ百倍、である。

一部に伝えられるように、国際的なイスラム過激派アルカイーダが本格介入するような状況が発生した場合、さらに事態は紛糾し、ミャンマーにおける国内問題の域を超え、国際問題へとエスカレートする可能性も否定できそうにない。他にも数多くの重大な少数民族問題を抱えていることからも、ミャンマー政府当局としては早急に事態を収拾させる必要があろう。

ロヒンギャ問題の取り扱い如何では、スーチー主導で進められてきた中央政府との和平交渉に応じない少数民族が、武力闘争を活発化させる事態も充分に予想される。それゆえに、国際的にも今回のロヒンギャ問題を過度に感情的・情緒的に捉え批判することは厳に慎むべきだろう。海外からの過度の批判がスーチー政権を窮地に追いやり、軍政復活につながりかねないことも考慮しておくべきだ。

"ないものねだり"

ここで考えたいのは、彼女を取り巻く政治的環境の激変である。

実のところ、彼女はすでに軍事独裁政権に敢然と戦いを挑んだ"民主化のジャンヌダルク"ではない。いまや憲法で保障された国家の最高指導者である。最高権力者としての彼女の振る舞いは、そのままミャンマーの命運を左右する――この点を、明確に確認しておく必要がある。

現在の国家指導者としての彼女の置かれた内外環境を大雑把に整理するなら、隠然たる政治的影響力をチラつかせる国軍に対峙する一方、圧倒的国力差を持つインド(西)、中国(北・東北)、タイ(東)と国境を接する対外環境に置かれながら、広大な国土に住む貧しい国民の生活向上を図らなければならない。

現実的には、先ずは諸外国からの援助を受け入れての経済開発ということだろう。同時に、圧倒的多数のビルマ族と少数民族との間に繰り返される複雑多岐な民族問題、わけても中国と国境を接する一帯に居住し、独自の武装組織を擁して分離独立を求め、国軍との軍事衝突が絶えないカチン族、カレン族、ワ族など少数民族との和解問題――ということになろうか。

であればこそ、現在の彼女に、時に手厳しく軍事独裁を批判し、時に軍政の弾圧に耐え民主化のために奮闘した、かつての颯爽たる姿を求めるのは酷、敢えていうなら"ないものねだり"というものだ。

"民主化ミャンマー"の船出

ビルマ社会主義計画党(BSPP)を率い、仏教社会主義という独自のイデオロギーと徹底した鎖国によって国を運営して来たネ・ウイン独裁政権(1962年~88年)以来、国家法秩序回復評議会(SLORC)、国家平和発展評議会(SPDC)などと名称は変わったものの、ミャンマー(ビルマからミャンマーへの国名変更は1989年)では、一貫して国軍中枢による「ワースト・ガバメント(最悪の政府)」による「ナイセスト・ピープル(最高の人々)」に対する強圧的な統治が続いてきた。

この構図が変化したのは、2011年2月から3月のこと。最高権力を握っていたタン・シュエSPDC議長(当時)がSPDCの解散を命じ、その直前(2月)に同議長側近の1人だったテイン・セイン首相が大統領に就任し、軍政が進めて来た7段階に及ぶ民主化へのロードマップを終了させる形で民政移管が行われた。西側からは歓迎された民政移管だったが、その後の経緯を考えるなら、一連の措置は拙速の謗りを免れないように思う。

大統領就任を機に、テイン・セインは中国との間で進められていたミッソン・ダム建設を環境問題を理由に中止するなど、タン・シュエ議長時代の親中路線を大きく変更し、中国の"頚木"を離れ、親欧米路線を歩き始めたかのような印象を内外に与えはじめた。それゆえに、日本でもメディアは挙げて「アジアの最後のフロンティア」ムードを煽り、官民共々にミャンマー詣でに励んだものだ。

そして2011年末には、軍事政権にとっては最大の政敵であったスーチーとクリントン米国務長官の会談を認めた。2012年に入るや、補選を経て晴れて国会議員となったスーチーが欧米をはじめ諸外国に出掛け派手に振る舞う一方、国内では、軍事政権の残党然とした保守派が政権中枢から追い払われた。まさに"民主化ミャンマー"の船出に相応しいパフォーマンスである。

発生した「大問題」

テイン・セイン政権の一連の動きをアメリカが歓迎したからこそ、EUもまた2012年2月に入って大統領らミャンマー政府高官のEU域内渡航禁止を解除し、やがて同年11月には、現職アメリカ大統領としての初の訪問がオバマ大統領によって実現することとなった。2013年5月になると、安倍晋三首相は鈴木修スズキ会長兼社長ら経済人を伴ってミャンマーを公式訪問している。

2014年には、ミャンマーはASEAN(東南アジア諸国連合)議長国として名実ともに地域社会への復帰を果たし、2015年11月の総選挙でスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が圧倒的勝利を納める。その結果、彼女の大統領就任を禁じた憲法の条文を"超法規的に封印"し、2016年4月、彼女は国家顧問兼外相に就いて最高権力者の位置を獲得するに至った。当然のように、彼女が率いる"新生ミャンマー"への期待が内外から一気に高まる。だが、ここで大問題が発生した。

彼女には民主化闘争の経験はあるものの政治の実務経験がなく、ましてや巨大与党NLDに所属する議員の多くは"スーチー・チルドレン"にすぎない。敢えてスーチー政権と与党の関係を形容するなら、政治の素人の寄せ集めだったのだ。スーチー政権下のミャンマーの政治はポピュリズム政治対プロ政治ということになる。これでは長い統治経験を持ち政治的手練手管に長けた国軍を押さえ込むことは容易ではない。国民の目から見ても、権力闘争の帰趨は明らかだ。

かくてスーチー政権は、否応なく国軍寄りの政治スタンスを取らざるを得ないことになる。

優先すべきは国内安定

こういった経緯を踏まえるなら、二律背反的な国内問題――少数民族の人権か、国家の統一か――を前にしたスーチーの対応は"理解"できるはずだ。

かりに国際的批判に押されてロヒンギャ族の要求を全面的に受け入れるなら、おそらくは国内の他の少数民族、殊にカチン族やカレン族、ワ族などによる分離独立要求は一気に燃え上がることになり、国内対立は激化し、ミャンマーの国家建設は烏有に帰す危険性は高まる。となると、彼女が掲げて戦い続けてきた民主化などは、夢のまた夢に終わるに違いない。

国家指導者である彼女には、もはやポピュリズムは許されない。否、ポピュリズムで現状を糊塗し問題を先送りする余裕はない。なによりも優先すべきは国内の社会経済建設であり、外国の技術と資本による道路・港湾・電力・水・工業団地などインフラ建設だろう。ならば政権としての最優先課題は、国内的安定に行き着くはずだ。中国における鄧小平以来の経済発展が示すまでもなく、外国からの投資を呼び込むためには国内の安定を急がなければならない。カンボジアにしても、フン・セン政権に対する評価は別にして、政権の長期安定化が外資導入を促し、目覚ましい経済発展に繋がっていることは否めないだろう。

「悪魔に心を売った職業が政治家だ」とはマックス・ウェーバーの言葉だったように記憶するが、おそらく今、スーチーは、民主化を掲げ国軍独裁政権との戦いに立ち上がって以来の、最も困難な局面に立ち至っているはずだ。

カウンター・パートは習近平

現在のミャンマーを取り囲む政治的・経済的環境を考えた時、理想的には民主国家のインドとの連繫ということになろうが、たとえばインパールの手前に位置する両国間最大の国境貿易拠点のタム(インド側はモレ)をみても、関係者の話を総合すると、日用雑貨程度が取り引きされているだけ。中国との国境貿易拠点に当たるムセとは比較にならないほどに小規模であり、ミャンマーの経済建設を牽引することは不可能との見方が強い。

タイ最大の建設集団である「イタルタイ」が手掛けた南部のダウェー工業団地建設も遅れ気味だ。であればこそ、同工業団地を軸とするダウェー経済特区が予定通りに稼働する保証はない。バンコクでは、タイ企業の腰が引け出したとの声も聞かれる。

日本企業をみても、民政移管からスーチー政権発足前後のあの熱気は感じられない。トランプ政権のスタンスは明確ではなく、それゆえ欧米企業の動きも限定的とみて間違いなかろう。

こう俯瞰してみるなら、経済開発による国家建設を第1とするなら、スーチー政権にとって最も可能性あるカウンター・パートは習近平政権ということになるはずだ。おそらく、そのことを熟知していればこそ、中国側は攻勢を続ける。

政権掌握以来、スーチーが迎えた中国側要人を挙げると、王毅外交部長(2016年4月)、耿恵昌国家安全部長(2016年7月)、宋濤中共中央対外連絡部部長(2017年8月)と、外交・安全関係の中心人物らである(ただし、耿氏は2016年11月に更迭されたとみられている)。

宋部長は、昨年8月には現在もなお国軍内外に強い影響力を持つとみられているタン・シュエ元SPDC議長とも面談していると伝えられるが、やはり注目したいのは、中国との国境寄りの一帯で分離独立を目指す勢力への中国側の働き掛けだろう。2016年7月末には、孫国祥外交部アジア事務特使がカチン族を中心とする勢力と接触しただけではなく、最大の武装組織を持つワ族連合軍(UWSA)を含む少数民族武装勢力に対し、ミャンマー中央政府との停戦協定締結を説得しているとの報道すらある。