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「3.11」から6年の「被災地」「原子力村」「日本社会」--吉野源太郎

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6年前の3月11日、東日本大震災の被災地でも何人もの新しい生命が誕生した。元気に育った当時の赤ちゃんたちは、今春からもう小学生だ。

真新しいランドセルを背負い、桜の下ではじけるような笑顔を見せるであろう彼ら。だがあの日、親の腕に抱かれ、寒風の下がれきの中をさまよった子供たちのすべてが故郷の小学校に入れるわけではない。

被災地全体ではなお、2500人余りが行方不明のまま。生き残った人たちも多くが、今も続く過酷な暮らしに耐えている。なかでも東京電力福島第1原子力発電所の放射能汚染が深い傷跡を残す福島県では、県内11市町村に出された避難指示で8万人以上の住民が住んでいた土地を離れ、8市町村約5万6000人が6年たった今も、故郷に帰れないでいる。

彼らは何の罪も責任もないこの不条理な運命を引き受け、その2割以上がすでに帰宅をあきらめて避難先に定住しようとしているという。

その一方、事故を引き起こした東京電力は、依然として「健在」である。企業としてはすでにその態をなしていないが、それでもいまだに経営陣の罪や企業責任が確定しているわけではない。業務上過失致死傷罪で強制起訴された勝俣恒久元会長ら旧経営陣3人の裁判は、争点を絞り込む公判前整理手続きの第1回期日がようやく今年3月29日と指定されたばかりだ。


「廃炉専門会社」という"新規事業"

東電に限らない。東電を柱とする「原子力村」の姿は、6年の歳月を経ても、ほとんど変わっていない。全国の原発では着々と再稼働に向けて準備が進む。

「村」の筆頭下請けを務めてきた東芝は、歴代経営者がしでかした大失敗のせいで実質債務超過に陥り、東証2部落ち寸前だが、それでも倒産して「村」からはじき出されたわけではない。それどころか、多くの国民には信じられないことだが、東芝は事故のおかげで半永久的に「事業」の財源を保証されて生きていくというのだ。

東電が公開した廃炉作業の映像をテレビで見た視聴者は、冗談のような光景を目にしたはずだ。汚染のひどい原子炉の中の様子をロボットで撮影するとの触れ込みで行われたこの調査は、ロボットが何かにつまずいたのか、中止となってしまった。その様子を伝える映像では、ロボットの横腹に「TOSHIBA」という文字が書かれていた。それはこの期におよんでなぜか誇らしげにさえ見えた。

廃炉作業には公式発表で今後8兆円の費用が見込まれるという。しかし、内部の様子さえ皆目わからないのにこの数字で収まると信じる者はいない。廃炉という名の「事業」は今後、何年かかるのか、最終的にどれほどの費用がかかるのか。いったいどうやってその原資をひねり出すのか。

最終的に電力料金に上乗せするのか、それとも何らかの特別会計を設けて補てんするのか。あるいはチェルノブイリ原発の先例にならって、直接税金を投入し石棺か水棺といった方法をとるのか。「村人」たちにそれを聞いても、あいまいな答えしか返ってこない。

どうせ最後は誰も生きていない将来のこと、という気楽さもあるのだろう。原発事故の始末の前に、廃棄物の中間貯蔵施設の場所さえ決まっていない今、そんなことはどうでもいい、東芝に任せておけばいいのだ......。

収益の柱である半導体と医療機器部門を売り払うこととなった東芝にとっても、これは渡りに船の話である。非稼働中のものも含めて原発の保守管理は現在の東芝の残された重要な収益事業。廃炉はその延長線上にあるとみるのは自然な考え方である。それが「廃炉専門会社」という"新規事業"に展開するのなら、生き残り策としては上等というわけだ。


「国策民営」という意味不明な存在

それより今の「村」の関心事は、目先の問題だ。原発を一刻も早く再稼働させ、「表面的」にはしっかり利益をひねり出せる仕組みをつくらねばならない。その主張には、従来にもまして真剣な空気がにじむ。東芝問題であぶりだされた今日の状況は、今までになく深刻だという危機意識が「村」の内部に生まれつつあるからだ。

東芝の経営破たんの原因は、単に同社がウエスチングハウス(WH)という腐ったババをつかんでしまったことだけにとどまらない。

今回の事態は、東日本大震災後の社会的空気の中で、会計処理上、原発の管理コストが否応なく増えていかざるをえず、その結果、原発の収益性が今後どんどん低下していきかねないという、電力会社経営の根本に横たわる財務上の問題から発生した。つまり、東芝問題の本質は、そのまま電力会社自身の問題なのだ。

あらゆる企業は安全対策と事業の収益性・経済性が均衡するところで投資コストを決める。その均衡を守ることが経営の規律になる。そうした均衡を念頭に置いた経営を行わず、その結果、安全上の問題が表面化すれば、巨額の損害賠償費用負担を強いられるばかりか企業の社会的信用も失墜する。

傾きマンションを建設販売した三井不動産レジデンシャルや旭化成建材、自動列車停止装置の設置を怠った西日本旅客鉄道などの事例は記憶に新しい。これらの企業では過去にさかのぼってまで規律を欠いた経営の責任が問われ、謝罪を迫られた。

ところが、電力事業は、安全と経済性をバランスさせるこうした発想をはじめから持たなかった。「国策民営」という、資本主義社会では例外的、あるいは意味不明な存在であることを自認した結果、企業としての規律が失われたといってもいい。


「村」から流出した猛毒

このような傾向は「村」の他の住人たちにも多かれ少なかれ共通していた。今回の東芝問題もその典型である。工期が延びて追加コストが発生したといって、当然のようにそのコストを元受の東電に請求し、東電はそれを消費者に請求する。この背景にあるのは、「村」のもたれあい態勢と東芝社内の縦割り文化という徹底的な無責任風土であり、そこに生まれた規律の欠如である。

しかし、東電と東芝の両者を実際に取材した経験では、そこには大きな違いがあったように思える。

東芝は記者たちに好かれる会社だった。少なくとも原発部門以外には、社内のおおらかな雰囲気、経営者や社員たちの人の好さなどが感じられた。

今となってみれば、その風土が規律のゆるみにどこかでつながっていたようにも思えるし、好かれる会社だったからといって、今回の不祥事の言い訳が許されるわけではない。それでも筆者には、今も何人もの東芝関係の友人がいて、粉飾決算や無謀なWH買収で会社を傾かせた経営陣への怨嗟を込めた複雑な心境を聞かされる。そのたびに、彼らをひそかになぐさめたくなるのだ。

彼らの言葉のいくつかに共感したのは、その中に「企業」という「公器」の一員であることの謙虚さを感じさせるものがあったからのような気がする。「会社は世のため、人のために生かされている存在だ」という常識を共有する企業文化といってもいい。

東芝が「総合電機」を標榜する企業だっただけに、原発とそれ以外の部門の、企業内部の対照的な風土は印象的だった。確かに、愚かな経営者によって健全な企業風土までがあっけなく一変し、対外的に嘘に嘘を重ねて投資家や株主を欺いた、そのもろさは企業研究の対象として興味深い。

しかし、あえてそうした企業研究の結論を断定すれば、この老舗名門企業を腐らせたものこそ、「村」から社内に流出した猛毒だったのではないか。社内のだれもが、原発事業がこれほどの猛毒であることに気づかず、気づいても抗えなかった......。


「殿様商売」の文化

それに比べ、自らを「公益企業」と誇る東電の人たちからは、残念ながらそうした共感が伝わってくる場面は少なかった。公益事業に求められる透明性、普遍性がその言葉に感じられなかったからだ。被災地にあっては、今も彼ら東電マンと住民は主従関係にあるかのようにみえる。立地住民だけではなく、大事なお客様である一般家庭や企業、さらには多くの取引先も、東電にとっては目下の存在のようだ。それが直ちに社内の規律の欠如に結びつくとはいえないにせよ、少なくとも安全軽視の風土の背後にこの「殿様商売」の文化があったであろうことは想像に難くない。

東電が引き起こした大事故の結末を正しく解決するには、資本主義経済の埒外にいることを許されてきたこの特殊な存在を、資本の規律の働く世界に引き戻さねばならない。それには、当然、資本の論理に則った手立てが必要だ。東電の株主責任、東電への貸し手責任を明確にし、当たり前のルールに彼らを従わせることである。


5つの条件

一方、東電において、安全の文化が希薄になった原因はそれだけではない。原発という事業の特殊性が、この集団の思考を停止させていたことは見逃せない要因である。

東日本大震災を経験した今日、問題の根を明らかにするにあたって極めて重要なのは、原発事業では、安全上の問題が発生した場合の被害額が、マンションや鉄道など他の産業に比べてけた外れに巨額になること、そしてそれが最初からわかっていたことである。

引当金や保険など通常の会計処理では対策をカバーできない、つまり、企業社会で、この事業を成立させることは極めて困難であることが最初から自明だった。

安全と経済性のバランスを考えれば、普通の企業はそこで立ち止まる。しかし、東電をはじめとする電力企業は、立ち止まらずに思考だけを停止させて、やみくもに事業の強行突破に突き進んだ。それが可能だったのには5つの条件があったからだ。

第1はもちろん国の後ろ盾が前提になっていたことである。第2には規制当局の弱腰だ。先述した「安全と経済性」のバランスを考えるうえで、事業者の最初の判断基準となるのは、原発の場合、原子力規制委員会の示す基準である。この基準が本当に「世界一」厳しければ、地震と津波に備える東電の企業判断は違うものになっていただろうとの指摘はすでに数多く出されている。

「安全」を軽視し、「事業」に突き進む東電に手を貸した第3の存在は司法であり、第4は学界、そして第5はマスコミである。これらのそれぞれについては別稿で詳述するとして、ここで重要なことは、東電を含めすべての当事者の努力が、原発自体の安全性を高める方向ではなく(専門家の多くは、そもそもそんなことは原理的に不可能だとも指摘する)、世の中の目をあらかじめ原発の危険からそらす方向に集中していた点である。


「国民の分断」

安全を最終的に保証するには、安全の受益者である市民社会の制御機能を健全に働かせねばならない。しかし、上記の関係者たちは、逆に市民社会に誤った情報を与えることによってその制御機能をマヒさせてしまった。

その結果、電力の消費者である都市住民・一般納税者と、事業者・立地住民は分断された。こうして、本来必要なはずの安全対策の費用負担は水面下に隠され、安全投資のコストは納税者や電力消費者の目に、不当に、極端に安く提示されて、「原発は安いエネルギー」という詭弁が成立することになった。それこそが、この「国民の分断」の成果であった。

今、「村」に危機感が高まってきたのは、福島原発事故によってこの「分断のからくり」が国民の目に明らかになってきたからである。廃炉事業や被災者への賠償、除染事業などに巨額の税金が投入されつつある今、さすがに政府も「原発の安さ」を言わなくなった。一般納税者との間の情報分断の壁は一気に低くなったのである。そうなれば、国民と立地住民、被災者の距離も狭まる。「村」の危機感は強まる。


日本社会の現実

ここ数年来、事故の風化が言われてきたが、逆に改めて影響の広がりもみられるようになった。被災家族が全国各地に散った結果、事故の情報もおのずと広がっていく。各地で被災地から来た子供がいじめにあった事例が報告されている。日本社会の閉鎖性の表れという見方もできるが、いじめは子供の世界の話だけではない。

被災地の住民の苦しみや希望を伝えた筆者の1年前の記事に、「感情的」という読者のコメントが寄せられたことがある。その感想を読んだ取材先の大手ゼネコン幹部は、「これは被災地住民への差別かいじめ、一種のヘイトスピーチですね。原発への社会の反感はこうした愚かな反応でむしろ逆に強まってしまう」と顔をしかめた。

しかし、この世紀の大事故を風化させることなく次世代の検証に耐える仕組みを確立していくには、そうした愚かさも含めすべてを日本社会の現実として受け止め咀嚼していかねばならない。遠回りであっても、それが市民社会を成熟させ、市民が制御するエネルギーの未来図をつくるうえで欠かせない道であるにちがいない。

吉野源太郎
ジャーナリスト、日本経済研究センター客員研究員。1943年生れ。東京大学文学部卒。67年日本経済新聞社入社。日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て95年より論説委員。2006年3月より現職。デフレ経済の到来や道路公団改革の不充分さなどを的確に予言・指摘してきた。『西武事件』(日本経済新聞社)など著書多数。

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(2017年3月10日フォーサイトより転載)