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橋下市長のメディア対応で思ったこと

2014年03月27日 01時38分 JST | 更新 2014年05月25日 18時12分 JST

週明けの各紙を読んで、大阪市長選に勝利した橋下徹氏の「メディアはこの選挙戦を一切報じていない。当選した後に会見しろなんて、ふざけんじゃない!」として、当選直後の記者会見を予告通りボイコットしたとの記事が目を引いた。

最初に誤解がないよう書いておくが、一連の対応について橋下市長を批判する目的でこのコラムを書くわけではない。一般論として、政治家に限らず、取材を受ける人のメディア対応について思ったことをジャーナリストの端くれとして記してみる。

まず、メディアにはメディアの立場があることを強調したい。言うまでもないことだが、報道機関は保証されている「知る権利」の下、国民が知りたいこと、或いは知らせるべきことを報じるのが社会的責任だ。商業ジャーナリズムの視点においても、ピンとはずれな記事ばかりを掲載、或いはニュースを報道していては、誰も読まなく、視聴しなくなり、やがては経営が行き詰ることは容易に想像できるので、それは同じである。

たとえば、今回の大阪市長選挙、大阪の人でなくても知っている人が多かっただろう。同じ日に千葉県内では木更津市長選挙が行われたが、これは想像の域を出ないながら、千葉県民の中でも、木更津の選挙を知らなくても大阪の選挙を知っていたという人の方が多かったのではないか。選挙自体については報道されていたとみるのが客観的と言える。

その点から、橋下市長が憤っているのは、選挙期間中に自身の主張について、取り上げられなかった点だろう。

ここでポイントになるのは、メディアの立場。圧倒的に橋下候補が有利となる中では、有権者が投票の拠り所にする主張について、どこまで有権者が知りたがっているのかをマスコミの立場で考えた場合、重要度が低いと各報道機関が判断したことは容易に想像がつく。大阪都構想など、これまで幾度となく報じられた内容に変化がないのであればなおさらだ。これが接戦、そうならずとも、ある程度、有力な候補が相手であれば、事情は異なったのだろうが・・。

私が在籍していたロイターのことを書くと、速報性、正確性、公平性の3つの基本原則以外に、ニュースバリュー(価値)、ニュースジャジメント(判断)の大切さについて叩き込まれ、また、後輩記者に口を酸っぱくして説いた。

"価値"は読者が知りたいこと、"判断"はそれに対する記者の対応と言えようか。読者にとって重要度が低いニュースよりも高いニュースを、早く、正しく、偏らず客観的に報じるスキルが求められるのである。

そこで、細心の注意を払っていたのは、重要と思われる内容であっても、公平性に引っかかる場合──具体的に記すと、取材対象者が自分の主張を世に説くために利用しようとしていないか──という点である。

私は在阪メディアの事情は詳しくないし、以下は類推にしか過ぎないながら、今回「一切報じなかった」というのは、橋下市長に利用される恐れがあると各報道機関の記者なりデスクなり、さらにその上の上層部なりが判断したのであろう。それに対する「私のことをずっと、報道していたではないか」とする橋下市長の反論については、当時は知りたい人が多かった──公平性を踏まえた上で報じる"価値"が大きいとメディアが"判断"していたのであり、今回は逆だったのだ──と記者の感覚では見ざるを得ない。

取り上げてくれない点について憤る橋下市長の気持ちは、取材する側からされる側に変わった私にはわかる。自分が強く主張することを取り上げてくれない場合は残念に思うし、反対に取り上げられれば嬉しいので、今回の対応について私は批判するつもりはないのだ。

橋下市長のようにメディア戦略に長けていると言われる議員や首長が国や地方に限らずいるものの、それはあくまでもメディア基準で重要と"判断"されるような政策や政治活動を行っているためと考えた方がいい。ゆえに、世間の関心が薄れれば、取り上げられなくなるのは当然のことなのだ。

また、それを"判断"するのは記者ではあり、自分から働きかけても公平性に難が生じれば、取り上げられないし、その内容が重要である場合は公平性に慎重な配慮がなされ扱われることになる。

もちろん、こうした基本が出来ない記者も存在するのは事実で、それを巷間、"マスゴミ"と称して批判されるケースが少なくない。それに歯痒さを感じることが何度もあった。しかし、特定のメディアの"判断"に関してならまだしも、記者会見に集まるすべてのメディアが取り上げない"判断"を下す──この点については、それなりの理由がメディアにあったと考えるのが普通と思うのである。

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