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スアレス噛み付きの病理と日本代表が完全に見誤った「日本らしさ」

2014年06月28日 23時56分 JST | 更新 2014年06月29日 00時10分 JST

「自分らしさ」なる言葉をちょくちょく見聞きするようになって久しい。多分、個人主義が多様な形で解釈されてゆくなかで萌芽した観念なのだろうけれど、どうにも怪し気な言葉である。これは、例えば、「ええ、なに?ヒラトコが、熱処理すりゃあ大丈夫だろうって、賞味期限切れのはんぺんを焼いて食べたら当ったって?そりゃ、あいつらしいや」の「らしい」とは意味合いが違うらしい。極度に内向的な利己心とでもいおうか、この「自分らしさ」という言葉の背後にはずぶずぶの自己愛が潜んでいるような気がする。

「自分たちのサッカー」、あるいは「日本らしいサッカー」という言葉にも同種の怪しさをぼくは感じずにはいられない。いや、怪しさというよりは、靴を左右逆に履いてしまったような違和感に近いかもしれない。これらもまた非情に内向きな言葉で、いつの間にかキーワードのようなものとして一人歩きしたこれらのフレーズを聞く度に、生き馬の目を抜くフットボール界にあって、いつから日本はそんな立場でいられるようになったのかと、不思議な気がしてならなかった。今回のワールドカップでは、それこそ「自分たちのサッカー」に一家言あるあのオランダでさえ、一先ずそれを棚上げして綿密なスカウティングのもと、超現実路線のカウンターフットボールで戦っているというのに。

まあ、「A型は几帳面」というのと同じで、物事を何かしらの型にはめ込んで考えてみないとすっきりしないところに「日本人らしさ」を感じなくもないけれど、本来、「その国らしいフットボール」とは、対戦相手と自分とを見据え、ストロングポイントとウィークポイントを鑑み、理想主義とリアリズムがせめぎあう中で試行錯誤を重ねた歴史の末に自然と醸成されるべきものであって、観念だけが先んじるのは変な話だ。その観念に拘泥し、常に内向きでいた今回の日本代表は第一義の置き所を完全に見誤った感が否めない。

大体、試合終了後、あれだけ見事なフットボールで格の違いを見せつけたコロンビアに対する賛辞や祝福の言葉が、敗北を喫した側の監督や主立った選手たちから聞こえてこないのは如何なものか。「今日は相手が素晴らしかった。彼らを祝福したい」というのはフットボールで負けた方が口にする定型句であり、ある種の社交辞令のようなものだけれど、そうした言葉すら出てこなかった余裕のなさこそが、今回の代表チームが如何に内向きになり過ぎていたかということの証左である。今大会で「日本らしさ」を世界にアピールしたのはゴミの片付けをしたサポーターの人たちくらいのものだ。

と、まあ、残念ながらFIFAランクが相対的な力関係を示す指標として結構機能していることを証明してしまった日本代表だったけれど(グループCはFIFAランク通りの順位になりましたね)、個人的にそれと同等に残念だったのはスアレスの噛み付き癖再発である。まだこの文章を書いている今の段階ではFIFAの裁定が下っていないので、有罪と決めつけるのもどうかと思うのだが、リプレイで見る限り、がぶりとやっているようにしか見えない。

これが凡百のフットボーラーであれば、また、残念さの度合いも違ったのだろうけれど、現役では数少ないトップ・オブ・トップの一人であるスアレスが"また"やらかしたらしいだけに、無念である。今回の一件が黒と判定されれば、これで噛み付き行為によるお咎めは三回目となるわけで、こうなると重度に精神的な問題であるとしか思えなくなってくる。

昨季、噛み付きによる出場停止が明けてからスアレスの披露した目覚ましいパフォーマンスの背景に、確か高名な精神科医の存在が取り沙汰されたと記憶しているが、もしその人一人の手に余るようであれば、何人かの有名精神科医で徒党を組んでスアレスの噛み付き防止に取り組んでもらいたいものである。それでも彼の精神の奥底に潜む噛み付きの病理を解明するのに時間を要するようであれば、取り急ぎ顔の鼻から下を覆うフェイスガードの下半分バージョンを作成して、スアレスに着用を義務付けて欲しいものだ。がぶりと噛んでゴーホームというのもスアレスらしいと言えばそれまでだが、とにかく、あの才能は余りに惜しい。

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平床 大輔
1976年生まれ。東京都出身。雑文家。1990年代の多くを「サッカー不毛の地」アメリカで過ごすも、1994年のアメリカW杯でサッカーと邂逅。以降、徹頭徹尾、視聴者・観戦者の立場を貫いてきたが、2008年ペン(キーボード)をとる。現在はJ SPORTSにプレミアリーグ関連のコラムを寄稿。

(2014年6月27日「プレミアリーグコラム」より転載)

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