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学問・研究における社会的公正と自由競争-小保方氏問題によせて

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専門外の発言と思えるかもしれないが、社会的機会の均等の問題に実証および社会的発言で深くかかわって来たものとして、見過ごしにできない問題が、小保方晴子氏を巡る報道と、理化学研究所(以下「理研」)や彼女自身の対応にあり、これは日本の外から見て摩訶(まか)不思議に見える。

それは全く異なる3つの事柄について、あたかもそれぞれの評価が他の評価に関係しているかのごとく語られるからだ。3つの事柄とは、STAP細胞の存否と、小保方氏の不正行為と、彼女への監督・指導責任のある人々の過誤の問題である。

■ STAP細胞の存否の評価と論文の不正問題の評価は独立の問題である

理研の調査委員会は調査報告書において、問題となったNature誌の論文について、画像の使用について不正があったと結論した。しかしネット上でも指摘されたGuo論文の盗用については特に問題としなかった。これが不思議である。またこれもネット上での指摘で明らかになり、筆者も確認したが、小保方氏の博士論文には複数の重大な剽窃(plagiarism)がある。

すべて丸写しという形で、剽窃の中でも露骨といえば露骨、稚拙といえば稚拙ともいえるもので、なぜ早稲田における指導教官らが見過ごしたのかがむしろ謎といってよい。問題は博士論文というものの位置づけであり、そこに剽窃問題の評価が絡んでいる。

一般社会では未だ博士論文というのは、何か大きな研究成果のように誤解する人もいるかもしれないし、また、わが国ではかつてそういう意味づけもあり博士号が中堅研究者のそれまでの研究の中間的集大成に対して付与された時代もあった。しかし、現代では博士論文は学術研究者としてのいわば出発点という位置づけであり、それにより独立な研究を行う資格が学会で認められるという意味合いを持つ。

では独立な研究者となる資格とは何か? それは研究テーマについて、独自の発見・洞察ができ、それを普遍的な学問的基準の表現方法に沿いながら、かつ自らの言葉や数式、図表などを用いて他者に伝えることができる、ということである。したがって論文ではきちんとした引用であっても、関連先行研究のレビューの域を超えて、他者の文章であり表現であるものを多用することは、他者の研究による借り物となり、控えるべきものとされる。ましてや、引用でありながらその旨を断らない他者の文章の盗用は論外で、学問では決して許されてはならない行為である。

なぜ他者の言葉・文章を、限られた引用は別として、用いてはならないのか? それは言葉や数式など共有の記号シグナルが思考を伝える文化の根源であり、自分で自分の考えを正確に他者に伝える表現を生み出してこそ初めて独立の思考者といえるからである。

一方小保方氏の博士論文における他者の文章の盗用は広範かつ多岐にわたり、この不正行為の評価は早稲田大学が最終的に決定することであろうが、私の所属するシカゴ大学の基準なら博士号取り消しにとどまらず、懲罰処分が相当の重大なものである。見過ごした大学、特にこの博士論文の審査委員会の過失責任も重大であるが、これが確定すれば、彼女の博士号取得は詐取となる。

また、その肩書を利用した所得や、理研や学術振興会から彼女が受けていた研究費や奨励金も、博士の肩書きが条件であれば、詐取となる可能性が大である。これはSTAP細胞が作られたか否かとは全く独立の問題で、仮に成功していたとしてもそれで許されるものではない。また、仮に指導教官らの不正見過ごしについての重大な過失があったにせよ、その過失が小保方氏自身の博士号詐取の責任を軽減するものではない。

しかし現在のところ、拙速を嫌っているのかも知れないが、早稲田大学は類似の280の博士論文の審査をすると発表しながら、肝心の小保方氏の論文再審査問題の説明責任を果たしていない。もし指導教官らの責任問題と絡めているので結論が出ないのであれば、それは2つの異なる問題の混同といえよう。理研にいたっては一方でNature誌の論文に不正があったと結論しながら、他方で彼女の雇用契約を更新し、あたかもSTAP細胞の存否が彼女の不正自体の評価も定めるといった態度に切り替わっているようにも思える。

■ 機会の均等には公平な競争原理の遵守が重要だ

ここで筆者が強調したいのが、学問・研究における機会の均等と競争原理である。いうまでも無く、競争は学問・研究における進歩の動力の1つであるが、競争が一定の公平な原理の基で行われることが前提であることは、スポーツの世界と同様である。仮にSTAP細胞が存在しようとしまいと、彼女が不正な手段で取得した博士号の利益を一部でも保持できるなら、それは不正行為をせずに博士号を取得した人々、彼女の代わりに職や研究費を得たであろう人々などに対し著しく不公正なだけでなく、いわば正直者が損をする状態を学問・研究の場にもたらす一因となる。

社会の進化ゲーム理論によると、社会に正直者が多数になるか否かは、正直者が得をする社会であるかどうかによる。正直者が多数となる社会が望ましいことはいうまでもなく、正直者が損をする社会にしてはならない。この事件報道のイメージが社会に与える影響が大きいことを考えると、ことは学問・研究を超えて、わが国の今後の社会的公正のあり方一般にも関係するともいえよう。日本の大学・研究機関にとどまらず日本社会の公正さの基準がこの問題への対応で今問われている。

蛇足となるが、小保方氏の不正問題をリケジョ(理系女子)という特性に結び付けて議論する人がいる。もし問題があったとするなら、女性であるということで彼女の研究に対する指導教官、上司の共同研究者などの指導・監督が甘くなったということだが、もしそのようなことがあったのならそれはわが国の企業における女性の部下に対する男性上司の問題と共通する、男性上司の側のダブルスタンダードの問題である。

「甘い基準」というのは、逆に言えば本気で人材育成を考えていないわけで、それでは人材は育たない。わが国で理系研究者の女性割合は14%、大学や公的研究機関を除けば、7%と他の経済先進国に比べ女性の人材活用は著しく遅れている。その改善は、現在内閣府、文部科学省、経済産業省が連携しながら実現しようとしている重要な政策課題である。

この推進に当たって育児・介護など私生活に女性の負担が未だ大きいことから労働時間や働き方の柔軟性について十分配慮することは必要だが、学問・研究であれ、他の仕事であれ、それに伴う責任や評価基準に性別を絡めることは人材育成上決してあってはならないことである。

(なお理研は5月8日に小保方氏の不正に関する懲戒委員会を設置したと発表したが、この記事はそれに先立つ4月28日に経済産業研究所のコラム記事として発表されたものを著者の承諾を得て転載している。)

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小保方晴子氏の記者会見画像集(2014年4月9日・大阪)
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