BLOG

だから私はステージに立ちます --- 中村あやさん

2014年10月15日 00時26分 JST | 更新 2014年12月14日 19時12分 JST

2014-10-13-1.jpg

私たちMy Eyes Tokyo(以下MET)がリアルに出会った素敵な"コスモポリタン"をリアルにご紹介するトークイベント「MET People」。第7回目のゲストは、"日英バイリンガル即興コントグループ"パイレーツ・オブ・東京湾" (Pirates of Tokyo Bay: 以下"POTB")で現在唯一の日本人女性メンバーの中村あやさんです。

METの読者であれば、このグループの名前は一度は耳にしたことがあるかもしれません。今年1月に、当グループのリーダーであるマイク・スタッファーさんをお迎えしての公開インタビューを、MET主催で行わせていただきました(マイクさんとのインタビュー記事はこちらから)。恵比寿や新宿御苑でのショーでは、英語と日本語で際どいジョークを即興で繰り出しながらステージを作り出していく彼ら。マイクさんは「このグループは、遠く故郷を離れて日本で暮らす人たちにとっての家族のようなものなんです」と言いました。だからでしょうか、コントグループにも関わらず、ある種の"気品"を感じます。

会場のお客さんからいきなり投げられたお題に、アドリブで英語と日本語で答える - 私たちはPOTBのステージを見るたび、そんな彼らの技術に驚きを隠せませんでした。しかも"即興+バイリンガル"というのが私たちにとってすごく斬新でした。それはまさに、異文化理解力・情報処理力・瞬発力・語学力などといった、究極のコミュニケーション力の宝庫。そして何よりも、言葉の壁も国境も越えて、人を笑わせよう、人を喜ばせようとする。「人の笑顔を見るのが私たちのhappy!」というホスピタリティに溢れていました。

そんな即興コメディグループの中で数少ない日本人、しかもコメディエンヌのあやさん。美人のお姉さんから突然おばあちゃんになったり変顔したりと「この人、恥ずかしくないのかな?」とすごく気になりました(笑)。"バイリンガル"というバックグラウンドと、POTBで汚れ役も難なく演じるあやさんの姿に、私たちは一気に惹かれました。

あやさんがこれまで歩んできた、私たちの想像を遥かに超える人生の軌跡を、ハフィントンポストをご覧の皆様にもお届けしたく思います。そしてまた、なぜこの10月に彼女のストーリーをお送りするかについても、読み進めていくうちにお分かりいただけるかもしれません。

2014-10-13-2.jpg

*インタビュー@フロマエcafe & ギャラリー(荒川区西日暮里)2014年5月17日

*撮影:佐久間寛朗

*協賛:セレナイト(詳しくはこちらをご覧下さい)



■ 下の下から目指した海外留学

私が地元の公立中学を経て入学した高校は、海外からの帰国子女が多く集まるところでした。当時の私の英語の成績は下の下と言っても良いくらいで、「何でみんな、こんなにうまく話せるんだろう?」と、彼らに対していつも劣等感を感じていました。でも一方で、当時流行っていたNHK海外ドラマ「ビバリーヒルズ青春白書」がすごく好きで、このドラマを吹き替えなしで見てみたい、理解できるようになりたいと思いました。そのうちに「そのためには海外に行ってしまうのが一番早いんじゃないか」と考えるようになりました。

将来の進路を決める高校2年。私は小さい頃からタカラヅカが好きでしたし、叔父が演劇関連の仕事をしていた影響で、海外で演劇を勉強したいと思いました。ただ一口に演劇と言っても、演出家や俳優、脚本家など様々な仕事があります。日本だと将来の道を決めてから専攻を決めなければなりませんが、海外だとあらゆる科目を学びながら専攻を考えることができる。だから私は海外の大学を目指しました。

親の反対や経済的危機を乗り越えて、晴れて米オハイオ州クリーブランドにある大学に入学。でも現地では、相変わらず英語が話せませんでした。「勢いで来てしまったものの、本当に英語がうまくなるんだろうか?」と不安になりました。最初の1~2年は全然英語力が伸びず、親に電話をかけては「しゃべれねえ!(会場爆笑)何でアメリカに来たのにこんなにしゃべれないんだろう?」とボヤいていました。

それでも私には"演劇を学ぶ"という、その先の目標がありましたから、私はひたすら大学と図書館と自宅を往復しました。人と話す時も、とにかく単語をつなげて思いを伝えました。あの時期は"これまでの人生で一番勉強した"と自信を持って言えます。



■ "アジア人"は不利?

クリーブランド時代は、舞台に立ったり舞台裏を務めたりといろいろやりました。そして私は、ダンスや演劇で舞台に立つのが一番好きなんだと感じました。

そんな中、ニューヨークのミュージカル学校のオーディションがクリーブランドで行われるという知らせを、私の先生から聞きました。その学校は、世界中から各国のトップクラスのパフォーマーが集まるところでしたが、面接・演技・課題曲を練習してオーディションに臨み、その学校に合格しました。

大学では、発声方法やコミュニケーションなどの舞台の基本は学びました。でもミュージカルでは歌・踊り・演技のどれか一つが欠けていても良いミュージカル役者とは言えません。私が新たに入学したニューヨークの学校では、それら3つを毎日繰り返し練習しました。幸いなことに私は小さな頃からバレエをやっていたので、ダンスは多少楽でしたが、歌に関しては最後まで大変でした。しかも私はアジア人ゆえに、不利な状況に立たされました。

今でこそ"オープンキャスト"と言って、白人の役をアジア人や他の人種が務めることは稀にあります。でも反対に"タイプキャスト"という、例えば"アジア人""黒髪""黒目""身長155センチ以上""細身"と特徴が決まった役柄があります。それはオーディションを受ける前に分かるので、もしその役柄に自分が合わなかったら、オーディションに行ったところで99.9%落ちます。私がその学校にいた間にあった、アジア人も対象になるオーディションは10以下だったと思います。しかもアジア人役は、韓国系や中国系などの人たちとの競争ですし、ましてアジア人で主役なんてブロードウェイではまずありませんから、脇役だったりチョイ役が良いところでした。それでも、たとえ"170センチ以上"の役柄でも、アジア人役のオーディションは行きました(笑)でもダメなんですよね・・・オーディション会場に行ったら「はい、あなたとあなたは帰って」と、名前を言うチャンスさえくれませんでした。

それでもあきらめずにオーディションを受け続ける日々が、3〜4年続きました。そんな中で、日本の忍者や侍が登場するミュージカルや、"ストレートプレイ"という歌のない舞台に出演するチャンスをいただきました。

2014-10-13-METinterview1.jpg

モダンダンスプロフェッショナルコース卒業公演のリハーサルにて(2009年6月)



■ 突然襲った病

私は、ほとんどホームシックを感じませんでした。海外での生活が楽しくてしょうがなかったんです。周りの人たちもすごく良い方ばかりで、何も文句はありませんでした。それに、寂しいという感情が出る暇もないくらい、目の前に積まれた課題をこなすのに一生懸命だったのも事実でした。アジア系にもチャンスのあるバックダンサーに活路を見出そうと、モダンダンスのレッスンを受けました。

そんな矢先、体調を崩しました。

他の人たちが元気に踊っている時に、自分だけ踊れない。「何かおかしいな」と思いました。それでも「今までストイックに頑張り過ぎたから、疲れがたまったんだろう」と思ってそのまま生活を続けていました。私はそれまで病気にはほとんどかからず、骨折もしたことがない、自分で自慢できるほどの健康体でした。不正出血がありましたが、忙しかったりストレスがたまると生理が遅れるから、それなのだろうと思っていました。

その状態が1ヶ月以上続いて、いよいよ「これは本当におかしい」と思い、病院に行きました。初めに近所の婦人科系の病院に行って検診を受け「大きな病院に行きなさい」と言われました。私はすぐアポを取り、大学病院で検査を受けました。

"子宮頸がん"でした。

しかもかなり悪いステージまで進行していました。初期のステージなら、割と簡単にがん細胞を取り除くことができるのですが、私の場合は子宮の外側にもがんが広がっているかもしれない状態。「すぐにでも治療しないと危険」という状況でした。

家族は日本にいるし、持っていた保険ではとてもカバーできる治療費ではない。アメリカではすごく医療費がかかります。だから私は、日本に帰ることにしました。しかも迅速な対応が必要だったので、荷物をニューヨークに置きっぱなしで帰国しました。ニューヨークの大学病院が紹介してくれた日本の病院に、姉がすぐにアポを取りました。両親が慌てる中、気丈にも姉は、私が帰国する前に全ての手続きをしてくれました。そのおかげで、私はすぐに入院することができました。

2014-10-13-METinterview2.jpg

治療のため日本へ帰国する前日 友人たちと(2009年8月)



■ 闘病中の出会い

一番生存率が高まる治療法として、アメリカでは抗がん剤+放射線がスタンダード治療として確立していました。しかし日本での私の担当医師は私がまだ若いことを考慮して、抗がん剤のみの治療法を提案してくれました。抗がん剤だけでの治療はスタンダードではないから、あくまで「そういう選択肢もある」ということでしたが、アメリカでは一切言われないことでした。私も、そのような選択肢が与えられるなら、放射線なしで治療を受けてみようと思いました。抗がん剤治療は、効果のある人もいればそうでない人もいるとのことですが、自分でそれを受けると決め、医師にその気持ちを伝えました。

まずは抗がん剤の投与を3回受け、それでもし腫瘍が取り除けるほどに小さくなったら手術をする、もしそれでも小さくならない場合は抗がん剤の投与を続けるということになりました。

幸いなことに、投与を始めてから3ヶ月で、手術ができるくらいにまで腫瘍がキューッと小さくなりました。本当に抗がん剤が効いてくれて、担当医師も「奇跡だ」と驚いていました。そして子宮全摘出の手術に臨み、手術後も転移の可能性のあるがん細胞をやっつけるために、抗がん剤の投与を続けました。

抗がん剤には、吐き気など強い副作用がありました。それまでダンスなどを活動的にしていたのに、投与を受けてから最初の1週間は、起き上がるのがやっとでした。でも焦りはありませんでした。「今はこの治療に専念して、良くなりたい」と思って、体調が良くなったらやりたいことをたくさんリストアップしました。ニューヨークに帰ることも頭をよぎりましたが、とにかく今は体力回復に努めようと思いました。さらに当時は日本で友達が全くいなかったから、社会とつながりたかったし、英語力もキープしたかった。人との交流を持てて、英語力も維持できる、そんな活動を探していたところ、あるグループに出会ったのです。



■ 社会とのつながり求め"海賊"に

ある日Facebookを見ていると、たまたま見た英語関連のページで告知が目に留まりました。「東京にある即興コントグループが、オーディションを行います!」。"即興コント"が何なのかすら知りませんでしたが、応募要項に"舞台に立ちたい人""人とのコミュニケーションが好きな人(英語力があれば尚可)"とあり、「これはいい!」と思って日程を見ました。何と翌日でした。

当時の私は帽子とマスクをして近所のスーパーに買い物に出かけていたくらいで、オーディション会場のある渋谷まで行く体力があるか分かりませんでした。でも告知を見た時に「行こう!」と思いました。何となく楽しそうだし、オーディテョンに受かろうという気持ちもなく、あったのは「これが社会と再びつながるきっかけになればいいな」という思いだけでした。

「外国の方ばかりで、大丈夫なの?」という心配性の母(笑)をよそに、私は渋谷に赴き、オーディションの門を叩きました。地下のバーという怪しさ満載の会場でしたが(笑)来ていた人たちは楽しかったので一安心。でもオーディションは3時間の長丁場、立っているのもやっとだった私はいろんなゲームをし、いろんな役柄を演じました。結果として約20名の応募者のうち、私を含む6人が選ばれ、晴れて私は"海賊"になりました。"パイレーツ・オブ・東京湾"(Pirates of Tokyo Bay, POTB)という即興コントグループの一員になったのです。

2014-10-13-METinterview4.jpg

パイレーツ・オブ・東京湾での最初の練習日(2010年9月)



■ みんなの笑顔が私の喜び

先ほども申したように、私は"即興コント"の意味を知りませんでした。グループの一員になったは良いものの、稽古では何も設定が無いまま、とにかく「やれ!」と言われる。それに違和感を感じました。稽?