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「母さんごめん、もう無理だ」 若手記者の書きたい気持ちが前面にでる清々しさ。

2016年03月17日 01時50分 JST | 更新 2016年03月17日 01時50分 JST

日本の新聞に記事がだんだん載らなくなっている。

「読みやすさ」を求めるとして近年、字を大きくし、字数を削ってきたためだ。1980年当時、1ページに約2万字が載っていたが、いまでは1万から多くて12000字。つまり半分近くに減った。ビジュアル化の掛け声でインフォグラフィックスなどが幅を利かせ、記事は短い方が編集者に歓迎される。 

だが新聞はもともと瓦版。街の噂話や人情話を紹介することで読者を獲得してきた。ところが産業として成熟するとともにその機能が細り、読者離れ、ひいては記者離れの一因にさえなっているのではないか。

そんなことを考えたのは、朝日新聞社会部が出版した「母さんごめん、もう無理だ」(幻冬舎)が面白かったからだ。朝日新聞デジタルの企画「きょうも傍聴席にいます。」に載った29本をまとめている。若手記者の提案で始まった企画は有数の人気コンテンツとなり、全国の総局から出稿希望が相次ぐという。

私は36年余りの新聞記者生活のなかで、1年半ほど大阪社会部の司法キャップを務め、大阪地裁の記者クラブに常駐した。裁判担当や検察担当がほかにいるので、法廷に入る機会はそう多くなかった。それでも昼食後の休息を兼ねて、事件の内容も知らないままふらっと刑事事件の傍聴席に座ることがあった。だらだらとした進行でそのうち居眠りすることも多かったが、思わず引き込まれて時がたつのを忘れて夕刻まで聞き入ることもあった。法廷では時に、究極の人間ドラマが展開する。

「母さんごめん、もう無理だ」には、社会的に反響を呼んだ事件も一部で取り上げられているが、多くはふつう新聞には載らない事件である。表題をはじめ、家庭内の話が多い。36年前の夫の不倫を赦せない妻の復讐劇だったり、老母や幼い娘、息子を殺めたり。その裏にある事情をたどることで読者は身につまされ、自分を究極の状況に重ねる。新聞の社会面から消えたディテールがそこにある。

このご時世に新聞社を志望する若者は、衰退産業であり、時にブラック企業的な働き方を求められることを承知のうえで入社してくる。それでも記事を書きたいと思って志すのだろう。しかし現実に入社すると、地方勤務時代こそ、人出不足の地方版を埋めるために記事を書く機会が多いものの、本社の主要部に配属されると、官邸にしろ、警視庁にしろ、兜町にしろ、データマンとしての動きや貢献が求められ、自分の手で長い記事を実際に書く機会は極端に減る。

斜陽と言われて久しい日本の新聞だが、他国と比べれば、まだ相当な贅沢がある。その最たるものが記者の書いた原稿を「紙面がきつい」(スペースがない)という理由でどんどん没にし、ばっさばっさと削ることだ。多くの国の新聞は、数少ない自前の記者の原稿は必ず、一面からのto be continueで全文を載せる。自社の記事にはそれだけコストがかかっていることを知っているのだ。それでも埋まらないスペースは通信社電を使っている。

日本のように、書かずの記者があふれている新聞業界も国際的にはまれだろう。だが書ける記者、書きたい記者にとっては欲求不満が募る。その思いをぶつける場をデジタルに求め、それをまとめた本書からは若手記者たちの書きたい気持ちが伝わってくる。私はそれを清々しく感じた。

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