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痴漢騒動のブラックボックス展に感じた「アート無罪」という考え方の危うさ

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2017年6月、突如「ブラックボックス展」というイベントが話題となった。

イベント内容自体に対する感想や意見は様々だったが、会期終了後、中に入った参加者による「展示内で痴漢をされた」という被害報告が相次いだ。警察に被害届を提出したとブログで報告をした被害者もいる。

しかし、事実であれば卑劣な犯罪行為があり、主催者側も謝罪したにもかかわらず、Twitter上の反応の中には「観客が怪我をしようがレイプされようが殺されようが、それは芸術性を貶めはしない」などというものもあった。

私は、これらの発言を見て、「アート無罪」という言葉を思い出した。「アートのためなら、何をやってもいい」と考える一部のアーティストらが使用する。そのことへの批判を込めた言葉としても使われているようだ。

■ブラックボックス展とは?

『ブラックボックス展』は、2017年5月6日〜6月17日まで東京・六本木のギャラリーで開催された「なかのひとよ」氏によるアートイベント。

来場者のTwitterやブログでの報告を総合すると、このイベントは、複数の来場者が真っ暗闇の空間の中に入るだけ、というものだったようだ。

しかし、内容について一切事前に告知をせず、来場者に対して、会期中は展示内容をネット上で公開することや第三者に口外することを禁止し、承諾した者のみを“同意書”に署名の上で入場させていた。さらに、主催者側は嘘の内容もしくは絶賛・酷評ならば公開可能としていた。

また、会期後半からは「バウンサー」と呼ばれる門番のような男性に入場者の選別をさせ、長時間並んだにもかかわらず入れなかった人が続出。

こうした異例の企画性がTwitterやInstagramを中心に口コミで広がり、平日でも数時間待ちの行列ができるほど話題になった。

しかし、会期終了が近づいた頃から、Twitter上で来場者から「場内で痴漢を受けた」など被害の告発が相次ぎ、6月21日には、主催者側が謝罪文を掲載した

■「ジャングルジム火災」「会場にデリヘル」の背景にも「アート無罪」があった

アートという表現行為と安全性、人権の関係をめぐっては、近年、議論を呼んだ様々な出来事が他にもあった。

例えば、2016年11月には「東京デザインウィーク」で展示されていた木製のジャングルジムが燃え、5歳児が死亡した事故があった。

作品はジャングルジムの骨組みにおがくずが飾られており、中に設置された電球がおがくずを照らすというものだった。鑑賞者はジャングルジムの中に入ることができるようになっていたが、電球の熱が原因となりおがくずに着火したものとみられている。

事故を招くような危険な展示をすべきではなかった。しかしその後、記者会見で主催者が「アート作品なのでいろいろ注文をするのも難しい」と発言したことも、さらに批判を集めた。

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明治神宮外苑で開催されていたイベントで展示物が燃えた火災について会見する、主催者「TOKYO DESIGN WEEK」の川崎健二社長(左)。右は、学校作品展実行委員長を務めた多摩美術大学の田淵諭教授 撮影日:2016年11月06日

また、2016年1月には、京都のギャラリーで「会場に”デリヘル嬢”を呼ぶ」という提案がされたこともあった。

問題になったのは、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで行われた現代アート展で、アーティスト・丹羽良徳氏による「88の提案の実現に向けて」というワークショップ。

その名の通り、丹羽氏の88の提案の中から展示内で4つの提案を実現してみる、という企画で、その一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」というものがあった。

この提案に対して、ある女優・パフォーマーが、丹羽氏にこの行為の危険性を訴えたとTwitter上で発言。

しかし、丹羽氏を擁護した別のアーティストは、「アーティストなんだから人権侵害くらいすることもある」「アートって書かれてる場所の無法性については、少しほっておいてもらえませんかね?」などと批判した。

アートが「アート」であるためには、鑑賞者やそれに関わる人々の身の安全や人権よりも、そのデザインや作品に込められた意味が大切なのだろうか。

「表現の自由」があるとはいえ、それによってその表現が誰かを傷つけることが、本当に正しいと言えるのだろうか。私は疑問を感じた。

■「他人を傷つける作品が増えたのは、自分を安全圏に置くアーティストが増えたことの裏返し」

今回の「ブラックボックス展」の問題点や、「アート無罪」の危うさについて、芸術学が専門の千葉大学の神野真吾准教授に見解を聞いた。

神野准教授は「ブラックボックス展はアートと呼ぶに値しない薄っぺらな作品」としつつ、「何かを逸脱する表現には価値があるが、展示の安全性を確保し、人を傷つけないかどうかを検討するのは当たり前」と話してくれた。

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インタビューに応じた神野准教授

神野准教授自身も、美術館の学芸員として携わった展示で、真っ暗闇の作品の中に人が入る体験型のブースを作った経験があるという。

その展覧会は、迷路の中を真っ暗にして出口で「"あなたが移動した距離”はどのくらいでしたか?」と問いかけるもの。意図したのは、人間が視覚から切り離された時に感覚で空間を認識するのがとても難しいと気付かせることだったという。

事故防止のため、中には手すりをつけて、監視員がいつもいる状況にしました。緊急時にすぐ電気がつけられるようにスイッチも監視員のすぐ側に。中に入るのは1人ずつで、子供が入る時には保護者の方が必ず付きそう。そういった安全対策は絶対に、作品とセットじゃなきゃいけない。

また、「アート無罪」という考え方が教育現場にもあるとして、過去に別の美術系大学の学生を指導した際のエピソードも教えてくれた。

その学生の作品は「他人の家でピンポンダッシュをして、出てきた人を撮影した」という映像作品だった。それに対して批判的なコメントをした神野准教授に対して、その大学の指導者から「すべての芸術表現は誰かを傷つける可能性があるものだ」と、学生を擁護する発言があったのだという。

日本を代表する美術系大学の教員の中に「アート無罪」的な発想があったことに、私はびっくりした。どうしてそんな風になってしまうのだろうか。

神野准教授は、近年の風潮として特に、社会や政治など自分より大きなものに対して批判的な作品が減り、自分を安全圏において弱いものを傷付けるような作品が増えているのではないか、と指摘する。

来場者をたまたま傷つけてしまうということは起こり得る。時には覚悟の上でバンクシーのように、法律を犯すこともあるかもしれない。
だけど、最近僕が気になるのは(ブラックボックス展などのアーティストは)踏み込んだ表現をする場合に、自分を安全な場に置き、自分以外の人に合意無くリスクを負わせるような表現が多い。それはとても違和感がある。
状況を作って、そこで「何か」が起きちゃった、あるいは起こることをサディスティックな、覗き魔的に見るみたいな。結局、全ては弱いものを対象にしてグルグル循環するようなことばかりやっているということ。
(表現って)基本的に人間の暮らしに直結するものなわけだから、社会の有り様とものすごく深く関わっているものが生まれてくるはずだと思うんですよ。
それなのに、政治的な表現活動を自分が危険にさらされてもやる、というのが極端に少ない日本の状況の裏面が、ああいう「お騒がせ」な表現、弱い人に向かう表現を生み出しているということに繋がると思うんですよね。

上記のピンポンダッシュ動画やデリヘルを呼ぼうとしたワークショップ、今回のブラックボックス展は、そういった点で繋がっているのではないだろうか。

主催者が安全対策を怠ったことだけでなく、「一般の来場者や、Twitterで見ていた人も『アート』に巻き込まれている」といった見方をしているらしいことは傲慢に感じる。

何が起こるかわからないまま、対象者や参加者を作品に導入し、自分は被害を受けない安全圏から「見下ろす」ようなものは、即物的な刺激はあるかもしれないが、正しいとは言えないのではないだろうか。

(神野准教授のインタビュー詳細はこちら

■美術教育を学んだ私が思う、「アート無罪」の危うさ

私は大学院で美術教育について学んでいる。

例えば、学校での美術や図工の授業で生徒が他の生徒をひどく傷つけるような作品を制作しているのを見たら、あなたはどうするだろうか。

「表現の自由だから」という理由でそれを作った生徒を肯定し、作品によって傷ついた生徒には「アートなんだから受け入れろ」と納得させるだろうか?

そうではないはずだ。私が育ってきた環境では少なくとも「友達を傷つけることはしてはいけない」「自分がされて嫌なことはしてはいけない」と教えられた。なので、私はきっとそういった作品を作った生徒に対しても「友達を傷つけるようなものはだめだよ」と注意をすると思う。

子供は他人を傷つけてはだめで大人はいい、なんて、そんなことがまかり通るのは絶対におかしいはずだ。

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(イメージ写真)

■鑑賞者も問われていると思う

日常的に美術を学ぶ人も、美術館なんて時々しか行かないという人も、「アート」という言葉について改めて考えてみてほしいと思う。

「アート」とは何か?

それは、明確な答えが存在しない言葉であり、きっと考えれば考えるほどわからなくなる。あなたにとっての答えは一生出ないかもしれない。

しかし、少なくとも誰かを傷付けることを正当化する言葉ではないことは確かだと思う。

「アート」の安全対策を考えることで表現が制限される可能性はある。それはアーティストが自ら問い続けなくてはいけないことだ。

むしろ鑑賞者の側が、「アート無罪」という思考に囚われているのではないか。誰かを傷つける表現や安全対策が不十分な作品に出会った時に、それを容認することは、そうした風潮を助長してしまうことにならないだろうか。

アーティストだけでなく、鑑賞者である私たちも、アートについて思考し続けることから、事態を良くしていくことも可能なのではないかと私は考える。

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