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現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第1回:「映像の世紀から、魔法の世紀へ」

2014年07月29日 22時05分 JST | 更新 2014年09月27日 18時12分 JST

※本記事は「PLANETSチャンネル」にて2014年7月17日掲載された記事を転載したものです。

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落合陽一(おちあい・よういち)

1987年生まれ,メディアアーティスト,日本学術振興会特別研究員DC1,IPA認定スーパークリエータ.名前の由来はプラス(陽)とマイナス(一),父は作家・落合信彦.筑波大学でメディア芸術を学び,東京大学大学院学際情報学府修了.現在,同博士課程在学中.制作のコンセプトは変幻するメディア装置を用いた「コンピュータグラフィクスの実体化」と「事象の電気的再構成」.研究テーマは,HCI,ディスプレイ,メディアアートなど多岐に及び,実世界志向のコンピュータグラフィクスを専門とする.国内外の受賞歴多数.英国国営放送,ディスカバリーチャンネルなどで特集されるなどメディア露出多数.TEDxTokyo yzやTED@Tokyoではスピーカーを務め好評を博した。

■ 前書き――技術でも芸術でもなく

おはようございます、落合陽一です。

僕はコンピュータ研究者とメディア芸術家の、二足のわらじを履いて生きています。人とコンピュータとの関わりをどうやって変えていくかを日々研究しながらも、かたや文化の面からもどのような表現が可能になっていくかを日夜探求しています。コンピュータという知的装置の前で人間はどう関わるのか、そして、それを取り入れてどう生きるべきなのかを、モノを作りながら考え続けて今の年齢になりました。

宇野さんから連載のお話をもらったとき、連載のテーマについてすごく悩みました。コンピュータやテクノロジーの話なのか、これからの文化の話なのか、それとも僕自身の興味ある未来世界のシナリオなのか――。

それは、僕という人間が語るための基軸はどこにあるのかという問題についての悩みでもありました。単に自分の関わるプロジェクトを説明するだけなら、その文脈はいくつも持ち合わせているので困りません。しかし、自分自身について語るときには、やや困難があります。なぜなら僕は、コンピュータ技術と芸術の間で生きている人間で、自分のやっていることを人に説明するとき、自分のモチベーションや意義を、技術と芸術を俯瞰するある種のモノ作りの思想のようなメタの視点から語らないと、なかなか他人に理解されないし、伝わらないからです。

だから、僕の視点から見える世界を語るには、アートでもテクノロジーでもない何か象徴的な言葉が必要だなと常々思っていました。それも、二つの領域を行き来するようなものではなく、そのどちらとも異質で俯瞰的な言葉です。技術でも芸術でもない言葉であり、しかもある種包括的で、世代のキーワードになるような言葉でなくてはならない。そう考えたとき、宇野さんとの対談で出て来た、「魔法の世紀」という言葉が一番しっくりくることに気がついたのでした。

【参考】

YouTube270万再生の"空中浮遊"動画で話題――アーティスト落合陽一氏にインタビューしてみた ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.013 ☆>

20世紀は「映像の世紀」でした。文化の面でも、社会の面でも、テクノロジーの面でも、そうです。

映像技術は、20世紀初頭にアニメーションテクノロジーを発端として生まれました。芸術と技術の両面で世界を変えてきた「映像文化」は、アートとテクノロジーこそが文化を織りなすという観点では、まさにその典型です。その発展は、まさにいくつもの領域にまたがり、映画産業を作り出し、テレビジョンはマスメディアの概念を拡大させ、コンピュータ領域も取り込み、映像をインタラクティブ技術に変えました。

そして、フィルム技術、映写技術、通信技術という分野横断的なテクノロジーの進歩と、それに伴う様々な作家の表現。映像技術は時代のコンテクストとともに発展していったのです。

『映像の世紀』という同名のNHKのドキュメンタリーもありましたが、そんな20世紀を振り返るのに「映像」というキーワードは欠かせません。つまり、映像は一つのパラダイムだったのです。そこには、時間と空間、人間同士のコミュニケーション、イメージの伝達ツール、インタラクティブなコンピュータ、虚構と現実などの多くのコンテクストが内包されています。

しかし、それに対して、僕はここで「映像の世紀から魔法の世紀へ」という変革点を語りたいと思っています。僕にとって「魔法」とは、そんな20世紀に映像が持ったようなコンテクストを内包するような、次なる21世紀のパラダイムを表現した言葉なのです。

■「魔法の世紀」

『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』――「映像の世紀」まっただ中の1973年に、SF作家アーサー・C・クラークは、こんな有名な言葉を残しています。魔法とテクノロジーについて考えたときに皆さんが最初に思い浮かべるのは、この言葉ではないでしょうか。

研究者やエンジニアなど、科学やテクノロジー好きの人間は、この世界に文字通りの「魔法」なんて実現しないと端から信じているので、魔法をあり得ないものとして捉えています。だから、彼らはこの表現に巧妙さを見いだすのだと思います。しかし、この言葉には、有り得ないほどの超技術は文字通りの魔法になりえるのではないかという希望を見いだすことも出来るのです。

実際、アーサー・C・クラークは、20世紀の映画を代表するS.キューブリックの名作『2001年宇宙の旅』の原作者として有名ですが、あの虚構に我々が垣間みた表現は、おそらく21世紀にはこの現実世界でも実現するようになるでしょう。映像で語られるような宇宙の旅の世界を、この地球上に実現するのはやや難しいですが、物体浮遊に関しては研究が進んでいますし、実は僕もそこに関わる一人です。また、政府主導や民間主導での宇宙の開発も進んでいます。

つまり、クラークが描いた「魔法と区別がつかない超技術」の実現は、既に始まっているのです。

ここで重要なのは、なぜそのような技術が実現したのかです。それを可能にしたものこそが、前世紀に戦争の道具として発明され、人類の知的生産からコミュニケーション、映像の中に魔法のような表現などあらゆる場所に革命を実現した「魔法の箱」――コンピュータです。

これらの「超技術」を押し進めるテクノロジー文脈の一つは、間違いなくコンピュータの発展によるデジタルカルチャーです。現在、かつてSFを見て育った子ども達が、このデジタルカルチャーを引っ下げて、コンピュータというツールを多かれ少なかれ巧妙に使い、まさにSFをこの世界に実現しようとしているのです。そう、「魔法の世紀」において、その魔法の素(マナ)となるのは、まさしくコンピュータだと思います。

この連載の目的は、そんなコンピュータとその周囲の文化が織りなすデジタルカルチャーの文脈とその基本的な原理から、コンピュータの特徴を「魔法の世紀」として捉え直すことで見えてくるものについて書いていくことです。

それは、魔法をキーワードにして、デジタルカルチャーを主体に置いたテクノロジーの文脈、メディアアートやインタラクティブアートなどの表現活動、SNSやUGCを始めとしたインターネット文化などが向かう先を理解するために、前世紀的な「映像文化」との対比で読み解いていくということでもあります。

■「魔法」とはなにか

しかし、魔法という言葉に聞き慣れなさを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。実際、魔法という言葉は、どの辞書をたどってみても定義がなかなかに一致をみません。強いていえば「常人には不可能な手法や結果を実現する力のこと」と言ったところであると思います。

では、僕たちが考える魔法のイメージはどこから来ているのでしょうか。

例えば、「ハリーポッター」シリーズを思い浮かべてみてください。あの物語において、魔法使いたちは、ホグワーツで修練した魔法技術を用いて、この世界に奇跡を起こす存在として描かれます。

そこでの魔法の描かれ方で僕が注目したいポイントは、魔法のイメージというものが、魔法によって具現化する実際に体感可能な現象として、ストーリーの中で描かれるところです。そして、その魔法の機序原理についてはあまり多くは語られず、そしてそれ自体は別の現実を描いたファンタジー作品ではあれども、その作品内では世界が完結していることです。これらの特徴は、他のファンタジー作品でも同じではないでしょうか。 以下に、それを定式化します。

1.「現実性」:魔法使いの使う魔法は物理世界(現実)に影響をもたらす

2.「非メディアコンシャス」:完全な動作機序(メディア)は明らかではないが使える。

3.「虚構の消失」:魔法ファンタジーの中にもう一つのファンタジーは存在しない。

もちろん、この連載が目的とするのは、そのようなファンタジーの中で魔法使いが駆使するようなものを語ることではありません。しかし、僕はテクノロジーがまるで魔法のように生活の隅々にまで行き渡った現代と、ファンタジーの魔法のそれには多数の共通点があると考えています。

ここからは、そのことを上記3つの定式化に即して、説明していきます。前章で指摘したのがまさに「現実性」に当たりますから、ここからは「非メディアコンシャス」と「虚構の消失」を説明していきましょう。

■ 非メディアコンシャス――「何が充分なら魔法になり得るのか?」

再び、先に挙げたアーサー・C・クラークの言葉に戻りましょう。充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic)という言葉には、"sufficiently advanced(充分に発達した)"という表現があります。

一体、何が十分に発達したもので、何が魔法を作るのでしょうか。それは、そこにある科学技術を人が意識しなくなったときです。テクノロジーに関する理屈は理解できても、高度に細分化され発達したテクノロジーが、そこにある技術についてユーザーが気に留めないほど高度に振る舞い、そこに技術があることを秘匿すれば、それは実質的に魔法となるわけです。

テクノロジー自体の存在を意識しないほどテクノロジーが発達する。そして、テクノロジー自体は超常的な何かとして意識されなくなる――そのようなビジョンとして、例えば1993年に、Xeroxパロアルト研究所のマークワイザー博士が「21世紀のコンピュータ(The Computer for the 21st century)」の中で提唱した、ユビキタスコンピューティングがあります。

「ユビキタスコンピュータ(世界にあまねく存在するコンピュータ)」は、まさしくそのような概念です。いつでもどこでも互いに接続されたコンピュータが、人間をサポートすることで、人間はテクノロジーを意識しなくなるというビジョンです。

マーク・ワイザー博士の意に反して、この概念は「いつでもどこでも」が強調され、モバイル通信が盛んに行われる社会のことだと曲解されてしまっているように見えます。みなさんもユビキタスコンピューティングと聞くと、コンピュータの見えない世界というよりは、むしろコンピュータに対して意識的な、スマホなどのモバイル端末がたくさんある世界を想像するのではないでしょうか? それは、当初のマーク・ワイザー博士の意と正反対の世界です。

空気みたいな、植物みたいな、そんなアンビエントなコンピュータを実現する。そうすればコンピュータの存在を意識することはなくなります。ハードウェア的にはまだ遠い世界かもしれません。しかし、我々の意識レベルではそれは遠い未来の話ではないと思います。それどころか、今ここで僕らの中で静かに進行中のことだと考えています。

例えば、Twitterを「喫煙所みたいなもの」と表現したり、ネット回線がない場所で「息がしづらい」と言ってみたりしことはありませんでしょうか? 

SNSにどっぷりはまったような人たちにとっては、そのメディアそれ自身は、普段からは意識されない状態になっているので、逆にネットから切断されたときに急にその存在を意識するようになるのです。

僕は、これは既に空気みたいなメディアが実現されつつあるのではないかと思っています。つまり、スマホやハードウェア的なメディアに対しての意識は普段はほぼ消失していて、SNSなどのアプリケーションについての意識が先行しているわけです。メディアとアプリやコンテンツが不可分になっているとも言えるでしょう。

ただし、スマホにおいては、メディアとそれに関わるテクノロジーが消失しているにも関わらず、魔法感は覚えません。

それは、そのメディアにアクセスするためのインターフェースに問題があるのだと思います。つまり、スマートフォンや、コンピュータという出入力装置がまだ充分に魔法的な振る舞いをしていないだけだと考えます。

まず、人間の身体レベルでの入力に対して、その応答がスマホの狭い画面だけだと小さすぎるし、結果が画面という色光だけで返ってくることにも臨場感がありません。しかも、スマート