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「相手の気持ちを考えなさい」か「自分の意見を言いなさい」か

2014年09月19日 14時44分 JST
Malte Mueller via Getty Images

個人的な事情で、ここ数日ヘヴィな交渉をしていた。

日常生活で目にする「交渉」のほとんどは、一方の利得がもう一方の損失になるゼロサム・ゲームだ。というか、そうではない(※Win-Winの関係になる)話し合いは「打ち合わせ」とか「ミーティング」と呼ばれ、「交渉」とは呼ばれない。「商談」は交渉ではない場合が多い。「値切り」は交渉である。ゼロサム・ゲームで自分の利得を最大化するには、相手を負かすしかない。

交渉の最後に、相手側からこんなことを言われた:

「君は頭がいいのかも知れないけれど、社会人として、そして人間として問題があるよ」

とんでもない、私はあまり頭がよくない。たしかに今回の交渉では、私は自分の主張をおおむね通すことができた。しかし、

私は交渉に勝ったのだろうか。

     ◆

たとえば5歳〜6歳ぐらいの兄弟を思い浮かべてほしい。

お兄ちゃんが新しいおもちゃで遊んでいる。とても楽しそうだ。弟はもの欲しそうな目でお兄ちゃんを見ている。お兄ちゃんも、弟の視線には気づいている。がまんしきれなくなった弟は、突然キレて泣き出した。そして兄弟げんかが始まった......。

さて、あなたが親だとしたら兄弟のどちらを先に叱るだろう。

兄に向かって、「弟の気持ちを考えなさい」と叱るだろうか。

それとも弟に向かって、「ちゃんと『貸して』と言いなさい」と叱るだろうか。

もちろんケンカ両成敗で、最終的には兄弟の両方それぞれに反省を促すだろう。しかし、「相手の気持ちを考えること」と「自分の意見を言うこと」のどちらをより優先するだろう。親は欲張りな生き物なので、「相手の気持ちを考えながら自分の意見も言える人」に育ってほしいと願う。が、優先順位をつけるとしたらどちらか。

私の親は、後者だった。

「自分の意見はきちんと言葉にしなさい」

親だけではない、学校の教師や身近な大人たちはみんな同じことを言っていた。そういう指導を受ければ、子供たちは当然、「約束」を重視するようになる。クラスメイト同士で揉めごとになった場合、最終的には「言ったか/言ってないか」が判断基準になった。小学生のころだ。

あるいは掃除や皿洗い、洗濯、宿題を「言われる前にやりなさい」と叱るか、「言われたことはやりなさい」と叱るか。私の周りにいた大人たちは、みんな後者だった。

こうして私は、生粋の契約主義者に育った。

言葉にしているかどうか、約束しているかどうかがすべてだ。相手の考えていることが分かっても、相手がそれを言葉にするまでは気づかないふりをしていい。逆に、自分の意見をちゃんと言葉にしなければ、相手から黙殺されても文句はいえない。そういう価値観で生きる人間になった。

京都に出てきたばかりのころ、この価値観が原因でしばしば苦労した。

京都で出会った人の多くは、自分の意見をはっきりと口にしなかった。世間話や自分たちの状況を並べ立てるばかりで、肝心の「主張」を口にしない。京都人は来客を追い返すときに「ぶぶ漬けでもどうどす?」と言うらしい。この冗談は、個人的経験からいえばリアルすぎて笑えない。

ただし、これは京都人の特徴ではなく、日本のサラリーマンの特徴なのかもしれない。私にとって「京都に出てきたころ=サラリーマンになったころ」なので、ほかの地域のことは分からない。分かるのは、「サラリーマンは意見をはっきり言わない」ということだけだ。

とはいえ、地域性のようなものがあれば面白いな、とは思う。

東京出身の私は、「自分の意見を言いなさい」と教えられて育った。これに対して、もしも京都の子供たちが「相手の気持ちを考えなさい」と教えられて育つとしたら......。それはいずれ大人たちの価値観・性格の差になり、社会風土の違いになるはずだ。

まあ、地域性は誇大妄想かもしれない。しかし、家族性ならどうだろう。家庭ごとの違いなら、まず間違いなくあるはずだ。「相手の気持ちを考えること」と「自分の意見を言うこと」のどちらを優先するのか。各家庭の教育方針によって、子供の価値観は変わる。あなたが人の気持ちを分かる人間に育ったのは、親や教師がそういう教育をほどこしてくれたからだ。

「相手の気持ちを考えること」と「自分の意見を言うこと」は、ふつうは両立できる。

しかし特殊な状況下では、そうも言っていられない。たとえば、相手の気持ちをおもんぱかると自分の不利益になる状況だ。不利益から身を守るためには、相手の感情に目をつぶらざるをえない状況だ。つまり、相手を負かさなければ自分が負ける状況。ゼロサム・ゲーム。要するに「交渉」をするときだ。

冒頭にも書いたとおり、ここ数日、個人的な事情でヘヴィな交渉に当たっていた。

私が持っている交渉術は、大学時代の英語ディベートで学んだものだけだ。これは基本的に相手を「言い負かす」ための技術であり、感情は考慮されない。ジャッジの気持ちを動かすことさえできればよく、相手の気持ちには配慮しなくていいとされている。言い負かされて感情的になるのは、暴言を吐いたり人格否定をするのと同じぐらい厳禁されているからだ。相手の矛盾を客観的に突くことが、もっとも相手を尊敬した態度だと見なされる。

しかし、この態度は日常生活ではむしろ相手の気分を害してしまう。誰だって自分の意見を否定されたくない。客観的・論理的に矛盾をつかれたら、面白くないに決まってる。共感を求めて「Farmers Marketっていいよね」と言っただけなのに、「彼らのどこがいいのか根拠を示してください」なんて返されたら、誰だってカチンとくる。私だってカチンとくる。ディベートにおける相手を尊重した態度は、日常生活では相手をバカにした態度になってしまう。

今回の交渉では、契約上の「正しさ」は私にあった。ルールを正しく守っているのは私であって、何を言われても「だけどルールではこうなってます」と返事をするだけでよかった。

ルール的に正当性のある相手と交渉する場合、感情に訴えるしかない。「ルールでは○○かもしれないけど、堅いことを言うのは無しにしましょうよ」と親しげに接し、「○○は困るんですよ」と泣き落としにかかるのが唯一の戦略になる。無理が通れば道理が引っ込むというワケだ。

であれば、私は感情を閉ざして、合理的な判断を徹底すればいい。結果、私は自分の主張をおおむね通すことができた。

しかし交渉相手とは、険悪なムードになってしまった。

本音をいえば、矛盾を突かれたぐらいで気分を害さないでほしいと思っている。理不尽な要求をしている相手に向かって、「あなたは理不尽だ」と説明しただけだ。われながら論理的で合理的で丁寧な説明だったと思う。なにしろ私は、子供のころから「約束」が大切だと教えられ、「約束」を守らないほうが悪だと教えられた。

そして「交渉」はゼロサム・ゲームだ。

たとえば将棋もゼロサム・ゲームだが、相手が可哀想だからという理由で手を緩める棋士はいない。Magic: the Gatheringはコミュニケーションのゲームだと言われるが、しかし相手の感情をおもんぱかって手を抜くのは、むしろ相手にとって失礼にあたる。同様に、交渉において重要なのは「相手の気持ちを考えること」よりも、まず「自分の意見を言うこと」だ。京都人は(あるいはサラリーマンは)意見をはっきり言わないらしいが、それではそもそも「交渉」にならない。

相手の気持ちを考える能力は、「交渉」ではない場で発揮すればいい。「打ち合わせ」や「ミーティング」と呼ばれるようなWin-Winの関係を構築できる場では、相手の気持ちを読む能力が重要になる。しかし、ゼロサム・ゲームでは違うのだ。

これが私の本音だ。

しかし世の中は、私の思うとおりにはできていない。

ヒトは、険悪なムードを避ける傾向にある。だからこそ「泣き落とし」が効力を持ちうる。ガチガチに論理武装した私だって、例外ではない。感情論で攻めてくる相手への最適な戦略として、私は感情を閉ざした。だけど、苦しかった。自分の正当性を訴えるたびに、胸が痛んだ。相手の矛盾を指摘するたびに、息が止まりそうになった。

険悪なムードがイヤだからだ。相手の不愉快が、手に取るように分かるからだ。

大抵のものごとでは、短期的には敵対的でも、長期的には協力的であったほうがいい。人間は協力によってお互いの利益を伸ばすことができる生き物だ。たしかに今回の交渉で、私は自分の要求を通すことができた。しかし険悪なムードになったことで、長期的な利益の一部を失った。

「君は頭がいいのかも知れないけれど、社会人として、そして人間として問題があるよ」

とんでもない、私はあまり頭がよくない。

相手を怒らせるほど愚かで、捨てゼリフを真に受けて凹むほど未熟だ。

※参考

結局のところ「はっきり言うこと」に勝るコミュニケーションはない

http://www.lifehacker.jp/2012/11/1211121direct.html

日本人がYes/Noを明確に言うことで、実は欧米人は結構傷ついている、という話+そんな欧米人と、円滑に仕事するには?

http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2010/04/yesno-45d4.html

(2013年3月13日「デマこい!」より転載)