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高齢社会に生きる困難さについて

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風前の灯火の宗教心


毎年この時期はお盆を理由に欠かさず帰省している。10年くらいの間に父母の死が相次いだこともあり、さすがに他の予定を入れることははばかられる。親戚やご近所さんの目を意識してしまうこともある。普段は東京圏内にいて、故郷に帰るのは、1年に1~2度、しかも年々トータルの日数も減ってきているような状況だが、冠婚葬祭関連の行事の中でも人の生死に関わる『葬』の部分の制約は今でもそれなりに強いものを感じる(少なくとも私は感じる)。普段はほとんど意識することはない、この『制約される感じ』こそ、自分に残された最後の、そして最低限の宗教心と言えるのかもしれない。だが、その最後の宗教心も、風前の灯火だ。父母を見送って、これからは縁が遠くなっていく一方だからだ。

普段都会にいる私ばかりではなく、地元に残った友人の意識も似たり寄ったりで、誰にとっても、お寺に払うお布施や墓所の維持費等の負担は重く、その分の有り難みを感じているわけでもないから心理的な費用対効果は下がる一方だ(バチあたり? かもしれない)。自分の後を任せる子供の数は少なく、また、いなかったりする。将来に渡って現状のレベルの『葬』が維持できると考えている人を最近はほとんど見なくなった。

『寺院消滅』*1という本には、『限界集落』の問題とパラレルに進む深刻な寺院消滅の事例が沢山紹介されているが、実際にはこのもう少し手前、もうすぐ『寺院消滅』を感じている階層の広がりこそ、実は本当に深刻な問題なのだと思う。何せこの問題、これだけ広がっているわりには、どう考えてみても出口がない。

宗教心を確認しあうお盆


海外に行くことが多いと、いやでも『あなたの宗教は何?』という質問を繰り返し受け、『信仰が厚い人』と自分を比較してみることを余儀なくされる。『自分の宗教』、『自分の宗教心』という、それまで考えてみたことさえなかったことを意識させられる。そして自問する。『自分って仏教徒?』『いまさらだけど仏教って何?』

その気になって仏教について調べてみるとすぐにわかることだが、日本仏教の多くは、明らかに日本なりのバイアスがかかっていて、多くはいわば『先祖崇拝教』とでもいうべき内容になっている。オリジナルとはかなり様相が異なる。例えば、お釈迦様の教えの原型をできるだけ厳密にトレースしようとする初期仏教(小乗仏教)系の厳しい戒律、修行、その上での悟り等、初めて接した日本人は、驚いてしまうのではないか。そしてこんな感想を漏らすかもしれない。『それって本当に仏教ですか?』

もちろん違うことが良いとか悪いとか言おうとしているわけではない。ともあれ、日本には日本人なりの仏教があり(もちろん沢山の宗派はあり、それぞれの違いも実は結構大きい)先祖崇拝が無意識的にであれ、多くの日本人の信仰心の柱になっているように思われると言っているだけだ。そして、その信仰心からくる道徳観も何となく共有化され、それゆえに日本人らしい思考、嗜好、そして、統合が可能になっているように見える。これこそ日本人の『宗教感情』とでもいうべきものだろう。そして、普段は忘れていても、お葬式のような人生最後の厳粛な場で、その宗教感情を思い出し、お寺を中心とした、ご先祖様まで遡る、一族/親戚コミュニティの絆を確認しあう。お盆という行事は、特定の葬儀がなくても、毎年それを思い出す機会として機能していたといえる。

老人の自尊心と充実感


帰省の機会などに、地元の古老と話をしていると、古い家系図をちゃんとメインテナンスしていて、自分が先祖と子孫のバトンの受け渡し役になっていてることに誇りを持ち、不思議に充実を感じている場面に出くわすことは少なくない。自分の仕事で何を達成したとか、財産を増やしたかという問題ではなく、そこに位置付けられて存在していることの充実感というか、自分が後代にバトンを渡すことができる安心感のようなものが感じられる。思えば、これは非常に貴重な高齢者の生きがいというか、『悟り』であり、社会を安定させる秘訣として機能して来たのだろう。その社会における高齢者の存在感の源泉にもなっていたと考えられる。しかし、こんな『充実感』など、すでに幻のような儚い存在だ。遠からず跡形もなく消えてしまうだろう。少なくとも私や私の友人達には伝承されているとは言い難い。

寿命だけ伸びても・・


終戦直後の昭和22年(1947年)に、男性50歳、女性54歳だった日本人の平均寿命は、平成21年(2009年)には男性80歳、女性 86歳となっており、この間に何と30歳も伸びた。*2しかも、今後は医療技術の飛躍的進歩が予想されているから、もっと伸びて行くかもしれない。ところが、一方で、経済的に困窮する老人が激増することも予想されている。『のんびりと旅行』なんていう訳にはいかなくなる。生涯未婚率も高くなり、また、余命が伸びるから夫か妻のどちらかが先立って一人になる期間も伸びるが、子供との同居はしないことが普通になり、独居の孤独な老人もまた激増する。そして、これまでの高齢者の『充実感』や『存在感』は薄らぎ、消えていく。こんなことでは、大抵の人にとっては寿命が伸びることは寿ぐどころか、刑期をいたずらに延長される囚人のように呪うべきことになって行くのではないかと心配になってくる。

経済的な対応だけでは解けない課題


ここから見えてくるのは、高齢者の問題は、経済的な対応が重要なことは言うまでもないが、それだけでは解決できない何かが決定的に重要な役割を果たしていて、今それが皆の知らぬ間に静かに消えていこうとしている風景だ。そのことは、皆、もっと真剣に考えてみる必要があると思うのは私だけだろうか。

昔話や、近代以前の伝統的な風習の残る社会について書かれたものを読んでいると、『長老』『村の長』『ご隠居』とかいった、人生の風雪を越えて『悟り』を得たような老人が出てくるし、また、その社会がそういう存在の必要性を認め、尊重していることがわかる。心理学者のカール・ユングが言う『老賢人(あるいは老賢者)』のイメージだ。*3。だが、現代社会では、この『老賢人』を見つけることが大変難しくなっているし、どうすれば『老賢人』になれるのか、そんな情報を見つけることもまた極めて難しい。経営者として成功して財を成せばいいのか。政治家として立身出世して功成り名遂げればいいのか。どうもそれだけではなさそうだ。仏門に入って修行して悟ればいいのか。確かに、これが一番イメージに近いとも言えるが、これは現代社会ではその必要性をほとんど受け入れられない/認められない存在だろう。社会の価値意識、価値観が違いすぎる。少なくともこういう点では、社会は豊饒さを失いつつあると言っても過言ではないだろう。

『老賢人』存在の価値を認め、尊重するような社会を再構築できるのか。そんな問いをたててみることが、急激な高齢社会が到来しつつある今、社会の『中核』にある課題のように思えてならない。

(2015年8月18日「情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)

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