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お寺を継ぐべきか迷っているあなたへ(前編)

2014年08月06日 16時29分 JST | 更新 2014年10月05日 18時12分 JST
Yagi Studio via Getty Images

先日、お寺の子弟で実家の後を継ぐかどうか迷っている、

という20代半ばの方から相談がありました。

継ぐべきか、継がないべきか。

お寺に限らず悩んでおられる方は多いでしょうね。

父の会社を継がずに坊さんになった私が何か言える立場でも

ありませんが、私なりに、お寺の後を継ぐということについて

考えるよい機会にもなりました。

日本全国に7万を超えるお寺があるというなら、

それと同じだけ悩みや葛藤もあるのだと思います。

継ぐべきか、継がないべきか。

私のお話しが何かしらの参考になる方もおられることを願って、

ここに載せます。

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Q:

実家が、北関東の田舎にある禅宗のお寺です。

住職である父さんからは

「これからはお寺一本で食べていける時代ではないし、

お前は坊さんにならなくてもいい」と言われています。

でも、本当は父さんが心の中で自分に後を継いで欲しいと思っているはずだし、

その期待には応えたいと思います。

正直、住職になることには前向きな気持ちではなくて、

親が望むから継がなきゃいけない、という意識です。

仏教の知識も、少し本をかじったくらいしかないです。

今のまま継いでもいずれ家族を持ったときにお金に困るだろうから、

今のうちに自分なりのビジネスを立ち上げています。

自分が僧侶になることについて、

先輩の立場から何かアドバイスいただけますか?

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A:

【お寺は預かりもの】

お父さんの期待に応えようというのは、ひとつ大事なことだと思います。ただ、これは決して忘れないで欲しいのですが、お寺は住職一家の私有財産・所有物ではありません。大勢の檀家さんに支えられて成り立つのがお寺であり、それをお預かりするのが住職の役割です。さらに言えば、お預かりするのは今目の前にあるお寺の伽藍や、それを支える檀家さんの思いだけではありません。境内に墓地や納骨堂のあるお寺も少なくないですが、そこにはたくさんの亡き方々が眠っておられます。お寺を預かるということは、300年、400年というお寺の歴史を預かることでもあり、過去ご本尊に手を合わせた数え切れない死者の存在の記憶を預かることでもあります。

絶え間なく変化し続ける社会の中で、お寺という場はある意味で永遠性を託された場です。「諸行無常=一切は過ぎ行く」と観ずる仏教の考えからすると矛盾するかもしれませんが、自分がこの世に生きた証を残したい、この世を離れても自分が確かなものとつながっていると信じたいのが、人情というものです。大乗仏教は解脱ばかりでなく救済の道でもありますから、人情に寄り添うことが大切な局面もあります。

日本のお寺はそのような日本人の心情に対して、仏教というより先祖教というあり方で応えてきました。これまでは、イエというものが永遠性につらなるご縁の縦糸として個々人において機能し、そのイエの象徴としてのお墓を預かるかたちで、お寺は間接的に永遠性を担保してきたといえます。しかし、イエという観念が希薄になった現代人にとっては、イエはもはや永遠性の象徴にはなりません。不安な個人に対してお寺そのものがダイレクトに永遠性を担うことが期待されます。

その意味で、これまでのお寺は「仏教寺院」という看板を掲げながらも、大部分は先祖教の受け皿として機能してきたわけですが、これからはより仏教が前面に出て来なければ、役割を果たせなくなると思います。今までのように、イエという観念に頼るわけにはいきません。もちろん、お寺の先祖教としての役割がいきなりゼロになるわけではありませんが、仏教寺院としてのお寺の役割がより大きくなるでしょう。そこでは住職が宗教者として永遠性の物語をつむぎ、皆と共有する力が問われます。住職としては厳しい時代になりますが、やりがいのある時代でもあります。

【跡継ぎという立場をどう受け取るか】

これから日本の人口が減りますから、それに伴って、お寺に生まれる経済活動によって生活を成り立たせられる住職の数も減らざるを得ません。住職としてお寺を預かる責務を果たすことのみで生計を立てられる専業住職の数も減り、兼業のお寺がますます増えると思います。住職一本で生活できる人が偉くて、兼業は中途半端だからダメということは決してありません。家業としては成り立たない中でもなんとかして自分の代で預かったお寺を次の世代へつなごうという努力は、尊いものだと思います。

現代のお寺のほとんどは世襲です。一般家庭から仏門に入った私はどちらかといえば例外的ですが、「なぜ僧侶になるのか?なぜ禅宗なのか? だって、そこに生まれちゃったんだもん」というところから始めなければならないのが、現代の僧侶のあり方です。私のように外から仏門をくぐる人より、世襲の僧侶は僧侶であることに自信を持ちにくい、気の毒な面もあります。でも、世襲が悪いということはありません。「生まれちゃった」ということも、大きな大きなご縁です。お寺の跡継ぎは、若いうちはそれをしがらみと感じて反発する人も多いですが、ご縁はその受け止め方次第です。

たとえば、あなたが働いている周りにいる、しがらみのない自由を謳歌しているように見える東京のビジネスマンなども、実際には生きる意味を見いだせない根無し草のような日々を忙しさでごまかしている人も少なくないでしょう。あらゆるものがコモディティ化する世界、人すらも「人材」という呼び方で交換可能なパーツとして扱われる世界の中で、多くの人がしがらみもないけどつながりもない不安な人生を送っています。

その点、たとえどんなに無名の小さなお寺だったとしても、300年、400年というお寺の歴史に十何代住職などとして連なることが期待される唯一無二の立場にあり、住職や檀家さんから「あなたにこそやってほしい」と言ってもらえるお寺の跡継ぎという立場は、相当に恵まれたご縁です。お寺が裕福であろうと貧乏であろうと、自分の「生きる意味」を見いだしやすい豊かなご縁の中にあるということは、それ自体がとても幸せなことです。

そういうご縁を、「しがらみ」と受け取るか「つながり」と受け取るかは、あなた次第です。若いうちには「しがらみ」としか思えないかもしれません。それでもなお、「今はしがらみとしか思えないけど、それを大切にしてみよう」と思うのなら、そのご縁を引き受けて進んでみたらいいですし、「やっぱりしがらみは嫌だ」と思うなら、お寺を継がなくたっていいんです。

2014年7月14日付「彼岸寺」のコラムを転載)