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「主義」ではなく、「趣味」を生きていきませんか?――菜食「趣味」を持つ者からの提案

2014年06月19日 15時37分 JST | 更新 2014年08月18日 18時12分 JST

野菜中心の食生活をはじめて、もう一年以上になるだろうか。たんぱく質は主に豆腐や厚揚げなどの大豆製品から摂っている。卵や魚は時折。肉は自分では選ばない。

とは言え、生活の中から肉というものを完全に排除しているわけではなく、外出先でお出しいただいたらおいしくいただくし、心の底から「いま、どうしてもお肉が食べたい!」となった場合は(めったにないが)、胃にもたれない程度の量を、よく噛んで味わって楽しんでいる。

「なんでそんな生活してるの?」と聞かれたら、「趣味だから......」と答える。そう、私は、菜食「主義」ではなく、菜食「趣味」を持つ人間なのだ。

心身が真に欲する食べ物を追っていったら、いつの間にやらこんなスタイルに落ち着いていたのだ。「野菜美味しいなあ!」「豆腐も美味しいなあ!」を追求していたら、自然に肉を選ばなくなっていった。同じ金額を払うなら、スーパーの安いお肉より、角のお豆腐屋さんが丁寧に作ったおいしい厚揚げを買いますよ、と。それだけだ。特別な主義・主張があるわけではない。完全に、「趣味」の範疇で楽しんでいる。

それでいいんじゃないかな、と思っている。

そもそも「食」に主義・主張なんてものは、必要なんだろうか? 「食」は本来、個人的な感性の上で楽しむものではなかったか。いや、生命の根幹に関わってくる問題である以上、それだけではやっていけない部分もあるのかもしれない。しかし、主義・主張にしがみつくことによって個人的な感性というものを完全に排除してしまったら、それこそ本末転倒なのではないか、と思うのだ。そしてこの世の中には、残念ながらそんな風になってしまっているケースが、とても多くみられるように思うのだ。

たとえば、菜食主義者の弁として、「動物だって私たちと同じいのちを持っているのです。肉食は鬼畜の所業です。だから私は菜食を選びました」というものがある。ごもっともである。でも、「動物だけがいのちなんですか? 魚はどうなんですか? 野菜や果物はどうなんですか? いのちじゃないんですか?」と、肉食をする人々にツッコまれたときに、納得のいく答えを出している人を、残念ながらなかなか見かけないのだ。

「野菜や果物などの植物は、私たちに食べられるために生まれてきたのだから、食べてもいいのです」とか、「植物は痛みを感じることはないから大丈夫なのです」とか......。なにを根拠にこんなことを言っているのだろうか。一度植物自身になったことがある人でなきゃ、こんなことは言えないはずなのだが。となると、おそらく「誰かがそう言っているのを聞いたことがある」とか「なにかの本にそう書いてあった」とかいうところから、こういった回答を引っ張ってくるのだろう。

しかしこれは大きな問題だと思うのだ。なぜなら軸が「誰か」や「なにか」の方に移行してしまっているから。彼らの回答を聞いていると、どうも「自分」というものがお留守になっているような、エネルギーが絶対的に足りていないような、どことなく心もとないような、寒々とした感覚を覚えてしまうのだ。

「動物を殺して食べることは、自分の感性的に、絶対にナシなんです。だから私は肉を食べません」

「野菜を食べることは、自分の感性に照らし合わせてみるとOKな行為なんです。だからありがたくいただいています」

どうして胸を張ってこんな風に言えないのだろうか。

上に挙げた二つの例は、一見してものすごく乱暴な理論のように思われるのだが、実はもっとも筋の通った回答なのではないかと思うのだ。だってこの世には本当は「善」も「悪」もないのだから。法に触れるようなタイプの事物でない限り、善悪を決めるのは、個々人に備わった感性だ。決して「誰か」や「なにか」ではないのだ。

主義や主張を持つことは悪いことではない。しかし、それに自分のすべてを預けてしまうのは問題だ。それはものすごく不自然なことだからだ。個々の感性は少しずつ違って当たり前だし、しかも常に変化しているものなのに、それを無理やり一本にまとめて固定化しようとするから齟齬が生まれる。個人のエネルギーが奪われてしまう。こうして、頭でっかちで生気の感じられない「現代人」が数多く生み出されることになる。

「誰か」や「なにか」といった外側のものではなく、「自分」がどう感じるか。個々人の感性に逐一忠実に選ばれたものであれば、肉を食べようが、野菜だけを食べようが、なにも問題はないし、誰にも文句を言われる筋合いはないのだと思う。そしてこれは「食」以外の生活全般にも当てはまることだと思う。法に触れない限り、私たちには自分の感性に従って生きる自由があるのだ。

自分に備わった感性が「イエス」と判断したことだけを選択して生きていく。現代の人々はどうしたってそれが苦手だ。自分の感性をいまいち信じ切れないのだ。だから「誰か」や「なにか」といった外側のものに頼ってしまう。しかし、そこに求める答えはない。答えはいつだって自分の中にしかない。そして、それを見出すのも自分しかいないのだ。そこを自覚して、地に足をつけて生きていくしかない。

ぜんぶ「自分」で選んでいくというのは、面倒だし、責任が重いし、たいそう億劫なことではある。でも、そこにしか本当の意味での生きるよろこびはないと思うのだ。

「趣味」と言うと軽々しく聞こえるかもしれないが、私は、これほど尊い行為もないと思うのだ。「趣味」は自分の感性に忠実に選ばれた行動だから。そして「趣味」を楽しんでいる限り、人は、同様に「趣味」を楽しむ誰かの行動を、非難したり攻撃したりしないものだから。すべての人がこんな風に生きられたら、互いを認め合い、穏やかに共存していく、やさしい世界が実現するのではないかと、私なんかは考える。

ということで、これからは、「主義」ではなく、「趣味」を生きていきませんか?

以上、菜食「趣味」を持つ者からの提案でした。